7.決断(3)
今のところ恋愛未満な感じの男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。
『ぼくはアーリャネッロには行かない』
翌朝ルキシスがエルミューダの世話をしていると、フラヴィオが普段よりもいくらか気安い服装でやって来てそう言った。
『そうですか』
ということは、ザネッティ家の本邸を攻めて家督を奪う覚悟が決まったということだろうか。
『おまえと少し話がしたい。時間を取れるか』
戦争も終わったし、エルミューダと遊ぶ以外に特に用事もないのでそれは構わなかった。エルミューダをザネッティ家の下男たちの手に委ね、ルキシスはフラヴィオの後ろに続いて彼の幕屋へと入った。
幕屋の中にはジャコモがいて、それは別に構わない。だがどういうわけかギルウィルドまでいた。彼はルキシスとは目を合わせず、椅子に腰かけてじっと前を見据えていた。
『そちらへ』
フラヴィオはギルウィルドの隣にひとつ置かれた空の椅子をルキシスへ勧めた。別に否やはない。勧められたとおりに腰を下ろす。
ルキシスが腰掛けたのを見届けてから、フラヴィオは机を挟んで向かいに置かれた主の椅子に腰を下ろした。その傍らにジャコモが進み出る。
『結論から言う。父や父の妻や、弟を討つことはできない』
おやおや。
ならば一生、刺客に追い回される暮らしをするということだろうか。父の命令のまま、死ぬまで戦場を巡らされて。それを本気でやろうと思ったら彼の兵団を立ち上げるしかあるまい。父の命令どおり戦場で戦うため、父やその妻から自らの身を守るため、もちろん自分自身の口を糊するために。つまりは傭兵になるということだ。貴族の御曹司が、悪く言ってしまえばそうやって身を落とすということだ。
だがルキシスの予想を裏切り、フラヴィオは違うことを言った。
『ぼくは逃げる』
『――逃げる?』
それはあまりに奇怪な言葉に聞こえた。
『父や父の妻がぼくに関心を失うまで』
どういうことやら。
『大陸を出ようと思う』
は? と言いかけて、かろうじて言葉を飲み込んだ。ただ間抜けに口がぱかっと開いた。
『今回のことでよく分かった。ぼくは戦場には向いていない』
ルキシスは、戦闘の際の彼の姿を見ていない。彼のそばを離れ、海を泳いだり崖を登ったり城壁を越えたりしていたから。
血を見るのがつらかったのだろうか。そんなものはいずれ慣れるが、慣れる前に心身を病む人間もいる。
『……そうですか』
『母の遺産があるが、いつまでもそれに頼り続けることもできない。かと言っておまえたちのように戦場で金を稼いで生きていくということも、想像することは難しい』
ならばここにルキシスを呼んだ理由は何だろう。父やその妻と戦うわけでもない。兵団を立ち上げるわけでもない。戦争は終わって、ならば通訳の仕事もぼちぼち終わりだ。自分と話をする必要などなさそうだが。
『リーガタから船に乗る』
突然知らない地名が出てきて、ルキシスは幾分戸惑った。船に乗るというからには港町ということだろうが。
『大陸を出て南へ行く』
南へ。大陸の南端から船に乗ってさらに南へ下れば、そこには別の大陸があると知識の上では知っていた。つまりフラヴィオは、南の大陸へ遁走すると言っているのか。
素っ頓狂なことを言うものである。
『わたしがどうこう言う筋ではありませんが、どうやって生きていかれるのですか』
そこには知らない人々が暮らしている。外見も、言葉も、文化も、歴史も、ありとあらゆるすべてが違うと聞く。
そのような場所で自らを養っていく方法を、この少年は心得ているというのだろうか。
『心配してくれるのか』
ありがとう、と素直に礼を述べて、フラヴィオはかすかな微笑みを浮かべた。久しぶりに見る少年の笑顔だった。
『母の生家が商売をしている。南の大陸にもいくつか出先の拠点がある。そこで働かせてもらおうと』
働く。
ルキシスは何も言わなかったが、顔には出ていたかもしれない。
貴族の御曹司に生まれて、今の今まで一度だって労働などしたことのない身の上である。働いて生きるということの意味を分かっているのか。
(――だが、同じか)
ルキシスだってそうだ。島主の一族の家に生まれて、嫁いで、追放されるまで一度だって労働などしたことがなかった。刺繍をして、竪琴を弾いて、本を読んだり語学の勉強をしたりして、ろくに家の外に出ることもなく何も考えずにうすらぼんやりと生きていた。
でも今は違う。自分で自分を生かしている。
それはそうしなければならなかったからではあるが、誰しもがそのような場面にぶち当たる可能性はある。
ルキシスだって追放されなければ生涯島を出ることなどなかったはずだ。そんな想像をすることさえ。
『大陸を出てしまいさえすればさすがにあの女の手も及ばないだろう』
それはそうかもしれない。所詮は素人の女の手である。すでにあちらこちらぼろは出ているし、できることには限度があるだろう。
『もとより、ジャコモと話して――母の生家とも、相談していたことだ』
フラヴィオのその言葉には少し驚いた。そのようなそぶりは見せていなかったものを。
『だがぼくにはずっと、決めることができないでいた』
自分自身でそれを決断するというのはやはり困難なことではあるだろうと、腑に落ちる気はした。
同じだからだ。ルキシスだって、自分自身で決断して島を出たわけではなかった。追放されて、いられなくなってしまっただけだった。
『しかしもう猶予はないと分かった。おまえの提案は正しいのかもしれない。そうした手段によって冠を戴いた歴史上の王者も多いだろう。だがぼくには家族を手にかけることはできない』
故郷を捨てるという決断でさえ難しい。
家族を討つとなるとなおさらか。
『今回戦果を上げれば父も認めてくれるかもしれないと思っていた』
それはルキシスに対して聞かせるというよりは、彼が自分自身の思考を整理するための時間だったのかもしれない。そう思ったから黙って、その朴訥とした語り口の言葉を聞いていた。
『でもそうはならなかった。望むべくでなかった。それはぼくの甘さだ』
甘さ――と言ってしまえばそうだろう。だが少年はまだ父と子の情を信じて一縷の望みを託していた。
『リーガタの街にさえ行けば母の生家が船に乗せてくれる話になっている』
それはここからどれくらい遠いのだろう。あまり南部の地理の細かい部分まで頭に入っているわけではないので分からなかった。
『何事も親がかりだ。話をつけたのはジャコモだ。船も、大陸の外の拠点も母の生家のものだ』
まあ、よいではないか。立派な大人、などとルキシスも口では言ったが、まだ十五歳だ。老騎士と生母を、親として頼みにしたところで責められるほどのことでもあるまい。
『逃げることは耐えがたいことだと思っていた』
誇り高いソヴィーニ人。なるほど、戦いを避けて逃れることを屈辱と感じる一面もあるのだろう。一方で血腥いことを、この少年は得手としていないらしいが。
『逃げるとは思わないようにしようと思う。代わりに、生きることだと』
(単なる言葉遊びだと切り捨ててしまうのは可哀想だ)
素直にそう思った。
本音を言えば、今でも、父だろうが父の後妻だろうが何でもさっさと殺してしまえばよいと思っている。
でもそれが彼らには難しいということも、段々と分かり始めていた。
彼の選ぶ道はルキシスの考えとは相容れない。けれどこれが彼にとっての、生きるための戦いなのだということは理解できる。
前を向こうとするのはいずれにせよ――。
(悪いことではない)
島を追放された当初、自分はそうではなかった。何が起こったのか、これから自分がどうやって生きていけばよいのか、何も分からないまま失ったものばかり見つめて呆然としていた。ただ人殺しが上手だったので、たまたまそれで自分が殺されないで済んだだけだった。
『良いご決断かと』
もしも自分がフラヴィオのように考えていたとしたらどうなっていただろう。少なくとも今とは違う人生になっていたはずだが、想像もつかない。むろん、良いとも悪いとも分からない。
ありがとう、と言って少年はルキシスと視線を合わせて微笑んだ。




