1.女傭兵の新しいお仕事(4)
通訳としての契約開始は即日。契約終了は戦争終了後、大体の事務処理が済むまで。契約期間中一日ごとにドゥレッツァ金貨一枚を支払う。なお直接の戦闘行為には参加しないが、戦闘時の通訳のための戦場への同行は契約範囲の内とする。
以上、トマの取りまとめた契約内容は破格の厚遇と言えるものだった。出稼ぎの話を聞いた当初、白蹄団の団長であるアラムは渋い顔をしたが、彼も傭兵団を率いる立場である。金はいくらあってもありすぎるということはないのだった。経理的な観点によるトマの熱心な説得もあり、やはり愛剣は返却してくれなかったものの、最終的にはルキシスを送り出してくれた。なお、白蹄団とルキシスの取り分は半々ということになった。ここだけを取り上げてみれば、ルキシスとしては万々歳である。
「それではわたしたちは帰りますが、戦争が終わったら勝っても負けても寄り道しないで団に戻ってきてくださいね」
団長であるアラムの代わりに契約手続きを行ってくれたのは経理係のトマと副団長だった。戦闘を間近に控え、さすがにアラム本人がこちらまで出向いてくることは難しかったのだ。
「まあ負けないだろ、この状況なら。……たぶん」
契約を取り交わした豪奢な天幕の前で、ルキシスはそう言って彼らふたりを見送った。ふたりは軽く手を上げてルキシスに挨拶し、白蹄団が陣を張る北の宿営地へと戻っていった。
たぶん、と歯切れの悪い物言いになったことには理由があった。
通訳の契約は確かにまとまった。ルキシスとしては大して異存はない。本意としては戦闘手当のもらえる兵士としての参戦の方が好ましくはあったが、何せ破格の好待遇である。収入の面では何の問題もなかった。
問題は――肝心のギルウィルドの方だった。彼の契約がまとまらないのだ。
(あいつ、契約しない気じゃないだろうな)
本丸が契約しないとなると、通訳も失職だろうか。そうなったらそうなったで白蹄団に戻るだけだが、その場合は出稼ぎの収入が絵に描いた餅となってしまう。
(何とか丸め込んで契約させないと)
小遣いは欲しい。
通訳としての仕事は既に始まっている。今、ギルウィルドの契約交渉は一時休憩中で、彼は幕屋を出ていた。相当に苛々している様子だった。中に残っているのは今回の雇い主となる――件の老騎士と、その主の二名のはずだ。
「だけどなあ」
ついひとりごとが口をついて出た。
ギルウィルドが肯わないのは――兵士としては、実は理解できるところだった。
幕屋の脇には若い葦毛の牡馬が一頭繋がれていた。老騎士たちのものでなく、実はギルウィルドが連れている馬だった。先月別れた時に連れていたのは別の馬だったから、その後新しく入手したのだろう。馬体が大きく、若さのわりに物音などにも動じない立派な軍馬だった。手元不如意と言っていたくせに、どうやって手に入れたのか。女にでも貢がせたのだろうか。
「おまえのご主人様、帰って来ないな」
暇なあまり、つい馬に話しかけてしまう。馬は好きだった。栗毛の馬が一番好きだが、葦毛もよい。この若駒はまだ毛色が全体的に黒っぽく、葦毛と言っても濃い灰色をしていた。老騎士の蝋色の頭髪といくらか通じるものがあった。
馬はつぶらな瞳をルキシスに向けていた。可愛らしいので撫でてやりたいところだったが、勝手に触って傷でもつけたら弁償しなければならなくなるのでそれは控えておく。
「わたしも馬買おうかな」
無事ギルウィルドの契約がまとまり、通訳としての任を全うできれば馬の一頭くらいは手に入れられるだろう。
馬を連れていれば騎兵としての契約もできる。一概に騎兵の方がわりがよいとまでは言えないにせよ、一般には騎兵の方が契約金は高いのだ。ルキシスは騎兵であったり歩兵であったりその時々で色々で、どちらにでも対応できる。だが今は馬を連れていないので、騎兵にはなれない。
「前に別れた時に連れてた馬はどうしたの」
休憩を挟んだというのに、まだ苛々している。それが声に滲んでいる。
声の方に目を向けると、葦毛の主であるギルウィルドが戻って来るところだった。手には何かの小袋を抱えている。
「あれは軍馬ではないから白蹄団に合流する時に手放した」
「軍馬だったんじゃ……、ああ、乗り換えてたっけ」
「そう」
ギルウィルドは葦毛の傍らにやってくると、背負っていた荷物袋から野菜くずを取り出して愛馬に与えた。
「この馬の名前は?」
「ない」
「つけてやらないのか?」
「馬にいちいち名前をつけたりはしないね」
そういう人間もいるし、そうでない人間もいる。
「つけたかったらつけてもいいよ」
ルキシスを横目に見て、彼は意外な言葉を口にした。
「いいのか? じゃあエルミューダ」
「太陽の神の使いか」
「縁起がいいだろ?」
神話の中に出てくる太陽神の戦車を引く軍馬のうちの一頭の名前だ。宗教には詳しくないが、教養として知っていた。
「意外だな。きみが縁起とか気にするなんて」
「わたしは大して気にはしないけど、兵士っていうのは大方、縁起を担ぐものじゃないか?」
「そうだね」
野菜くずを食べ終えたエルミューダは、物足りないのか足元の青草をゆったりと食み始めた。
その様子を眺めつつ、ルキシスはギルウィルドの様子を窺った。交渉再開の前に、少し彼の腹積もりを探っておきたかった。
「……少しは頭が冷えたか?」
「いや、全然。話にならねえよ。兵隊がいないんじゃ」
「……」
そうなのだ。それが問題だった。
てっきり、あの老騎士が属する騎士団との契約になると思っていた。でも蓋を開けてみればそうではなかった。
ギルウィルドがうんざりしたようなため息をつく。それから彼は手にしていた小袋をもう一方の手の上で引っ繰り返した。中から小さな粒がざらざらと零れ落ちてくる。
「食べる?」
白桑の実を干したものだった。
彼の手から二、三粒を受け取って口に含む。濃厚な甘さが口腔にもったりと広がった。
「こんなもの買いに行っていたのか?」
「苛々するから甘いものでも食べようかと」
小娘のようなことを言っている。この男は酒をやらないので、その分甘味の方に嗜好がいっているのかもしれない。
「兵隊集めはおれの仕事じゃない」
白桑の実を噛みつぶしながらギルウィルドが苦々しげに言った。
「それはそうだが」
「それでよくソヴィーニ人がいいとか、ソヴィーノ語が話せる人間がいいとか、贅沢言えるよ」
「……おまえ、ソヴィーノ語が大して分かるわけでもないのにどうしてこんな南くんだりまで来たんだ」
「ヒルシュタット語かリーズ語で会話できるところと契約するつもりだったんだよ。いくらでもあるだろ」
それもまたそうなのだった。大体、そのどちらかの言語が話せれば大陸中どこでも傭兵としては殆ど不自由しない。ましてこの男はその双方が堪能なようなので、どこに行ってもやっていけるだけの自信はあっただろう。
「リリ、ヒルシュタット語話せるようになった?」
「うるさい」
「俺さあ、リーズ語よりヒルシュタット語の方が楽なんだよね、話すの」
「おまえに合わせる必要ないだろ。潔くリーズ語で話せ」
「ヒルシュタット語覚えない? また教えてあげるよ」
「いらない」
それだけ言って、ルキシスはギルウィルドの手の小袋を指差した。それから手のひらを上に向けて差し伸べると、ギルウィルドはまた嘆息しながらも小袋を傾けて中身を幾らか分けてくれた。
濃厚な甘みで口の中がいっぱいになる。
幕屋の入り口が開いて、老騎士が姿を見せた。
『お戻りであればそろそろ話の続きができますかな』
訳さなくても言いたいことは伝わったのだろう。ギルウィルドが小袋を懐にしまい込み、ルキシスの前に立って歩く。
やはり交渉は難航しそうだと、うんざりした気分でルキシスはその後をついていった。




