13.愚か者の話(1)
男女の傭兵が少しずつ関係性を深めていく連載物です。
1日あたり1、2話くらい更新します。
途中で馬を乗り換えながら三日三晩走り続けて、その三日目の夜更けだった。
小さな川のほとりで木を背に凭れ、控えめに作った焚火の炎を見つめていた。
下草を踏みしめる音がした。その前から、近付いてくる気配には気付いていた。
「早いね。追い付けないかと思ったよ」
「一言でも口をきいたら殺すと言ったはずだが」
「もう時効じゃん」
馬を引いた男が姿を見せた。彼はルキシスが馬を繋いでいる木の隣に自らの馬を繋ぐと、焚火から少し距離を取って腰を下ろした。
会話をしたいのなら不自然な場所だった。声が届かないわけではないが、遠い。それに向かい合わせでなく、同じ川面に顔を向けた横合いの位置だった。彼の長剣の届かない、ぎりぎりの距離でもある。
「そこに陣取るつもりか?」
「朝には行くよ」
「わたしの首を獲れば褒賞が出るんじゃないのか」
「ヴィユ=ジャデム家とは話をつけた。ジャデム家はきみを追わない。きみも二度とジャデム家に関わらない。それで全てをなかったことにする」
いいね、と言われて改めてルキシスは彼の方へ顔を向けた。
ささやかな焚火の明かりが踊るように彼の白皙の面の上で揺れている。
何を考えているのだろう。馬で三日三晩駆け続けた距離を、こんなことを言うために追って来るなんて。酔狂なことだ。
「わたしの仲間だと思われただろう」
「うん、まあ……。おれはきみの昔の名前を知らなかった。それで疑いは晴れたっていうか、まあ」
言葉の切れが悪い。
昔の名前。ラティア・クロフィルダイか。
「ユシュリーが、もういいと。きみを追うなと」
そうか。何を言う気にもならず黙り込んだ。
「彼女のことを訊かないのか?」
「興味ないな」
その資格もない。
話は一旦終わったようだった。ギルウィルドが口を閉ざす。何か考え込むように口元に指を当てている。
本当に、何を考えているのだろう。困惑しているような、ためらっているような、思い悩んでいるような、見ているこちらがどういうわけでか哀れさを催すような印象を受ける顔だった。
しばらくして彼はまた口を開いた。
「余計なことかもしれないけど一応アラムには書簡を遣わしておいたよ」
「親爺に?」
「きみは事情があって出奔しちゃったからもう村に戻って来る必要はないって。ただそのうちきっとひょっこり顔を出すだろうから、それまで待ってやってほしいって」
ルキシスは何も言わなかったが、ギルウィルドは慌てた様子で「伝えたのはそれだけだ」と付け足した。
余計なことを言ったと思われたくなかったのだろう。別に疑ってなどいないのに。
「……このあたりで待っていれば白蹄団が通りかかるかもしれないとは思っていた」
「そうかもね。彼らももう少し稼いでから冬を越したいだろうし」
「親爺、怒るだろうな」
島を追い出されて、傭兵としての処世も知らないまま安く使われていた自分に、ふるまい方を教えてくれたひとだった。
「怒らせてやりなよ」
「分かっている」
こいつごときに言われる筋合いはない。アラムとの方がずっとずっと付き合いは長い。
「リリ、ご飯食べてる?」
「ん……」
ルキシスの膝元に革袋が投げつけられた。中は林檎とパンとチーズ。それから、ヴィユ=ジャデム家に残してきたいくらかの金銭や身の回りのものが入っていた。回収してきたのか。まめな男である。
「少しでも食べなよ」
それとこれも、ともう一つ、今度は小さな袋を投げてよこされた。受け取って中を開くと小さな陶器の壺が出てくる。
「なに? 酒?」
「香油。弁償しろって言ったのはきみだろ」
「ああ」
そういえばそんな会話をしたこともあったか。すっかり忘れていたが。
パンをちぎって口に運んだ。酸味があってかたい、このあたりでよく食されているパンだった。
「酒は?」
「断酒しろ」
すげなく言い、ギルウィルドが立ち上がって川に向かって歩いて行った。用足しだろうかなどと思っているうちにすぐに戻ってきた。手には小鍋を持っていて、それを焚火の端に置いた。つまりは酒でなく、水を飲めということのようだ。
その小鍋のそばに、ギルウィルドは座った。先ほどよりも随分と距離は近くなった。
「友人として忠告するけど、大酒は悪癖です。適度な量に改めるように」
何が友人か。完全に説教をする坊主の口調である。
「わたしは酔わない」
「酔わなくても度を越した大酒はからだに良くない。あー、おれは北の生まれだから、周りにきみみたいに度を越した大酒飲みが多かったんだよね。大体そういう奴は早く死ぬ。本当のことだよ」
あまり大陸北部に行ったことはないが、確かに北国の男は酒量が多いと聞く。寒いから体を温めるためにどうしても酒の量は増えがちだとか何とか。
下戸には酒の喜びは分からないとか坊主の説教は間に合っているとか憎まれ口ならいくらでも叩けたが、言う気にならずまた黙り込んだ。
もそもそとパンを食べ続ける。時々チーズもかじる。そうこうするうちに湯が沸いたのでギルウィルドが小さな碗に注いでルキシスに差し出した。
受け取る時に少し指が触れた。途端に弾かれたようにギルウィルドが手を撥ね上げたので、碗があらぬ方に飛んでいった。
「――なに?」
唖然として、ルキシスは彼を見た。
碗は地面に落ちて転がり、当然中身はあたりに飛び散っている。
刃物で刺されでもしたかのような大仰な反応だった。一体何だというのか。
「ごめん。その」
気まずそうにギルウィルドは碗を拾い、小鍋に残った湯で濯いでからもう一度飲むための分を注ぎ直した。今度はそれを大人しく手渡す。指が触れないように留意しているのが分かった。
「……なに?」
問いながら、何となく分かってくる。要するにこの男はルキシスが、男に触れられることを恐れているのではないかと、彼自身がそれを恐れているのだ。それで慎重に距離を取った。意図せずして指が触れて、それを回避しようとして却って突飛な反応を示した。
(馬鹿か)
呆れるような気分になる。傭兵である。戦場で働く。戦闘が終わった後は興奮した兵士たちが周囲の女たちを犯して回ることなど日常茶飯事だ。
「リリ、あの」
「あのなあ、おまえがわたしに何かしたわけじゃないだろ」
もう十二年も前のことだ。
昨日今日の話ではない。
ともすれば憎悪はいつでも蘇る。身を焼いて魂を凍り付かせる。
だが一方でもう昔のことだった。クロフィルダイの島で生まれて育ったことも、まるではるかな夢のような。今となっては上手く掴みとれない。本当はあれは現実ではなかったのではないかと、時々思うこともある。
自分はたぶん――あの出来事をどこかにしまい込んで、いくらかの距離を置くということができるようになったのだと思っている。しまい込んだ箱の蓋はいつ何がきっかけで開くか分からない。箱自体もひどく脆く頼りなく、どれほど些細なことで決壊するかも分からない。
でも四六時中、そのことを考えているわけではないのだ。今はもう。
「――それとも何かしようとしている?」




