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4話 境界線





あの日のことは、とても印象に残っていた。

理由は分からない。

怖い思いをしたわけでも、怒鳴られたわけでも、ましてや殴られたわけでもないのに、ふとした瞬間に脳裏をよぎるのだ。


あの席で、俺は何度も水を注いだ。

自分の分と、あの獣人の分と。


特別なことをしたつもりはないし、そうした方が落ち着いた。

あのエルフの客も終始穏やかで、笑顔も多かった。なのに、どこか緊張感が抜けなかったのは、きっとホストとして初指名だったからだろう。表には出さなかったけど。


獣人の彼は、ほとんど喋らなかった。

視線も合わなかった。

それなのに、「見られている」感覚だけは最後まで消えなかった。

俺が水を飲むたび、グラスを置くたび、言葉を選ぶたび。何かを試されている感覚。


あの場では周囲にも緊張が走ったが、自分の行いに後悔はしていない。「正しい」と思ったことをやった。


そしてあの指名をきっかけに、俺は「どう振る舞うか」より「どうしたいか」を考えるようになった。


――だからきっと。


あの出来事は、俺にとってただの初指名じゃない。これから俺がどう生きるか、その方向を決める大事なものだったんだと思う。


……もっとも、偉そうに言えるほど俺はまだ大人じゃないけど。












「ソラ、指名だ」

「はい」


あれから定期的に指名が入るようになった。

毎日というわけじゃない。

けれど、週に数回。気づけば「今日もソラで」と名前が上がる。

最初は偶然だと思っていた。

次は噂。

その次は、赤龍夫妻の影響。


理由はいくらでも思いついたし、どれも間違っていないだろう。


「また呼ばれてるな」

「ほんま、忙しなったなあ」


関西弁の先輩が、半分冗談みたいに言う。

からかっているようで、その声色は前より少し柔らかい。


「すみません」

「謝らんでええよ。人気が上がってきたっちゅー意味なんやから」


そう言われても、正直なところ実感は薄かった。

指名されるたび、胸は少しだけ跳ねるけれど、それ以上に「いつも通り」に動いている自分がいる。


席に着き、挨拶をして、飲み物を用意して。

話を聞いて、相槌を打って、空気を読む。

特別なことはしていない。と、俺は思ってる。けれども実際に担当したお客様からはーー


「君面白いね」


そう言われることが増えた。


「面白い、ですか?」

「うん。新人って頑張って話題作りをしようとするけど、君は聞き上手だし無理に距離を詰めてこないのに気づいたら安心して話してる」


バックヤードへ戻る途中、アキラさんとすれ違う。


「……最近、指名多いな」

「そう、ですか」


そう返すと、アキラさんは一瞬だけ視線を逸らした。


「まあ、いいことだろ」


それ以上、何も言われなかった。

けれど、その背中がいつもより少し寂しそうで。


フロアでは相変わらず音楽が流れ、笑い声が飛び交っている。

なのに、どこか空気が変わり始めているのを、肌で感じていた。


(俺、何か変わったのかな)


自分では分からない。

でも、周りの視線だけが、少しずつ違ってきている。


「ソラ、次も指名だぞ」


名前を呼ばれ、顔を上げる。

一旦あの日のことは記憶の片隅に置いておく。今は目の前のことに集中しよう。












営業がひと段落し、バックヤードに戻ると先輩に呼び止められた。


「ソラ、ちょっとええか」


関西弁の先輩だ。

いつもなら軽口が先に出る人なのに、その声は珍しく落ち着いていた。


「何かありましたか」

「怒られると思っとる?」


冗談めかした言い方だったが、視線は真っ直ぐだった。

俺は首を横に振る。


「ほな、確認や」


そう前置きして、先輩は壁にもたれた。


「最近の指名、把握しとるか」

「……増えてる、とは聞きました」

「“聞いた”やない。自分の名前で呼ばれとる数や」


言われて、はっとする。

正確な数を把握していなかった。


「新人の域は、もう出とる」

「え」


思わず声が漏れた。


「え、やない。店としての判断や」

「でも、俺はまだ——」


言いかけて、止まる。

先輩は続きを待たずに言った。


「自覚がないのが一番厄介やな」

「……」

「今まではな、“失敗しても新人やから”で守られとった。でもこれからは違う」

「違う……」

「ソラとして指名されとる。お前個人を見に来とる客が増えとる」


胸の奥が騒ついた。

“嬉しい”より先に“怖さ”が来たのだ。


「立場が変わると、見られ方も変わる」

「……はい」

「ありのままの姿はお前らしいし、それがお前の持ち味ではある」


先輩は一瞬だけ言葉を選ぶように間を置いた。


「けどな。お前は多分、無意識で一線を越えてしまえるタイプや」

「……」


否定できなかった。


「せやから言うとくで」


先輩は、いつもの軽さを少しだけ取り戻した声で言った。


「“心”はいつも通りでええ。けど、もう守られる側じゃない自覚、持っとけ」


それだけ言って、先輩は背を向けた。


「……」


一人残されて、しばらく動けなかった。


先輩の言葉を反芻する。

“もう守られる側じゃない”。


その意味を、まだちゃんと理解できていない。

でも、確実に立つ場所が変わり始めていることだけは、分かった。


(俺、戻れないところまで来たのかな)


そんな考えが浮かんで、すぐに首を振る。


考えるのは後だ。

今は次の指名に応えないと。


ガヤガヤと賑やかなフロア。

俺は深呼吸してバックヤードを出た。




※ここまでが序章となります。続きはストックが整い次第更新予定です。

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