三十七 私の夢
私は昔から、夢という言葉が嫌いだった。
自分にとっての理想の未来や叶えたい目標であったり。
現実では有り得ないことが起こる、理不尽で、荒唐無稽な物語であったり。
夢という言葉を聞くと、ほとんどの人はこの二つのどちらかを思い浮かべるらしい。
私は、そんな夢を一度も見たことがなかった。
起きていても、寝ていても、私が見る夢は一つだけ。
私にとっての夢は、過去を振り返りながら必死で答えを探す問題のようなものだった。
どこで間違えたのだろう。
何がいけなかったのだろう。
どうすれば良かったのだろう。
どれだけ悩んでも、どれだけ悔やんでも、正しい答えが見つからない問題。
その問題はいつも、同じ言葉から始まる。
「ねー、おねえちゃん、じーちゃんとこ、いこぉ?」
袖を引っ張られているのに気づき、呼んでいた本から視線を上げると、真白の顔があった。
きょろきょろとよく動く大きな目に、白くてふっくらとした頬、クセのないさらさらとした黒い髪。
それが小学校に上がる前の真白だと、私にはすぐわかった。
そのあどけない姿を可愛いとは、表現しづらい。
なぜなら、その頃の真白と私の外見はそっくりだったからだ。
「やあだ! おねえちゃんもいっしょにくるの! あたしだけじゃつまんない!」
やんわりと断ろうとした私の服の袖を真白はぐいぐいと引っ張る。
これが続くとしまいには泣き出して、何故か私が叱られる。
幼い頃の私はいつも渋々立ち上がって、真白と一緒に祖父がいるガレージに向かうのだ。
「じいちゃーん! きたよー!」
「おっ、来たかチビども。危ねえからあんましうろちょろすんじゃねえぞ?」
私達がガレージに来ると、おじいちゃんは必ず手を止めてニカッと笑いかけてきた。
「わかってるわかってるってー」
この子絶対わかってない。
適当に返事をしてふらふら歩く妹は、私がなんとかせねば。
そんな使命感に駆られていたのもいつものことだった。
「じいちゃん、今日は何してんのー?」
「あん? 今か? えーっと、何て言うかなあ……」
真白はおじいちゃんが作っている物を、目をきらきらと光らせて見つめていた。
毎日毎日飽きもせず、昨日と何が変わっているのか分かりもしない機械を眺め続ける。
そして、決まってこう言うのだ。
「あたしね! このロボットをもっと、もっとすごくするよ!」
鼻息荒く、決意を表明する真白の言葉を聞いて、私は呟くのだ。
「わたしは、このロボットの心を作りたい」
真白ほどおじいちゃんがしていることに興味があったわけじゃない。
ただ、妹のフォローをするのは自分の役目だと思っていたから、そう言った。
これが私の最初の間違いだったのだろう。
真白と、おじいちゃんを喜ばせたくて、格好つけたことを言ってしまった。
がんばってね、と。
それだけ言っておけば、良かったはずなのに。
「お姉ちゃん……じいちゃんが、じいちゃんがあああ」
冬休みのある日。
図書館から帰って来た途端、泣きじゃくる真白に抱き着かれた。
この頃にはもう、私と真白がそっくりだと言われることはほとんど無くなっていた。
私は長く伸びた髪の毛をそのままほったらかしていたのに対して、真白は髪形を毎日ころころ変えていた。
学校に通う時の私服にも真白は入念な研究をしていたようだったし、こっそり化粧までして先生やお母さんにこっぴどく叱られていたこともあった。
あと、大人用の下着を使い始めたのも真白の方が先で、ここだけはあたしの方がお姉ちゃんだね、と言われ、本気のケンカをしてしまった記憶がある。
しっかり者で、面倒見がいい、けど不愛想なのが私で。
お調子者で、放っておけなくて、誰からも可愛がられるのが真白。
私達自身も、周りの人たちも、そう感じるのが当たり前になっていた頃。
私達が大好きだったおじいちゃんは、死んだ。
小学生になってから、おじいちゃんのところに行く回数は減っていった。
おじいちゃんがどんな人で、何を作っていて、周りの人間がどう思っているのかも理解できるようになっていた。
だけど。
その知らせを聞いた日、真白は私の傍から一秒たりとも離れようとはしなかった。
お父さんとお母さんが家に帰ってくるまでの間、ずっと泣きながら私の手を握り、一緒にお風呂に入って、一緒のベッドで眠った。
次の日になって、おじいちゃんの家に行くまでずっと、私達は欠けてしまった何かを補うように寄り添っていた。
葬儀の後、私と真白は二人でおじいちゃんのガレージに行った。
無骨で、埃っぽくて、油の臭いが立ち込めていて、幼い頃からずっと二人で足を運んできた。
いつも通りのガレージに、おじいちゃんの姿だけがなかった。
私達を優しく、温かく迎えてくれた笑顔だけがなかった。
ここに来ればまた会えるのではないか。
いつもと同じ様子で笑いかけてくれるのではないか。
……違うんだ。
もう二度と、会えないんだ。
それに気付いて、どうにもならないことがこの世にはあるのだということを知って。
私は泣いた。
妹よりもひどい泣き方をしたのは、生まれて初めてだったと思う。
「大丈夫、大丈夫、あたしがいるよ……お姉ちゃん、大丈夫だから」
いつもと違って、妹に慰められながら私は心の中で叫んでいた。
ごめんなさい。おじいちゃん、ごめんなさい。
私は嘘を吐いていました。
最後まで、本当のことを言えない悪い子でした。
ごめんなさい。
私が大好きなのは、おじいちゃんでした。
可愛くない私と、可愛い真白を、同じに扱ってくれるおじいちゃんでした。
そのおじいちゃんの命を削り取って、奪っていこうとするこの機械が。
この鉄の塊が。
私は、大っ嫌いでした。
この嘘を、取り消すことが出来ないなら。
せめて、私は。
嘘を、本当にしようと思います。
許してもらえるよう、必死で頑張ります。
私が、アホウドリの心を作ります。
「うん……うん! お姉ちゃん、一緒に、頑張ろう。絶対、じいちゃんの夢を叶えよう!」
決して口には出さなかったはずなのに、真白は強く頷いてアホウドリを見つめていた。
これが私の二つ目の間違いだ。
償いなんて、するべきではなかったのだと思う。
悲しみは時間が自然に解決してくれるのを待つべきだった。
罪悪感を抱えたまま、生きていくことを選ばなければいけなかったはずだった。
しかし。
無理をすれば歪みが生まれる。生まれた歪みがどう広がるのか。
そんなことまで考えられるほど、十歳の私は賢くなかった。
「お姉ちゃん、その、アホウドリの人工知能のことなんだけど、さ」
ガレージでアホウドリのプログラムをいじっていた私に、真白がおずおず近づいてきた。
幼き日の真白を知る人は、この褐色の肌をした派手な金髪の女性を見て驚きの声を上げるだろう。
もはや似ているとかそういう問題ではない。
姉妹であることさえ、疑われるのが私達の日常だ。
おじいちゃんが死んだ後、私達はアホウドリの完成に向け全てを捧げてきた。
日本の中学校は途中で辞めて、機械工学について専門的に学べるアメリカの大学に入った。
二人揃って飛び級で卒業して、使えそうな研究機関に片っ端から籍を置き、アホウドリの完成に必要な知識を得ることに没頭し続けた。
私達のことをもてはやし、騒ぎ立てる人もいたけれど、その頃のことはあまり記憶にない。
自分たちだけで開発を進められる確信と、資金を得て、私達は京ちゃんの家に帰って来た。
外国にいる間に別人のようになってしまった真白に絶句しながらも、京ちゃんは家の人に頭を下げて、おじいちゃんが使っていたガレージを私達が借りられるようはからってくれた。
私達が本格的にアホウドリの開発に取り掛かって、一年弱。
真白が私よりも先に、アホウドリの体を完成させてしまった。
私がどうにかアホウドリのクロスコアの仕組みを理解し、オリジナルの言語インターフェースを作っていた間に、妹は自分の仕事を終えてしまったのだ。
自分が劣っていると思うことはなかった。
だけど、私の研究はまだ入り口でしかなくて、完成までどれだけかかるのかもわからない。
わかっていたのは、途方もない時間が必要だということだけ。
焦っていたことは認めなければいけないだろう。
しっかりしなければという姉としての見栄も、あった。
それを認めたうえで。
「幽霊でも憑りついて、動かしてくれればいいのにねえ」
妹が思いついたように口にしたその言葉を、私は許すことが出来なかった。
幽霊って、なんだそれは。
そんなものがいると思っているのか。
存在を否定できないとしても、それに頼るということが何を意味するのかわかっているのか。
真白は、妹は、この子は!
私を信じて、待っていられない。
そう言っているんじゃ、ないのか。
違う。真白はそんな子じゃない。
今の言葉にしたって、悪気はなかったはずだ。冗談だったはずだ。
馬鹿なこと言わないでと笑い飛ばすところなんだ。
私が焦らないようにするための、真白なりの気遣いだ。
この子は、妹は、そういう子だ。
そういう子だから、私がいつもしっかりしなきゃいけなかったんじゃないの?
ああ、駄目だ。
私はいつもこの結論にたどり着く。
過去を振り返り、かつての私達が声を上げて訴える答えを否定できなくなる。
真白が、いたから。
私ばっかりが、いつも難しい方を選ばなきゃいけなかったんじゃないの?
私ばっかりが、嘘を吐き続けなきゃいけなかったんじゃないの?
私ばっかりが、間違いを重ねなきゃいけなかったんじゃないの?
私にとっての最後の間違い、いや、最初で最後の間違い。それは。
真白がいなければ、良かったのに。
それに気付いてしまったこと。
そう、思ってしまったことだった。
だから私は、あの時、真白の他愛無い冗談にこう答えてしまったのだろう。
「それは、とてもいい考えね」
だって、幽霊がアホウドリを動かせるのなら私はもう要らなくなるでしょう。
あなただけで、十分になるでしょう。
私はやっと、自由になれる。
ごめんね、真白。
今日、あなたにとても酷いことを言った。酷いことをした。
でもそれは、元はと言えばあなたのせいなのよ。
そして、私は夢の世界から目を覚ます。
隣の芝は青い。
一度そう思うと、我が家の庭の雑草が許しがたくなっていく。
黒実は、そのせいで苦しんできた、とか、そんなお話です。
できれば、序と読み比べていただくと、双子の関係がより分かりやすくなると思います。




