三十四 時間稼ぎ
見覚えのある赤黒いライダースーツに、デカい銀色のバックパック。
見間違いじゃねえ。あいつだ。
血の気が、すうっと引いていく。
「真白! 手ぇ放せ!」
「は? 嫌に決まってん……」
「やかましい! 伏せろ!」
痴話喧嘩なんてしてる場合じゃなくなった。
オレが無理やり真白の手を振りほどいた瞬間、ガラスの割れるけたたましい音が響き渡った。
咄嗟に真白にガラスの破片が降りかからないよう抱きかかえ、倒れるようにして姿勢を低くする。
「きゃああああああああああああっ!」
その悲鳴が誰のものだったのかはわからない。
ただ、その叫びを皮切りに穏やかな日常が崩れていくのを感じた。
圧倒的な暴力が、その場にいた人間の全てを踏みにじる。そんな瞬間だった。
「おいおいおい! 狙われてるのがわかってて呑気にショッピングたぁな! 俺、もしかしてナメられてる?」
店の外から問いかけてくる聞き覚えのある声。
大勢の人間を脅えさせているにも関わらず、愉快そうに笑う下衆極まりない響きを聞き間違えるわけがない。
三瀬が、襲ってきた。
オレはゆっくりと顔を上げながら、周囲に目を走らせる。
オレたちが今いる喫茶店はガラス一枚を隔てるような形で通りに面している。
そのガラスを三瀬は例の伸び縮みする金属の尻尾で叩き割りやがったのだ。
店内に居た客が何事かと逃げ惑う中、伸びきっていた尻尾が三瀬の元へと戻っていくのが見えた。
すぐさま店の中に乗りこんでこないのは、狭い店内で尻尾が使いづらくなるのを嫌ったのか。
それとも単にオレたちを捕まえることなんざ難しくないとタカを括ってやがるのか。
どっちにしたってオレたちの方に余裕がないことに変わりはねえな。
さっさと動くに限る。
「真白、立てるか?」
「いっつぅ……何、今のすごい音?」
「こないだの、三瀬が襲ってきた。時間がねえ。黒実に連絡してアホウドリを呼んでくれ」
「え! ちょ、アンタどこ行くのよ!」
立ち上がって割れた窓ガラスの方に駆け出すオレを見て、真白が叫ぶ。
どこに行くって、決まってんだろ。
「オレができるだけ時間を稼ぐ! お前はさっさとそっから離れろ!」
オレはそのまま割れた窓枠を飛び越えて、三瀬が待ち構えていた通りに出た。
「へえ? 兄ちゃん、自分から俺の方に来るわけ? こないだボコられ足りなかったか、ああ?」
飛び出してきたオレを見て、三瀬は威嚇するように目を細めた。
品定めでもするように、腰元から伸びた金属製の尻尾がゆらゆらと揺れる。
オレはその尻尾の動きをじっと見つめながら、少しだけ腰を落とした。
京之介、ちっとばっか無茶するかもしれねえ。
我慢しろよ。
(わかってます。その、遠慮せず使ってください)
意を決したような京之介の声が頭に響く。
ビビりにしちゃあ、上出来な返事だ。
もちろん、オレも勝てるとは思ってねえ。
いくら京之介の体がごつくて、オレが多少ケンカ慣れしてるとしても、あのでたらめな力を持った尻尾の前じゃあ幼稚園児か小学生かくらいの違いにしかならねえだろう。
だからオレの役目は、この場を繋ぐことだ。
アホウドリが来るまでの間に、状況がこれ以上悪化しないよう立ち回る。
三瀬の注意を引き続けて、真白や周囲の人間が危うくなるのを防がなきゃならねえ。
それは分かってるんだが、やべえな。
この体が京之介のもんだと思うと、流石のオレも震えがくるぜ。
「連れの女の前で、格好つけようってか? 弱っちい奴がそういうことすんのよ、苛々すんだよなあ」
三瀬はガリガリと頭を掻いて、オレと正面から向き合う。
ここまでは予想通りだ。
この三瀬とかいう男は、オレの見立てだと短気な暴力バカの典型。
こういう奴の行動パターンは大体決まってる。
ちょっとでも気に入らない奴がいたらそいつを殴る。
もしくは相手に自分が気に入らないと思うような行動を取らせて殴る。
要するに殴れれば理由なんかどうでもいいんだわな。
殴られた相手が苦しみ、悲鳴をあげるのを聞いて悦に浸る。
どうしようもないクズ野郎だ。
このタイプの気を引くのはとんでもなく簡単だ。
ちょいと煽ってやりゃあいい。
「三瀬、とか言ったか? お前、どの口がほざいてんだよ」
「あん?」
嘲るようなオレの口調に、三瀬は少し驚いたのか片方の眉を上げた。
「こないだトンネルでみっともなく負けたのはお前の方だろうが」
「なんだと?」
「今日もまたその無駄に長い尻尾丸めて逃げるんじゃねえぞ、マヌケ」
「……黙ってりゃあ、見逃してやっても良かったんだがよ」
そーら釣れた釣れた。
これでもうコイツの目にはオレしか映らなくなった。
ここまで面と向かってコケにされたんだ。
コイツは何が何でもオレを最初に仕留めなきゃいけなくなっちまった。
三瀬の怒りに反応するように、鉄の尻尾が鎌首をもたげていく。
こっから十秒くらいが正念場だ。
オレは深く息を吐き出す。緊張で一気に冷たい汗が滲んできたな。
「先に死ね、ボケがあ!」
来やがった!
左上から金属の尻尾が猛然と振り下ろされてきた。
その動きの始まりを見るのと同時に、オレは腰を屈めて姿勢を落とし、前に突っ込む。
少し離れたこの距離なら、最初に来るのはリーチのある尻尾。
それは読んでた。
尻尾の下をくぐる形での回避。
頭の上を金属の塊がかすめていくのはぞっとしなかったが、成功。
オレはもう一歩足を踏み出しながら、三瀬の次の一撃に備える。
「避けてんじゃねえよ!」
後方で何かが砕けるような音がした。地面のアスファルトか?
振り下ろされた尻尾が、三瀬の怒声と共にオレを追い、横に薙ぎ払われる。
残念だったな。オレはそれも読んでいた。
「あぁ?」
三瀬の尻尾の横なぎは虚しく空を切る。
目を見開いた三瀬が見るのは、腰と膝を限界まで曲げて跳ね上がり、右の拳を振り上げながら迫ってくるオレの姿だ。
低い位置からくる攻撃をジャンプで躱す。
そして尻尾じゃ、次の一撃は間に合わない。
「……ぅおらあっ!」
力一杯握りしめ、限界まで固められたオレの拳骨が三瀬の顎を捉えた。
斜め上からの一撃で、三瀬の顔が強制的に下を向く。
これは痛えぞ、ざまあみろ!
だが、まだだ。折角できたチャンス、一気に畳みかける。
オレは振り下ろした右手とは逆の左手を振り上げ、三瀬の鼻っ柱を下からしこたま殴りつける。
衝撃で三瀬が仰け反るのと同時に、がら空きになっていた胴体に向かって足の裏で踏みつけるような蹴りを放った。
我ながら上出来な動きだったと思う。
京之介の筋力と体重が乗った三連発をもらったら、まともな人間なら立っていられないだろう。
だからこそ。
「……嘘だろ、おい」
二、三歩後ずさった三瀬が、平然とした顔でこっちを見ている。
その事実を、呑み込めなかった。
「何だあ? 前よか随分パンチに腰が入ってんじゃねえか、兄ちゃん」
オレが殴った鼻の下を、舌でべろりと舐めながら三瀬は肩を揺すって笑う。
あり得ねえ。
確かに、手応えはあったんだ。
殴った場所も、間違いなく急所だった。
体重だって、京之介の方がはるかに重いはず。
普通ならどれか一発当たった時点で、気ぃ失っててもおかしくねえはずなんだ。
それなのに、なんでこいつは何事もなかったみてえに立ってんだよ!
「まあまあ頑張った方なんだろが、やっぱ素人」
「……っ!」
三瀬の楽しそうな声に総毛だつ。
そして、次の瞬間。
懐に入られたことに気付いた時には、遅かった。
三瀬から放たれたのは尻尾を使っていない、ただの前蹴り。
そのはずなのに。
「がはっ……あああああああっ!」
蹴られたんじゃない、脚が突き刺さったのだと錯覚するような衝撃が腹で爆発する。
文字通り蹴り飛ばされたオレは、背中から地面に叩きつけられた。
「うぐ……うおぉ」
息が詰まり、吐き気が込み上げてくる。
腹を押さえながら、芋虫のように地面で無様に丸まることしかできなかった。
やべえ、とてもじゃねえが立ち上がれねえぞ。
「さーてと、おい、筋肉ダルマ。まだ死ぬんじゃねえぞ」
じゃり、じゃり、と三瀬のブーツが地面を踏みしめる音が聞こえる。
使い物にならない腹筋の代わりに、震える腕を支えにしてオレは何とか上半身を起こした。
「三発も入れてくれた礼だ。どこの骨から折ってほしいか、選ばせてやるよ」
オレから逃げ場を奪うように、三瀬の腰元から伸びてきた尻尾の先端が喉元に突き付けられた。
アスファルトを豆腐みてえに砕く金属の爪が、目の前でゆっくりと開閉を繰り返す。
こうなっちまったらもう、勝ち目はない。
そもそもさっきの攻撃も不意を突いたから何とかなっただけだ。
三瀬がオレを舐め腐ってて、たまたま思い通りに動いてくれただけ。
だが、本気になった三瀬はもう二度とそんなミスはしないだろう。
蹴られて分かった。
コイツはプロだ。暴力の、闘いのプロフェッショナル。
たとえ尻尾がなくても、オレが勝てる相手じゃなかった。
「…………く……くく」
「おい、てめえ、何笑ってんだコラ」
思わず込み上げてきた笑いを我慢できなかった。
やべえ、引きつった腹痛すぎ。
涙が出そうだ。
「気持ちわりいな。ビビりすぎて頭イカレちまったか?」
「そうじゃねーよ、ばーか」
気味悪そうに見下ろしてくる三瀬に、精一杯の軽口を返す。
頭がおかしくなったわけじゃない。もちろん、諦めてヤケになったわけでもない。
だってそうだろ?
オレは最初から、勝とうなんて考えてなかったからな。
オレが笑う理由はただ一つ。
聞こえてきたからだ。
車のエンジンよりも高く、鋭い回転音。
オレにとってはもう聞きなれちまった、あの音が聞こえてきた。
「折られんのはテメーの鼻っ柱だ、マヌケ」
「チッ、そういうことかよっ!」
背後から猛然と突っ込んできた鉛色の塊、アホウドリの接近に気付いた三瀬が横に跳ぶ。
脚についたタイヤを使って走ってきたアホウドリは、そのまま滑るようにしてオレの前で停止。
丁度オレと三瀬の間に割り込んでくる。
「へへ、お前さんもだいぶ賢くなったなあ」
アホウドリはここまでアイビスの操作で走ってきたんだろう。
ちょっと前まではオレが憑かなきゃ歩くのもやっとだったってのに、大した進歩だ
黒実の奴はアホウドリについてる学習機能がどうのこうの言ってたが、要するにオレの動きを真似してできることが増えてきたってこと。
この状況のせいで、こいつのゴツイ背中がやたらと頼もしく見えやがる。
役者が揃ったな。
これが今のオレの体だ。
真打登場と、いかせてもらおうじゃねえか!
格闘技の試合を観ていると、選手たちは何で立ってられるんだろうとシンプルな疑問を抱きます。




