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三十三 修羅場

 これは、やべえな。


 さっきまでの、こう、自分の中の葛藤とは違う、物理的な恐怖を感じる声だ。


 ねっとりと絡みついて四肢の自由を奪ってくるような、肌の表面をうっすらと氷漬けにしていくような感覚。


 後ろに立っている何者かが放っている気配……これは間違いねえな。


 殺気、というやつだろう。


 振り返ると、そこに鬼が立っていた。


「ま、真白」

「なーに? あたしと、たくさんの荷物をほったらかして走り出したと思ったら、なぜか可愛らしい女の子とお茶してたサンタさん?」


 一言一言の圧がすげえ。


 そうだよな。

 そう見えるよな。

 細かい事情がわかんなきゃそうとしか見えねえもんな。


「あたしもね、心配してたのよ。もしかしたら、アンタなりに重要な何かがあったのかもってね。近くのお店の人に荷物を頼んで、探し回ってたら、何が見つかったと思う?」

「…………」


 こういう時に男が女に言うセリフは大体限られてくる。


 待ってくれ。話を聞いてくれ。違うんだ。誤解なんだ。


 なんとか話し合いに持っていけないかと、できるだけ穏便に解決できないかと、一縷の望みをかけて口から出る言葉たち。


 だが、駄目なのだ。


 現場を抑えられた時点で、処刑は始まっている。


「これ、ナンパよね? サンタ」


 いつものぎゃあぎゃあと喚く怒り方とはまるで違う、真白の淡々とした口調。


 その大きな瞳からは光彩が消え、瞳孔が開ききっている。

 どうやってんの、それ。

 心なしか長い金髪も蠢いてる気がするんだけど。

 大丈夫? 悪霊にでも憑かれた?


「な、ナンパなんてことオレがするわけ……」

「黙れ」


 オレがなんとか言い訳しようとした瞬間、真白はテーブルに平手を叩きつけた。


 ダァンっと凄まじい音がして、卓上のカップが揺れる。

 テーブルの向こう側では可哀想に、昴が縮こまってカタカタと震えていた。

 

 今の音のせいで周りにいた客も、店員も尋常ではない事態だと察したらしい。


 うわ、修羅場?

 あのキレてるギャル、めっちゃ可愛くない?

 あのゴツい人彼氏? どう見てもヤンキーだよね。

 でもあっちに座ってる子、まだ高校生くらいじゃない?

 え、うわマジだ。

 あんなスタイルいい彼女いるのにナンパ?

 もしかして……やば。そっち系? ヤンキーの修羅場だってこれ!


 ざわざわと店内で生まれた囁き声がオレの耳に届いた。

 凄まじい勢いで生まれた誤解の山が、オレをクズ野郎に仕立て上げようとしている。


 これは、もうあれだな。やむを得ねえ。


 京之介、代わって?


(させませんからね! サンタさん! 逃がしませんよ! 最後まで責任取ってください!)


 ぐおおおおお! なんだこれ! 体から出られねえ!

 くそっ、京之介てめえいらん技を身に着けやがってえええええええ!

 つうか責任なんて取れるわけねえだろこの状況!


(責任が取れないなら一蓮托生っす! せめて一緒に死んでください!)


 潔すぎんだろお前!

 嫌だ! そもそもオレもう死んでるから!

 肉体的に死んだ上に、社会的に死ぬとか笑えねえから!

 スケベはまだしもナンパ浮気野郎はアウトだから!


「アンタ達をどうするかは、これからじっくり考えるとして……ねえ、あなた」

「はははははいいいいっ! はいはいはいっ! あなたです! 明山昴ですよ私は!」


 一つの体の中で醜く争うオレたちを捨て置いて、真白は怯えていた昴に声をかけた。


 こんな状況でどうすればいいのかわからないのだろう。

 上ずった声で愉快な返事をした昴に、真白は柔らかく笑いかける。


「昴ちゃんって言うんだ。可愛い名前だね」

「お、おおおお、お姉さんほどでは! すごく美人さんですね!」

「ふふ、ありがと。でもあなただって、すっごく可愛いよ」


 小動物を可愛がるように、真白は昴の頭に手を置く。


 昴は、ふわあなんかいい匂いする、と目を細めされるがまま。

 実に微笑ましい光景だ。


 もしかして、真白それほど怒ってないんじゃないか?


「だーけーど、こういう下半身でものを考えるスケベで頭の悪い性根の腐りきったクズ野郎なんかの相手をしちゃだめよ? 自分を大切にしなきゃ、ね?」

「あっハイ」


 駄目だわ。

 こっちを見る目が完全に潰れた害虫の死骸を見る時以下のあれだわ。


 思わず昴も真顔に戻っちまってるもの。

 オレの未来を案じてるもの。


 こりゃ、昴がオレたちを庇ってくれるのにも期待はできそうにねえな。


「おい、財布」

「は?」

「出せ」


 真白はオレに向かって無表情のまま手を差し出してくる。


 オレの金じゃねえとか、そんなことを言い出せる雰囲気ではない。

 仕方なくズボンのポケットから京之介の財布を取り出して、真白の手に載せる。


「ごめんね、昴ちゃん。これ、ここの代金」


 真白は京之介の財布から何の躊躇いもなく万札を取り出し、テーブルの上に置いた。

 それが当然と、有無を言わさない迫力があった。


「いやいやいや! こ、こんなにもらえないって!」

「迷惑料だと思ってくれていいから。あなたみたいな素敵な子と話せたんだから、それでも安いくらいじゃない? おら、行くわよアンタ達」


 完全に引いている昴にウインクをして、実に自然な動作でオレの耳を引っ掴む真白。


「いいいでででででで! おい! もげるもげる!」

「あんたも幽霊なら、耳なし芳一の話くらい知ってるでしょ」

「怖えよ! つか、これオレの体じゃねえの知ってんだろお前!」

「わかってるわよ?」


 ぐいぐいと容赦なくオレたちの耳を引っ張って、店の出口に向かいながら真白が酷薄な笑みを浮かべる。


「もちろん、アンタも同罪だからね。ナンパ之助」


 終わったな。オレも、京之介も。

 そういえば真白のやつ、最初っから言ってたもんなあ。


 アンタ達って。


「とりあえず預かってもらってる荷物を取りに行くまでは生かしといてあげるわ。その後どうなるかはアンタ達の心がけしだいね。そう簡単に楽になれると思うんじゃねぇわよ」

「わかった! 悪かった! 今回ばかりはオレが悪かったから! せめて京之、すけ、は……」


 耳を引っ張られながら、オレは涙で滲んだ自分の視界の片隅に引っかかったそれに気づく。


 おい、嘘だろ。

 ここ、街中だぞ。どんだけ人がいると思ってやがんだよ。


 喫茶店の外。

 大きな一枚物の窓ガラスの向こうに立っていたそいつは、オレと目を合わせるなり、実に楽しそうに口の端を吊り上げる。


 トンネルで会ったアイツは、笑いながら動き始める。

 男は女の尻に敷かれるくらいがちょうどいい、なんて昔の人は言いますね。

 場合によりけりだと思います。

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