第五話
今日から何かが始まると言っていたが、始まったのは悪夢だった。あの家に住んでいる人は、どうなっているのだろう? あの白い朧気な何かに襲われているのだろうか。だが悲鳴は聞こえず、辺りに響くのは不気味な咆吼のみだった。
他の家の人達も、この光景を見ているだろうか? 誰も家の外に出てきてはいないが、それは気付いていないからか、それとも俺と同じくこの光景に怯えているからか。
やがて白い影達は地面の上を滑る様に移動して森の中へと消えていった。時間にして二十分程度の出来事だった。集落から彼らの姿が消えると、背後でキッチンの明かりがついた。時刻は午前三時半を過ぎた所だった。
俺は窓際に隠れながら、ずるずるとその場に崩れ落ちて床上に座り込んだ。この村から逃げなければいけない。しかし、森の中にはあの白い不気味な奴らが居るだろう。もし彼らが夜中にしか姿を現さないのなら、昼間に逃げ出さないといけなかった。
壁に背をもたれさせながら、瞼を閉じ、次に開けた時、窓の外は既に明るくなっていた。驚いて時計を見ると既に朝の六時を過ぎていた。瞬き一つの間に三時間が過ぎた。寝た感覚は全く無い。むしろ先ほどの一件でひどく疲れていて一眠りしたいぐらいだ。
あまりの非現実的な出来事に、呆然と目の前に広がる早朝の景色を眺めていた。何が起こったのか、という疑問に説明などつく筈もなかった。
朝食は朝の七時と聞いている、今から寝たら確実に寝過ごしてしまうだろう。昨晩の事について他の人に話を聞きたいし、あの家が誰の家だったかも確認したかった。
大きくため息をつき、重い頭と疲れの溜まった身体を気力で引きずり起こし、衣服を着て家を出た。何よりもあの家が誰の家だったか知りたかった。そしてそこに居た人が無事なのかどうかも。それを確認しないと心の中の不安が消えない。気の弱い俺にとって不安とは恐怖そのものだった。
玄関を出てロッジの方へ向かいながら、それぞれの家の位置をよく確認する。順に見て行くと、昨晩のあの家は皆見さんの家だとわかった。あとは本人が無事かどうかだった。玄関まで行きチャイムを鳴らすと、すぐに応答があった。
「……はい?」
「おはようございます、嶋田です」
「おはようございます……」
インターホンを通して聞こえてきた声は皆見さんの声だったが、なんだか様子が違う。昨日の様に怒っている気配は微塵も感じられない。
「昨晩、何かありませんでしたか?」
「……いいえ、別に……」
「そうですか、朝からすみませんでした」
「はい……」
インターホンがプツッという音を立てて切れる。どうやら皆見さんは無事らしい。あの白い影の様な物は家にたかっていただけで、中には入らなかったのだろうか。まずは無事を確認出来た事で、心の中の不安は少し柔らいだ。
そのままロッジへ行ってリビングに入ると、時計は六時半を指していた。朝食までの間少し休もうと思い、ソファに深く腰掛けると、睡魔に負けてそのまま目を閉じた。
「……嶋田さん? 大丈夫ですか?」
誰かに名前を呼ばれ、目を開けると、村中さんと原石さんと前田さんが俺の顔を覗き込んでいた。
「……すいません、俺、寝てましたか?」
「ええ、朝食が出来たから何回か呼びに来たのだけど、どうしても起きなくて」
そんなに寝ていたのかと思い、時計を見ると既に八時を過ぎていた。
「ごめんなさい、昨日、よく寝られなかったもので」
「ええ、多分、その話はしないといけないから、先に朝食を食べてちょうだい。私達は皆見さんの様子をみるから」
「皆見さん、どうかしましたか?」
「どうも様子が変なの……いえ、落ち着いただけなのかもしれないけど……それは私達に任せて、まずは朝食をお願い」
ソファから立ち上がると、目眩を起こしてふらついた。前田さんが、貧血を起こしてるからゆっくりでいいよ。顔色も良くないみたいだし、朝食もゆっくりでいいからね、と言ってくれた。
俺はそんなに酷い顔をしているのだろうか? 原石さんも俺の顔を心配そうに見上げていた。感覚としては、やはり昨晩は寝てないと思う。瞬き一度の間に朝になったという非現実的な出来事は俺にとっては現実だった。軽く頭痛がする。目が乾いているらしく、あまり大きく見開きたくなかった。
手すりを掴み、ゆっくりと階段を登って食堂に入ると、手前の席に皆見さんが座っていて、神崎さんが穏やかな口調で話しかけていた。
「つまり、今、何が起こっているか理解できたから、落ち着いたって事だね?」
「はい……焦って帰る必要はなくなりました」
「そう、それでイライラもなくなったんなら、いい事じゃないか」
皆見さんは机の上を見ながら、神崎さんの質問に答えていた。なんだか病的な感じがしたが、元々そういう人だったのかもしれない。怒っている所しか見ていないから、想像でしかないが。
二人の横を通り、カウンターに置かれた朝食のトレイを取ると、自分の席へと持っていく。後から食堂に入ってきた前田さんと村中さんが、神崎さんに加わって皆見さんにあれこれと質問を始めていた。原石さんはそのまま俺の隣に座ると、大丈夫? と一言、気遣ってくれた。
「うん。今日は時間があったらゆっくり休む事にするよ」
原石さんは何か俺に尋ねようとしたが、俺が食事をとるのを見て口をつぐんだ。後ろでは昨晩何かあったのか? という前田さんの声が聞こえ、俺もその事について話を聞きたかった。俺が見たあれを、他の人も見たのかどうかも。
さりげなく背後の会話に耳を傾けながら、朝食を食べていたが、ここからでは皆見さんの声は聞き取れなかった。なんとなく伝わってきたのは、普通ではないという事だった。前田さんの、そんな馬鹿な、という言葉や神崎さんのため息は、お世辞にも良い内容の話をしていない証しだった。
朝食のトレイをカウンターに運んだ後、俺は原石さんと共に皆見さんの所へ行き、無遠慮に話に割り込んだ。
「昨晩、俺は皆見さんの家に白い何かの生き物が群がっているのを見ました。それで眠れなかったんです」
「君も、見たのか? 村中さんも見たそうだが」
「白い生き物って何なんだ? 森の中から出てきたって? どこから来たって言うんだ」
「私に聞かれても分からないわ。でも、これが始まりなのよ」
「皆見さんは落ち着いたって言うよりも、おかしくなったって感じだぞ?」
神崎さんは目の前で、机の上をぼうっと見続ける皆見さんの方に目をやる。村中さんが、何が始まったの? と聞くと、皆見さんはやるべき事です。と答えた。
「この村の作られた目的。皆さんもいずれ分かります。皆で協力しなければいけません」
「もっと具体的に、何をするのか言ってくれないかな?」
「皆が平等になるんです。私が最初に選ばれました」
全く具体的ではないその答えに、前田さんは苛立ちを隠しきれず、席を立つ。
「もういい。結局、何も分からない。分かったのは、その白い化け物に襲われたら、こうなるって事だ。そしていずれ皆そうなるって事だ。俺はこの村から出て家に帰る。諦めない」
「そうだな、この村に長居する必要はないみたいだ。こんな風になっちゃおしまいだ。そうだろ、まゆみさん」
昨日は現実に戻るのは嫌だと言っていた神崎さんが、掌を返して村を出て行くと言い出したが、神崎さんはこの村から出て行っても家族の所には帰らず、村中さんを追って東京にいくつもりなのだろう。下の名前で呼ぶという事は、それだけ二人の関係が進展しているという事だった。
「理由も動機も、何でもいいさ、村を出る事に協力してくれるんなら。さぁ皆で村の外に出る道を探そう。きっとどこかにある筈だ」
前田さんの言葉には根拠なんてなかったが、今の俺達に出来るのは村の外へ続く道を探し出す事だけだった。
「神崎さんは村中さんと一緒に。嶋田さんは原石さんと一緒に。俺は一人で十分だ。何か手がかりを見つけたら、すぐにここに戻って教えあおう」と言って前田さんは足早に食堂を出て行った。
「大同さんは、家ですよね……晴丘さんはどこに?」
「晴丘さんは、何か試したい事があるって言って、地下室に行ってるわ」
神崎さんと村中さんは席を立つと、二人で腕を組んで食堂から出て行った。もう人目をはばかるつもりも無いらしかった。
「……手……繋ぐ?」
「……えっと……どうしよう」
原石さんと俺は単に似た境遇、同じぐらいの年齢というだけで、神崎さん達とは違っていた。原石さんの方から、手を繋ぐかどうかを聞いてきたのは内心驚いたが、もしかしたら二人の影響を受けたのかもしれない。
「……そうだね、一緒に行こう。この村から出よう」
「うん」
俺が右手を出すと彼女はその手を掴んできて心持ち表情を和らげた。彼女も不安なのだろう。この不可解な集落で生き延びる為には、まず不安を和らげてくれる仲間が必要だった。
皆見さんは全てが他人事らしく、席に着いたまま、机の上を眺めてぶつぶつと呟いていた。確かに、これはおかしくなったと言うべきだった。命を奪われたわけではないが心は壊されていた。
この村から逃げ出さなければ無事では済まない。皆見さんはいずれ皆が平等になると言っていた。今のこの彼女と同じ状態になるという事だ。
心の中のどこかで、引き返すべきだったという声と、ここに来なければ原石さんに会えなかったという声が対立していた。果たしてどちらが良かっただろうか。