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赤い月  作者: 開田宗介
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第十話


 原石さんに揺すぶられて俺は目を醒まし、時計を見るともう三時になろうとしていた。彼女に起こしてくれた礼を言うと、俺はすぐにリビングの神崎さんの様子を伺いに行こうとした。しかし、ベランダの窓の向こうにあるものを見て、その場に凍りついた。


 月。赤く、しかも巨大で手が届きそうなほど近い。その赤は血の色で、どす黒く脈打ち、滲みながら月の表面を流れていた。赤い月の光を背に受け、白いレインコートに身を包んだ晴丘さんが音もたてずにベランダの扉から食堂に入ってきた。

 いや、晴丘さんではない。人間でもなかった。白いレインコートの様に見えるのはのっぺりとした皮膚で、所々がぱっくりと避けて黒い切断面を見せていた。そしてその白い肌の頭部、フード状になっている部分に晴丘さんの青白い顔があったが、頭皮はなく白目を剥き、上あごだけが残っていて下あごはなかった。

 上あごには鋭い牙状の鋭利な歯が並んでいて、その歯は汚らしく黄色く、唾液が表面を伝って垂れ落ちていた。頭部の下には丸い筒状の胴体があり、その表面は芋虫の胴体を彷彿とさせる様な筋が幾重にも横に走っていて、ぶよぶよと波打っていた。

 足は三本あり、その一本一本の太さが異なっていた。足先は棒状で、そして先端からは放射状に触手が伸び、蠢いていた。その生物はこの星の生物ではなく、あの赤い月から来た別世界の生き物だった。


 その生物に視覚というものはないらしく、代わりに体中から伸びている繊毛の様な触手で身の回りを探りながら動いていた。

 俺は見つかったら死ぬという冷たい恐怖に心を侵されながら、厨房の物陰に隠れてその異形の生物が通り過ぎるのを待った。原石さんには物陰に隠れて出て来ない様に伝えたかったが、それ以前に彼女は気を失って床上に倒れていた。

 リビングの方からあのでたらめなリズムの太鼓の音と、金属の擦れる音と、固い骨が打ち合わさる音が聞こえてきた。その音に反応して、異形の生物は食堂の扉へと移動していく。あの不愉快な音は、この生物を導く為のものだった。

 晴丘さんの顔の皮を被った生物が扉を開けて食堂から出て行く。階下にいるのは神崎さんだった。俺と原石さんが仕掛けた嘘は上手くいったのかもしれない。あいつは俺も原石さんも襲えず、最後に神崎さんを襲いに来たのかもしれない。俺はその時に神崎さんを守るつもりだったが、それは相手が晴丘さんという人間が相手の場合だった。今の俺は見つかる事に怯えるだけで、神崎さんが襲われるのを見る事しかできなかった。


「ああ……駄目だ……ああ、あああ……」


 食堂の扉を開けて階下を見た時、すぐに見るんじゃなかったと思った。

 異形の生物は、神崎さんの頭部に食らいつき、上あごの鋭い牙を頭部に突き刺していた。神崎さんは白目を剥いて全身を細かく痙攣させ、なすがままになっていた。その近くでは皆見さんと大同さんが両腕をねじ曲げ、身体をくねらせて奇怪なポーズを取りながら、呪詛を呟いている。

 二人とも、この生物に脳を侵されたに違いない。村中さんはどうだったのだろう? この生物に襲われる前に首を吊ったのだろうか?

 俺には何も出来なかった。刃物をとってあの生物に襲いかかろうなんて思えなかった。ただひたすら恐怖に震えながら、一部始終を見るだけだった。

 床上に伸び、全身を痙攣させている神崎さんの側を通り、異形の生物はロッジの表扉を開けて外へと出て行った。よくは見えなかったが、その生物を出迎えるように、小さな白い影達が出迎えていた様に見えた。

 やがてリビングと食堂に明かりがつくと、俺は改めて心身を襲う恐怖と戦い、止まらない震えを押さえ込みながら、気絶している原石さんの所へと戻った。

 原石さんの身体を引きずり、物陰の一番入り組んでいる所に隠すと、その彼女の身体を隠す様にして座り、ただひたすら時が経つのを待った。今はこの、最も安全だと思える場所から動きたくなかった。

 考えつく事は一つだけ、どうやってここから逃げ出すかという事だった。もう次は無い。明日は俺か原石さんが襲われる。二人一緒なら共に襲われるだろう。先に逃げた前田さんは死んだのだろうか。森の中を無目的に逃げても無駄なのだろうか。やはり神崎さんが言ったとおり、白い月を見つけて、それを目指すしか無いのだろうか。

 それならば、また夜まで待たなければいけない。霧や雨では月は見えないが、先ほど巨大な赤い月を見た時は空は晴れていた。明日、晴れている事を願うしかなかった。


 二時間が経ち、窓の外に日が昇って明るくなると、すぐに原石さんを起こしてベランダの方から外に出ようとした。彼女がベランダは怖いから行きたくないと言った為、仕方無くリビングの方の様子を伺ったのだが、階下では皆見さん、大同さんに加えて神崎さんも第三界の本をテーブルの中心において呪文を唱えている有様だった。

 るるぐ、るんぐふ、いあ、いいあ、ぐうるふ、るるうふ……。

 正確にそんな発音だったかどうかは覚えきれなかったが、その言葉には力が宿り始めている様に思えた。もうあと1人か2人居れば呪文は完成しそうな雰囲気だった。原石さんは階下の異様な雰囲気を見て閉口し、ベランダの方についてきてくれた。

 ベランダの階段を降りる時、細心の注意を払った。この階段は晴丘さんが良く通る階段で、ロッジの裏、発電機のある地下室は晴丘さんの持ち場だ。いつ顔を合わせてもおかしくないその階段を降りる時、俺はまた一つ絶望をそこに見た。


 村中さんを埋めた所が掘り返されていた。穴の中は階段から見えるかぎり空だった。誰かに掘り起こされたのか、それとも自力で這い出したのか。

 もし晴丘さんと村中さんが首謀者で、どちらも人間ではなかったとしたら、最初から俺達は騙されていた。村中さんの遺体を一日かけて埋葬させたのも、単なる時間稼ぎだったに違いない。発信器を作るというのも、応答があったというのも全て時間を稼ぐ為。彼らは何かの理由で、一日に一人しか襲う事が出来ず、午前三時にしか姿を現せないのだろう。その限られた時間で狩りをする為にこの集落は作られ、村中さんという美女をエサに男達の気をひくと共に、調理師として生活に貢献させて信頼を集めさせていた。全ては、狩りの為だった。


 原石さんと共に、誰の目にも見つかる事無くロッジを離れると、一番遠い俺の家まで向かった。各家の電線が悉く切られていて、狩りが終わりに近い事を現していた。もうこの集落に電気は必要無かった。獲物は居なくなるのだから。

 俺の家の電線も綺麗に切られていたが、それ以上に酷かったのは、扉も窓ガラスも壊されていた事だった。騙された事に対して怒り、家を破壊してでも隅々まで探したのだろう。原石さんのアイデアを聞いておいて本当に良かった。

 今度は逆に、その壊れた俺の家に身を隠して夜まで待つ事にした。出入り口の殆どが壊されていて、逃げ出すには好都合だった。


「昨日、私……あんな怖い思いしたの……初めて……」

「うん……晴丘さんの正体が、あんな恐ろしい怪物だったなんて、俺も怖かった」

「私達、逃げられるのかな……」

「神崎さんが言ってた事を信じよう。白い月を見つけてそっちへ逃げるんだ。もし俺が転んでも、原石さんは止まっちゃ駄目だ」

「……嶋田さん……私、名前はすばるって言うの。だからすばるって呼んで」

「俺は紀夫って言うんだ。ここから無事に逃げられたら、また君と会っても良い?」

「うん、いいよ……なんだか、神崎さんみたいな事、言ってる」

「そうだね……俺達は、逃げよう……必ず」


 壊れた家で身を寄せ合いながら、一時の安心をお互いに求めていた。ここに来る時もそうだったが、一人では心が保たない。一人は寂しい。一人は怖い。でも二人なら違う。それも親しい人なら更に違う。この集落では一人になった者が犠牲になっている。俺達がここまで生き延びられたのは、二人だったからだ。

 空は晴れていた。第三界の邪神も天候を操れる訳ではなかったらしい。まだ俺達には希望が残されていた。


 日が暮れる直前に、晴丘さんと死んだ筈の村中さんが話をしている声が聞こえた。どこに隠れても今夜が最後。儀式は完成し、古の神が赤い月からこの地に降りてくるわ。という村中さんの声に対し、晴丘さんは、ああ、とかうう、といううめき声で答えていた。

 会話は序々に遠くなって行き、俺と原石さんは身を潜める事に集中していた。白い月が見えたら、そちらへ全力で走る。その為に力を蓄えていた。


 日が暮れ、空が紫色になる。そう言えば俺は梅干しを買いにカナマリ村へ行く筈だった。初めての一人旅が、こんな事になるなんて想像出来る筈もなかった。邪教、邪神、そんなものが本当に存在するなんて、誰が信じるだろう。例え無事に逃げられたとしても、ここで見た事は誰にも信じては貰えない事ばかりだった。

 それももう終わる。夜になり、赤い月が昇ったのが見えた。あれは違う。あれは邪教の月。本物の月が別にあると神崎さんは言っていた。

 俺と原石さんはそっと家から出て、辺りを見回した。しかし、白い月は見えない。


「……この音……」

「ど、どうして? まだ、日が暮れたばかりなのに?」


 俺達は待ち伏せされていた。家の周りの森の中のあちこちから、太鼓と金属と固い物のぶつかる音が聞こえる。晴丘さんと村中さんは俺達を泳がせていただけだった。


「すばるちゃん、音から逃げるんだ!」

「う、うん!」


 初めて彼女の名を呼び、そして手を取って、音とは逆の方に走った。背後から何かが吠える声が聞こえ、でたらめな物音と、呪いの呪文を唱える声が追いかけてきた。

 皆見さんの声、大同の声、神崎さんの声、そして村中さんの声。呪文を完成させて、古の神を呼ぶと言っていた。その為には、俺達は殺さずに捕らえなければいけない。だが、捕まって神崎さんの様な目にあうのなら死んだ方がマシだった。

 今が何時なのかは分からない、ただひたすらに音から逃げ続けたが、後ろから追って来る音と声は、どれだけ逃げても付かず離れずで追いついてきていた。きっと俺達が疲れ果てて足を止めるのを待っているのだろう。そして止まった時が俺達の最後だった。

 原石さんも俺も、体育会系では無い。運動なんて人並みにしかした事がなかった。今更後悔しても仕方無いが、もっと早く走れる足が欲しかった。原石さんの足がもつれ、掴んでいた腕が引っ張られる。


「すばるちゃん、走って!」

「う……ん……」


 返事はあるが、原石さんはもはや一歩も走れず、よたよたとよろけながら、荒く息を吐き続けていた。


「いっ……て……」


 もう無理だと原石さんが手をふりほどこうとしたが、俺はその手を離さなかった。しっかりと掴み、彼女の身体をたぐり寄せると、数分でもいいからと思い、彼女の身体を抱え上げた。


「ごめん……」


 原石さんは持ち物を全てその場に捨てて、身軽になると、俺の首に両手を巻き付けてしっかりとしがみついてきた。しかし俺がその状態で走れたのは、せいぜい一分程度でしかなかった。


「ぷ、は!!」


 肺の中の息を吐き出すと、俺は最後の一歩分、渾身の力で山の斜面を飛び降りた。



 彼女の身体を抱えたまま、尻餅をついて山の斜面を滑り落ちていた。バキバキと何本もの枝葉が折れ、腕や身体に突き刺さる。

 俺だけじゃない。抱えられている原石さんも全身に無数の傷を負いながら、必死で俺にしがみついていた。痛みを我慢するか、それとも死ぬか。その二択の中で、俺達はひたすら痛みに耐えた。

 斜面を飛び降りた事は正解だったろうか。追ってきた音は遠ざかり、近付いて来ない。俺は斜面を滑り落ちながらも、なんとか前に転ばず、尻餅で済む様に必死でバランスをとっていた。右腕が異様に痛くて見てみると、自分でも驚くほど酷く腕の肉が切り裂かれていた。恐怖と酸欠で痛みが麻痺しているからこそ、耐えられた。


「月!」


 原石さんがそう叫び、右の方を指さした。地平線の少し上に、凛と輝く明るく、白い本物の月があった。森の中では木々が邪魔して見えない高さだった。あれこそが、俺達の逃げるべき方角だった。

 斜面を滑り落ちる速度を殺しつつ、月の方へと走る。原石さんは腕を放し、再度俺の左手を掴むと、俺を引っ張ってくれた。

 どこかから怒りに満ちた声が山に響き、そして何かが俺達の目の前にどさり、と落ちてきた。それは既に絶命し、腕と足をもがれた前田さんの死体だった。

 お前達もこうしてやる。逃がすぐらいなら殺す。そう言われている様な気がした。

 不気味な音の代わりに、山の中をガサガサと何かが降りて追いかけてくる音がする。彼らは俺達を捕まえるのを諦めて殺しに来ていた。

 自分の右後ろに何かが迫ってきている音が聞こえたが、そちらを振り向く余裕は無かった。ただひたすら、前に見える月を目指して走り、地面の凹凸を飛び跳ねて越えた。自分でもこれほど走れるとは思っていなかった。最後の力という奴だろうか。

 右肩に鋭い何かが突き刺さり、痛みに喘いだが、突き刺さった何かはすぐに取れた。その理由は眼下に見えた景色にあった。


「すばるちゃん、あのトンネルに入って!」

「うん!」


 それはあの短い10メートルほどのトンネルだった。来る時は集落のすぐ近くにあり、トンネルを抜けて下り坂を下りたら、あの集落に出た。あれは現実への出口だった。トンネルの中に入ると、俺と原石さんは平坦な道に出た事で地面の上を無様に転がりつつ、四肢をばたつかせながら、トンネルの中に転がり込んだ。

 背後のトンネルの奥側から無数の怒りに猛る咆吼が聞こえたが、俺達がトンネルから出ると、その声はぴたりと止んだ。

 振り向くと、トンネルは金網の柵で塞がれていて、この先行き止まり、立ち入り禁止の看板が貼り付けられていた。

 俺と原石さんは、その場にへたり込んで、不思議なトンネルを呆然と見ていた。

 心臓が張り裂けそうなほど脈打っていた。原石さんも俺も、全身、傷と泥だらけになっていた。俺の右肩は何かに貫かれて赤黒くなっていて、右腕は木の枝に切り裂かれて骨が見えるほどになっていた。

 序々に痛覚が戻ってくるのを感じつつも、俺はその痛みを逃げ延びた証しだと考えて痛みをこらえた。


「ありがとう、紀夫君。紀夫君のおかげで助かったよ……」

「すばるちゃんのおかげだよ……一人じゃ無理だった」


 俺も原石さんも、あの悪夢の集落から逃れられたのをやっと確信し、二人で泣きながら、支え合って山道を降りた。そしてあの奇妙な小さな広場に出ると、見慣れた場所に戻ってきた様に感じて、犬鳴の停留所の横に座り込んでしまった。

 俺達の命を救ってくれた月は沈み、日が昇ろうとしていた。もう二度と俺はこの山には登らない。近づきもしない。この山のどこかには、あの異形の生き物と村中さんが居て、次の機会を狙っている。彼らは次の犠牲者達の為にあの集落を作り直しているだろう。俺と原石さんは生涯癒えぬ心の傷を負って、現実へと帰っていった。



(完)


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