第一話
高校二年になって、五月の連休に入る直前の事だった。今年の連休はどこかへ遠出をしたいと思い、書店で旅行雑誌を立ち読みしていた。そこで、ある村の記事に目が止まった。江戸時代から受け継がれた製法で梅干しを作る村。他界した祖母の作る梅干しはとても酸っぱい物で、その記事の村の人から作り方を教わったと言っていた。それでその村に行ってみようと思い、旅行雑誌を買った。日帰りで十分な遠出で、みやげに酸っぱい梅干しを買って帰れば、父も母も驚く事だろう。その程度の軽い気持ちで犬鳴山という所にある小さな村に行く事にした。
連休二日目の朝九時、電車に乗って犬鳴山へと向かった。車窓から見える景色が見慣れた街並みから青い森に変わると、途端に不安になった。一人で遠出をするのはこれが初めてで、町育ちの自分にとって山は初めて見る世界だった。
もよりの駅は閑散とした無人駅で、そこからバスに乗って村へ向かう。バスは一日に二回しか来ない。村へのアクセス方法は旅行雑誌に載っていて、朝一番に家を出たのも、午前のバスに乗るためだった。無人駅の改札を出ると、バス停に古びたクリーム色をした小型のバスが停車していた。
「どこへ行かれますか?」
搭乗口に近付くと、運転席に座った初老の男性がしわがれた声で尋ねてきた。俺が梅干しを作る村に行きたいと答えると、ああ、カナマリ村ね。と運転手は答えた。
「結構歩くよ。山道を歩き慣れていないなら、犬鳴のバス亭から三十分はかかる」
搭乗口のタラップを登る俺に、運転手がそう忠告してくれた。俺は三十分という言葉に顔をしかめながら、前から二列目の窓際に座った。程なくエンジンがかけられ、ひどく大きな機械音と共に小型のバスが生き物の様に全身を震わせた。
「嫁山口駅前発、木子町行き、発車します」
嫁山口とはこの無人駅の名前で、木子町とは山を越えた向こうにある、少し大きな村の名前だった。目的の村は犬鳴という停留所で降りて、そこから村までの山道を歩く、と雑誌に書かれていた。所要時間は十分……運転手の話では三十分近くかかるらしい。
雑誌の調子の良さにのせられてここまで来てしまったが、失敗だったかもしれない。やめて帰ろうかと思うも、バスは走り出してしまっていた。
二十分ほど走ると、バスは不思議な場所に止まった。そこは山の中の丸い空き地で、黄色い砂利が敷かれた広場だった。その広場の端に犬鳴と書かれた停留所の看板があった。
マイクで到着を告げられ、仕方無く立ち上がって昇降口へ向かい、運賃を箱に入れる。心の中ではやっぱりやめよう、もう帰ろうという声がしていたが、俺と入れ替わりに老婆がバスに乗ってきた事で、不安が和らいだ。
おそらく村の住人だろう。ならば目的地はもう近い。村からここまでおばあさんが歩いてきたのだから、俺が村へいけないわけがない、と自分に言い聞かせて心の中の不安を抑え込んだ。
「こんにちわ、山岡さん。その子、カナマリ村へいくそうだよ」
「そうかい。兄ちゃんよ、道な、山の方に入っていったらいかんえ。途中で別れとるけど、片方は行き止まりになっとるで」
おばあさんはそう言うと、さっさと席へと歩いて行ってしまった。そして目の前でバスの扉が閉じる。数歩下がり、バスがこの奇妙な狭い広場を何度か切り返しをした後に、公道へと戻っていく様子を見送っていた。木々の青い葉が風に吹かれてこすれ合い、がさがさと音を立てていた。
バスが去ると孤独感だけが残った。目の前の半径3メートルほどの空き地には、薄黄色の小石が砂利として撒かれていた。その黄色と木々の葉の緑が今の季節は対照的で、違和感があった。しかし秋になれば葉の色は小石の色と同じになるだろう。それだけの為にこの見慣れない砂利の色にしたのだろうか?
バスの停留所として作られたにしては狭い空き地で、運転手はここを出るのに数度の切り返しをしていた。空き地の周りが斜面になっている所を見ると、この大きさが精一杯だったのかもしれない。停留所の標識は錆び付き、支える主柱は腐っていて、いつ倒れてもおかしくなかった。
空き地の山側に小さな登山道があった。途中で別れていて一方は山の中に入ってしまうから間違えるな、とおばあさんは言っていた。
記事にはバスの停留所から降りて一本道の山道を登る事十分、とだけ書かれていた。分かれ道の事など触れられてはいなかったし、所用時間も随分と違う。
カナマリという村の名も初めて聞いた。記事には梅干しを作る古い村としか書かれてなく、簡易の地図には犬鳴山の地名が記されていた。カナマリという村の名前など見た覚えは無く、どんな漢字かも分からない。覚えているのは犬鳴三丁目、という梅干しを売っている店の住所だけだった。
携帯端末を取り出してみたが、当然圏外で、連絡も地図を調べる事も出来なかった。
一つ小さなため息をつくと、諦めて犬鳴山へ続く登山道に入った。
運転手の言う通り、十分では村には着かなかった。十五分、二十分と歩いた所で来た道を振り返った。ここまで一本道で、分かれ道はまだ見てない。遅くとも三十分でつくという事なら、もうあと少しで村に着くだろうか。
しかし三十分を過ぎて歩いても、村に辿り着く事は無かった。辺りを見回すが木々と暗い谷底へと落ちていく斜面しか見えない。
携帯の時計は昼になろうとしている。家を出たのは朝の九時頃で、無人駅についたのは十一時前だった。そこからバスで二十分、そして三十分は歩いている。帰りも三時間かかるのだ。と思うと、来た事を後悔した。
意気消沈しながら山道を登っていくと、古い小さなトンネルに行き着いた。雑誌の地図にもおばあさんの言葉にもトンネルなんて言葉は出て来なかった。道を間違えたのかもしれない。
トンネルは10メートル程度の短いもので、出口は見えていた。レンガで作られた古びたもので、しっかりと作られてはいたが、かなりの年月を感じる風化具合だった。
初めての一人旅は失敗で、戻るべきだった。詳細な地図を買い、道のりを確認すべきだった。後悔だけが心の中で渦巻いていた。
しかし、そんな俺を前に進ませたのは、トンネルの向こうに分かれ道を見たからだった。このトンネルの先に行き、そこで辺りの様子を確認してから戻ろうと思い、古いトンネルに入った。先を見ると、出た先に右側、上へと登る細い道が見えた。左側は緩やかに下っていて、その先に村がある様な気がした。この上へと登る道は、どうみても山へと入る道だった。
分かれ道がこれだとすれば、これが正しい道だった。ならばもう村は近い筈だ。あとは村へ行き、そして梅干しを買って帰る。それだけの事だった。
トンネルを抜けて五分ほど坂道を降りた所で、数軒の家の屋根を木々の間に見つけ、安堵感と小さな達成感を感じつつ、足早に歩を進めた。
やがて道は拓け、数軒の家が集っている集落に辿り着いた。
だが、そこは明らかに村などではなく、雑誌に載っていた写真とも異なる小さな集落だった。
見渡す限り家は八軒だけで、そのうち一軒は大きなロッジだった。奇妙な事に家々はそれぞれが好き勝手な方向を向いていて、無秩序な建て方をされていた。
ここには道というものがなく、拓けた場所に家が点在し、それぞれの家は街中に建てられていてもおかしくない近代的な民家だった。どうみても雑誌に載っていた古い民家の並ぶ村とは別の場所だった。
集落の真ん中まで歩いていくと、ある家の窓が開き、若い女性が不機嫌そうに俺を見た。ロッジからは作業服を着た中年の男性が出てきて、ゆっくりと木製の階段を降りてくる。すぐ右にある家の窓が開き、背広を着た男が薄笑みを浮かべて俺を見た。
若い女、作業服の男、背広の男、どれも村の地元民には見えない。困惑しながら他の家を見ると、同年代の女の子と白いブラウスを着た綺麗な女性が家から出てきた。
「あの、ここは……?」
「さぁね?」
「ここはカナマリ村じゃないんですか?」
「違うよ! ここがどこなのか、誰にも分からないんだ」
背広の男の素っ気ない答えとは別に、力強い声が背後から聞こえた。振り向くと体格の良い若い男性がスウェットに身を包んで立っていた。背広の男とは対照的に人柄の良さそうな表情をしていた。
「どういう事……ですか?」
「俺は前田康士、名王市のジムでスポーツインストラクターをしている。君の名前も教えて貰えるかい?」
「俺は嶋田紀夫って言います。名王市……?」
聞いた事も無い地名だった。俺が住んでいたのは松ヶ枝市という所で、付近に名王という名前の市は聞いた事がない。
「嫁山口駅からバスに乗って、犬鳴のバス停で降りて、そこから歩いてここへ」
「よめやま……という名前は、君も言ってなかったか?」
前田さんは振り返って、同年代の女の子にそう尋ねた。軽いウェーブのかかったミドルのヘアスタイルの女の子は、黙って頷いた。
「嶋田さんは歩いて来たんだよね? どこから来たのか分かるかい?」
「えっと、向こうの……あれ……?」
前田さんの問いに自分が来た方向を指し示そうとしたが、この集落にどこから入ってきたのか分からなくなっていた。記憶を辿って森の近くまで行ったが、どこにも道と呼べる物は無かった。