1話
ある日、八澄鏡花の生活は一変した。
(ーーここはどこだろう。)
一定のテンポで聞こえる電子音と金属がぶつかり合う冷たい音。それ以外は何も聞こえない静けだけが満ちている。
微かな消毒液のにおいも漂っている。
目を開いたはずが、何も見えない。
「あ」
声は出た。
「だれ、かいる?」
「八澄さん、起きたのね。先生を呼んでくるからそのままで待っていて」
落ち着いた声とそっと肩に触れた手に落ち着きを取り戻した。
ほどなくして主治医と看護師が数人現れ、八澄鏡花はこの場所は大学病院で病院に運ばれてから5日経っていること、そして何も見えない理由が分かった。
「気をしっかり持って聞いてください。八澄さんの目は両方とも抉られていて、それもきれいにね。だから突然だけど…これからはリハビリと白杖の使い方を練習していきます。大変だけど頑張りましょう」
すぐに返事はできなかった。恐る恐る指を瞼の上に這わせる。包帯に覆われているが、少し力を入れると目玉の感触はなくへこんだ。あまりにもショックを受けた八澄鏡花は錯乱し、その日から落ち込んでしまった。
淡々と日々は過ぎていった。感情は落ち込んでいるものの、白杖の使い方と日常生活に関する動きはだいぶ慣れてきている。病院周辺の散歩もできるようになり、体調も安定しているということで退院の運びとなった。ただ、精神的に不安定なところが大きくとても心配だということで、お世話をしてくれる人はいないのかというのもあいまいな返事で終わってしまい、翌日からヘルパーがつく事にはなった。
帰ってきたアパートの一室。部屋は一階だった為、無事に辿り着いた。
今までだったら安心したはずが、見えないだけでこんなにも不安があるものなのか。自分の家だからと慢心していた。玄関のちょっとした段差、棚の位置、白杖は色んなところに引っかかってうまく動けず躓いてしまう。その拍子にそれが床に置いてあったカバンに引っかかり、思いっきり倒れてしまった。
「痛っ…」
誰も見ていないが、家でさえまともに動けない自分がとても惨めで恥ずかしくて涙が滲む。段々と止まらなくなって声を押し殺して泣いた。あまりにも変わってしまった自分の状況を誰にも気づかれたくなかった。
いつまでこうしていただろうか。
何も見えない八澄鏡花には時間も分からない。ただ、肌に触れる空気がひんやりしてきたのは日が落ちてきた証拠のようだった。それでも動く気になれず、更に時間だけが虚しく過ぎていく。
床に伏したままぼうっとしているといつだったかーー恐らく最近だと思うが誰かがそばにいてくれた記憶がぼんやりと浮かんでくる。温かなその人の影を追おうとするほど遠のいていく。
(ーー待って、助けて!)
こんな時にいつも助けてくれる人が居たはずだ。しかし、それが誰でどんな人だったか肝心な記憶が思い出せない。それがとても辛い。あの人はどこにいるんだろう、今も呼べばすぐに助けてくれるはずなのに。
(どうして来てくれないの?)
その時、耳の奥にある「声」が聞こえた。いや、ただの耳鳴りのような音かもしれない。だが、八澄鏡花には確かにそれが自分を呼んでいるのだと分かった。人間でもそこら辺にいる猫でも鳥でもない、それは不安と恐怖でボロボロになった八澄鏡花の気持ちを和らげていく。
(行かなきゃ。)
突き動かされるように八澄鏡花はそこに向かった。不思議とその音と見えるはずのない視界に光が歩くべき道を示してくれる。壁にぶつかっても、転んでも見てくれを気にせずただそこにある「何か」に会うためだけに歩き続け、とある建物の一室に辿り着く。
恐る恐る扉を開ける。
(綺麗……)
その瞬間、真っ暗だった視界がパッと開け、静謐な空気の中に浮かぶ虹色の泡に圧倒された。気づけば辺りは不思議と明るく、優しく包まれる感覚にとても落ち着いた。
またしても呼び声がする。それはより一層鮮明に八澄鏡花の脳内に響き続けている。
もっと近くに、その中に行けたら、この不自由で惨めな体から解放されるんじゃないか。そう確信した八澄鏡花の足は止まらず、その泡が沸き立つ中心に向かって、恐れもせず近づいていく。
あと少し。胸が高鳴り、希望が見えたその時--扉が吹き飛ぶ程の勢いで開き、煙幕のようなものが撒かれるとともに光る紋様を纏った武装集団が駆け込む。煙幕のあたりから虹色の泡は青白く変色しその形を崩壊させ、奇怪な音を立てて砂のように崩れ去っていく。それは八澄鏡花には苦しんでいるように聞こえ、自身も不快感を覚え始める。
そこに男の鋭い声が響いた。
「プルート・インク散布!!」
その号令の下、数発の発砲音と先程の煙幕のようなものが撒かれた。八澄鏡花の周りの明るく美しい景色はドロドロと溶け一変し、また暗闇へと戻り、激しい痛みと奇怪な苦痛の声が響き渡る。
誰が、邪魔を。睨みつけるように振り返ると、同時に八澄鏡花も激しい苦しみを感じ始めた。頭に響き続ける声も相まって割れるような痛みと吐き気に力が抜けて立っていられない。音が遠のき、暗闇の中でもぐわんぐわんと回っている気がする。
「あ、ああーーな、に?」
苦しくて限界を迎えそうな八澄鏡花は床に爪を立て少しでも逃げようと這う。訳も分からず行く先も分からない。でも逃げなければ、あの男に殺されてしまうかもしれない。
ーー早く、早く、はやく、はやく……
ズリ…ズリ…と這う八澄鏡花はついに力尽きてしまう。
「おい、大丈夫か?!班長、民間人保護!」
そんな八澄鏡花を抱き起した大柄な男--黒崎陣は、彼女が息をしていることにほっとした。が、目の部分には包帯を巻き、顔色は青白く息も荒い。一刻も早く連れ出さなければと抱き上げた瞬間、彼女は急に暴れだした。
「嫌だ、離れて!離してよ!!」
がむしゃらに動く八澄鏡花に黒崎陣は困惑した。『プルートインク』によって敵の脅威は無くなったはずが、彼女は恐怖を感じている。まだ残滓が彼女に影響を与えているのかもしれないと彼は魔除けである旧神の印『エルダーサイン』の入った盾を展開した。
八澄鏡花は黒崎陣に恐怖した。正確に言うと彼が持っているものにだが、今の彼女にそれがわかるはずもなく、彼のそばにいるだけで体が焼けるように痛む現実だけが八澄鏡花を支配していた。だからこそ考えるよりも先に彼女はそこから離れようと藻掻いた。しかし、どんなに必死に藻掻いても相手はがっしりとした体格でびくともしないどころか、抱えたまま移動し始めた。治まらないどころか激しくなる痛みと体力の限界についに八澄鏡花は意識を手放した。
「あっ、おい!!」
ぐったりとした八澄鏡花を抱え、黒崎陣は仲間に後処理を任せて、そのまま建物から飛び出した。




