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嵐のあとで  作者: 空野 翔


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第1話「六月の稽古場」

 団長が死んで二週間が経った。


 中西隆二は自転車を漕ぎながら、いつもの道を辿っていた。商店街に入ると、昼間でも人通りが少なかった。シャッターの下りた店が増えたのはここ数年のことで、隆二が高校生のころはもう少し賑やかだった気がするが、もう正確には思い出せない。

 

元・時計屋の前に自転車を止めた。外壁のモルタルが一箇所、拳ほどの大きさで剥がれていた。以前からそこにあった。いつ剥がれたのか、誰も知らない。階段を上がると、稽古場のドアが少し開いていた。

「遅い」声をかけてきたのは田中宗一だった。スーツ姿だった。今日は仕事だったはずで、それでも来ていた。パイプ椅子に座って缶コーヒーを持っていた。

「早いんじゃないの?むしろ」と隆二は言った。

「俺が早いんじゃなくて、お前が遅い」室内にはすでに何人かいた。松永拓也は窓際に立って外を見ていた。岡崎誠は隅のほうで道具箱を開けたり閉めたりしていた。入江健はパイプ椅子に座って、腕を組んで天井を見ていた。

 他にも劇団員が数人いた。六十代の三浦さんと、四十代の中堅どころの福田さん、若い木下くん。みんなどこかに目をやっていた。誰かの顔を真正面から見ることを、全員が少しずつ避けていた。


 隆二はドアの近くに立ったまま、部屋を見渡した。壁のポスターが目に入った。一番古いものは隆二が生まれた年のものだった。隆二が初めてここに来た高校二年の春、そのポスターはすでに少し日焼けしていた。今はもっと色が褪せている。

「木村さんは」と隆二が聞いた。

「まだ」と宗一が答えた。それだけだった。


 しばらく誰も何も言わなかった。稽古場は静かで、外から車の音だけが遠く聞こえた。六月の午後で、窓から差し込む光が床に長く伸びていた。岡崎が道具箱の蓋を閉めた。それだけで、少し音がした。

「暑いな」と松永が言った。

「クーラーつければ」と入江が言った。

「リモコンどこ」

「知らん」宗一が立ち上がって棚の上を探した。リモコンを見つけて、エアコンのスイッチを入れた。古い機械が低い唸り声を上げた。

「これ、壊れかけてたんじゃなかったっけ」と隆二が言った。

「去年からそう言ってる」と宗一が言った。「でも動いてる」

「栗原さんが直してたんだよ」と三浦さんが言った。誰も返さなかった。栗原という名前が出ると、部屋の空気が少し変わった。変わったというより、止まった。それからまた、ゆっくりと動き始めた。


 栗原義男は水曜社の団長で、六十二歳だった。三ヶ月前に倒れて、先月亡くなった。持病があった。劇団の財政が厳しいことも、みんな知っていた。だから誰もが皆、なんとなくこうなるだろうと思っていた。思っていたのに、実際にそうなるとやはり少し違った。

 隆二は栗原のことを思い出そうとした。稽古中の声、煙草の匂い、笑うときに目が細くなる顔。ひとつひとつは鮮明なのに、全体像がうまく結べなかった。


 ドアが開いた。木村恵子が入ってきた。いつもはメガネをかけているが、今日は外していた。それだけで話の重さが伝わった。

「来てくれてありがとうございます」と木村さんは言った。「突然集まってもらって」

「いえ」と誰かが言った。誰かはわからなかった。木村さんは部屋の中央に立って、一度だけ深呼吸した。

「栗原さんの件で。皆さんにご報告と、ご相談があって」全員が木村さんを見た。

「劇団のことなんですが…」

木村さんが言葉を選んでいるのがわかった。隆二はその間、エアコンの音を聞いていた。古い機械が、それでも冷たい風を送り続けていた。

「場所の契約が、来年の春までなんです。更新するには費用がかかって、栗原さんがいなくなって、その費用を誰が、どうやって、という話になってくると」木村さんが少し止まった。

「すぐに決めなくていいんです。ただ、皆さんに早めに知っておいてほしくて」

 三浦さんが「そうですか」と言った。静かな声だった。福田さんは腕を組んだまま頷いた。木下くんは床を見ていた。五人は何も言わなかった。言わなくても、全員がわかっていた。これは報告ではなかった。終わりへ向かう、最初の一歩だった。


 隆二は壁のポスターを見た。自分が十八歳のときに初めて出た公演のものが、一番右端にあった。タイトルは「夏の終わりに」だった。その公演で隆二は村人Bを演じた。台詞は二つだった。それでも、終演後に栗原が「よかったぞ」と言ってくれた。

その声が、もう聞けない。それが今さらのように、じわりと来た。隆二は顔には出さなかった。


 帰り際、階段を下りながら宗一が「飯食うか」と言った。

「いい」と隆二は答えた。

「なんで?」

「なんとなく…」

宗一は少し間を置いた。「そっか」と言った。


 商店街の出口で、五人はそれぞれの方向へ散った。松永だけが「またな」と言った。他の四人は軽く手を挙げるか、頷くかした。隆二は自転車に跨って、来た道を戻り始めた。夕方の風が少し冷たかった。六月なのに、妙に秋みたいな風だと思った。思っただけで、誰にも言わなかった。


—続く—


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