最弱者の慢心-1
ニンデルセンの隣国。バーゼル大陸東部にあるリガールは、バーゼルの主要貿易拠点として栄えた国である。中でもコーキー市は大陸屈指の港湾地区として有名だ。今も港に停泊しているだろう多くの巨大貨物船が、たくさんの輸出入品を運び下ろしては積み込んでいるに違いない。膨大な量の荷物は車に乗せられ、大陸中に広がる主要道路によって昼夜を問わず物流を作り続けている。
この街がまとう活気に、商業都市が持つ華やかさはない。だが、至るところでシステマチックに動く鋼鉄の重機たちには不思議な魅力がある。機械好きのローディからすれば最高のエンターテインメント空間だ。しかし、堪能する時間はないだろう。なにせ自分は仕事でここにいるのだから。
(早く終わったら自由行動。なーんてこともないだろうしなぁ)
潮の香りを含んだ濃厚な春風が吹き抜けるビルの屋上。地面に置いた荷物にもたれ、ややだぶつく軍用ズボンのポケットに両手を突っ込んで冷気をやり過ごすローディは、湾岸方面に向けていた顔を近くの景色へと移した。ミルクチョコレートを舌の上で転がしつつ観察する。
五階の高さから見下ろす周囲は、ひとことで言うと倉庫街である。もう少し言葉を追加するなら、事務所と倉庫を兼任する建物が並んでいる区域か。中小企業関係が集まる場所には雑多な印象がつきものだが、ここも例に漏れず入り組んだ町並みをしている。足を踏み入れれば独特の雰囲気を味わえるだろう。
しかし上から見た場合は別だ。楽しめるのは最初だけで、観察すればするほど違和感を覚える。原因の最たるものは、まだ日中であるにも関わらずこの区画だけ人の姿がないことだ。主要道路から数メートルしか離れていないのに、活気のかの字も見当たらない。
(治安の悪い人は治安の悪い場所に集まる法則、かな)
コリッ、とチョコレートを噛み割る。
ローディは両手を外に出すと、ダークネイビーブルーの袖を軽く上に引っ張った。右手首につけた腕時計を覗き込む。衝撃にも水にも強いと評判のアナログ時計は、光を反射しないマットブラックカラーも含めてローディ好みの支給品だ。
(そろそろか)
一呼吸。
溶けきったチョコレートを嚥下して、体を起こす。
首の後ろで髪を結んでいるヘアーゴムを掴み、抜いた。やんわりと広がる長髪を高い位置でまとめ直す。ゴムを巻く回数は普段より一回多く。きつく縛られたポニーテールに、額からこめかみにかけての皮膚が後ろへ強く引っ張られる。絞るような痛みによって、ぴりりと心が研ぎ澄まされていくのを感じる。眉間に全神経が集まってくる。いい緊張感だ。
いつもの『儀式』を終えるとローディは、手製のイヤフォン型通信機を右耳に装着した。電源を入れる。
直後、電子音が聞こえてきた。次いで音声が届く。
《状況はどうだ?》
高機動車にいるリュシエールだ。
「良好です」
ローディは膝上の高さまで出っ張っている外壁に上半身を預け、向こう側を覗いた。
「風が少し気になりますけど、さほど強くはないんで、大丈夫だと思います」
距離百メートル強。正面に二階建ての建物がある。窓はすべてカーテンが掛かっているか磨りガラスであるため、中の様子はわからない。しかし諜報部が掴んだ情報だ。希少ゆえに保護対象となっている幻獣を密輸しようと企む集団が潜伏していることは間違いない。
《緊張しているか?》
ほんの少しだけ笑みの混じった声がかけられた。突っぱねることは簡単だが、ローディは口端だけで笑って肯定する。
「初めての実戦ですからね」
《そうだな。緊張するなとは言えんよ。私も少し肩が強張っているから、お互い様だ。グレイの度胸を分けてもらいたい気分だな》
すかさず離れたところから「呼びました?」との声が聞こえてきた。驚きの悲鳴を上げたリュシエールが、慌てて追い払おうとしている。まるで普段と変わりないやりとりだ。
おかげで口元の強張りがましになった。ローディは先ほどより自然な笑みを浮かべ、全員の中で最も高いところにいるゆえに見える、各所に散って待機しているスペシャリストたちの動きを目で追う。
「今日は軍人さんたちがサポートについてくれてますからね。うっかりミスってもフォローしてもらえると思って、気負いすぎないように頑張ります」
《うん、それがいい。成功するに越したことはないが、失敗それすなわち教訓だ。不備は早めに見つかるに越したことはないというものだな》
どうやら上司に心配されていたらしい。ついさっきまではただの技術者だった人間がライフルを持って軍人になろうとしているのだから、無理からぬ話なのかもしれないが。
不満と照れくささとで苦笑して、結局、ローディは頷いた。
「了解です」
《よし。では全員で最終確認だ》
先ほどの電子音とは違う音が鳴った。四人の回線が相互に繋がった合図だ。
《全員配置についたな。これより作戦行動に移る》
ローディは壁から体を離すと、声に耳を傾けたまま荷物の上から射撃用グローブを拾った。去年から愛用している厚手の手袋をつける。
《任務の目的は、密猟団の捕縛。そして捕らわれた幻獣の保護だ》
シャツの上に着た防弾ベストを整え、傍らを振り返った。背もたれにしていた荷物の横、セッティングを終えてある武器を取る。
ボルトアクション方式のライフル型麻酔銃。ぱっと見は競技用のライフルと似ているが、実際はかなりの別物だ。誰にでもわかる点は、高倍率のスコープがついていることと、銃弾が麻酔薬の入った小型注射筒になっていることだろうか。
《作戦に変更はない。まずジオが突入。投降を呼びかけ、それでも抵抗してくるようならば攻撃を許可する。ジオ、中の様子はどうだ?》
リュシエールの問いに対し、ジオラルドの返答は端的だ。
《十五分前より変化なし》
彼は今、目的地の屋上にいる。敵に限りなく近づいている状況だが、ジオラルドは内蔵通信機を使用しているため、声を出さなくとも通信可能だ。
《二階東側奥の部屋に幻獣と思われる生体反応がひとつ。同じく二階、階段側の部屋に人間が六人。移動の気配は見られない》
《よし、気づかれてはいないようだな。ジオ。お前は屋内の占拠と幻獣の保護に徹しろ。逃走者は外で確保する》
《了解》
《ジオが抑えきれなかった者は外で片をつける。表の入り口から出てきた者はグレイが相手しろ。銃でも仕込みナイフでも魔法でも構わんが、むやみに傷つけるなよ? 頼むから》
《ご心配なく。低俗な人をいたぶって遊ぶ趣味はありませんよ》
《その言葉、信じるからな。で、裏口はローディだ。自信を持って、恐れず構えろ。いいな?》
「はい」
ローディは座ったまま標的のいる建物へと向き直った。左膝を立て、右足首の上に腰を落ち着ける。
「いつでもいけます」
《よし。作戦開始だ!》
リュシエールの合図とともに、ジオの突入が始まった。彼の姿が屋上に現れ、すぐさまドアから屋内に消える。
じりじりと過ぎる数秒間。そして、
《世界平和連盟公安軍特殊部隊OWBstだ。絶滅危惧種保護条約に基づき、保護指定幻獣の密輸容疑で全員逮捕する。建物はすでに包囲済みだ。おとなしく投降しろ》
ジオラルドが敵に対し、警告を発した。
イヤフォンから聞こえる音は嘲笑と罵声だ。それらはやがて不穏な音を混ぜだした。ジオラルドが動く。
《自主投降は不可能と判断。応戦する》
イヤフォンからだけでなく、左耳にも騒音が聞こえる。本物の戦闘が始まったのだ。たった百メートル先で。
ローディは銃床を上げた。
肘ががたついたことに驚き、自身の緊張を思い知らされる。
(大丈夫。競技より距離があるけど、練習したじゃないか。三百メートルの射撃練習でも、的を外したのは最初の五発だけだった。落ち着いて撃てば当たるよ)
言い聞かせ、深呼吸すると、フォアグリップを左手におさめた。支え持った銃身を外壁の上へ。銃の中ほどにつけた安定用二脚を据え、立てた膝に左肘を乗せて両脇を締める。
(伏射ほどじゃないけど、膝射でだってよくいい点取れてたしね。大丈夫、大丈夫)
銃床尾板を右肩に押し当て、銃床に頬を置いた。発射の反動で銃口が跳ばないよう固定する。
《二人、下に行った。頼む》
ジオラルドからの緊急連絡。
トリガーにかけようとした人差し指に変な力が入った。急いで右手ごと銃から外し、何度か握る動作をして固さを取る。
《ローディ、一人は俺が必ず中で止めます。もう一人が逃げた場合は頼みますね》
グレイの声に声で頷く。
「はい」
いよいよだ。
ローディは銃を握り直し、スコープを覗いた。裏口のドアに照準を合わせ、状況データと対応を順番になぞる。
(距離は約百メートル。風は東南、右斜め前から。弾が大きい分、失速率が高い。的を上方修正。競技用ライフルよりトリガーが固いからタイムラグに注意)
扉が動いた。
十字線の向こうに一人の男が出てくる。引きつった顔に続き、体が見えた。線の交差点がその右肩に合う。
――ダンッ!
耳慣れた発射音。
ほぼ一瞬のタイムラグのあと、男の体が不自然に傾ぎ、崩れ落ち、視界から消えた。
代わりに現れたのは、普段と変わらないスーツ姿のグレイだ。彼は足元を見ると、しゃがんでスコープの中から消え、通信機に声を飛ばしてくる。
《逃走を試みた二人の沈黙を確認しました》
《二階の制圧も完了。幻獣も無事だ》
ジオラルドの報告に、リュシエールが続く。
《お疲れ様。上々だな。護送と幻獣の保護は軍がやってくれるから、みんなは撤収準備を始めてくれ》
《了解》
《わかりました。すぐに戻ります。それにしても、ローディ。その距離から撃って腕に当てるなんて、すごいですね。生物相手の初射撃とは思えませんよ。お見事です》
再び黒い丸窓の向こうに現れるとグレイは、こちらに向かって笑顔で手を振ってからドアの向こうへと戻っていったのだった。
汽笛が、聞こえる。
主要道路を行き交う、トラックの走行音も。
潮風の匂いと、コンテナの鉄臭さ。
ついさっきまで好奇心を煽っていたはずの街の空気。
それらすべてが、どこか遠い。
ローディは、喉をこくりと動かした。チョコレートで粘度を増した唾液が、舌の奥で絡まり、落ちない――――。
「おいローディっ」
声が聞こえるともに首が後ろへ折れた。反動で体全部のバランスも崩してしまい、尻餅をつく。それだけで終わらず倒れそうになり、慌てて左手で地面を突いた。
ようやく止まったところで、後ろを振り返る。と、そこにはローディの髪を握るリュシエールがいた。髪を離して腰に両手を当てる彼女を見上げ、ローディはぱかんと開いてしまった口を動かした。
「リュウさん、いつの間にこっちに……っていうか、どうしたんですか? 何かありました?」
すると、リュシエールがこれ以上なくはっきりと、呆れましたと不機嫌顔に書いた。
「いくら呼んでもまったく応えないから、直接来たんだ。ちゃんと応答しろ。心配するだろう?」
それは納得せざるを得ない理由だ。
「すみません……」
自分の非を認めて頭を掻くと、彼女はややあってから表情を苦笑に変えた。
「大丈夫か? 必要なら片付けを手伝うぞ」
怪我をしたわけでもないのに、心配させておいてさらに手を貸してもらうのは心苦しいし、恥ずかしい。ローディはへにゃりと笑って首を振る。
「緊張の糸が急に切れて、放心状態になってただけですから、大丈夫です。リュウさんにだって、下の後片付けがあるでしょ?」
「まぁ、そうだが……」
ローディの顔を窺っていたリュシエールだったが、動いたのもすぐだった。怒らせていた肩を下げ、微笑む。
「わかった。急がなくともいいから、忘れ物をしないようにな」
そう言うと、彼女は地面を軽く蹴るようにして跳んだ。瞬間、姿が消える。どうやらリュシエールは魔法でここにやってきたらしい。それだけ心配させてしまったのだろう。やはり部下思いの優しい上司だ。
ローディはゆっくりと息を吐き、膝の上に転がった麻酔銃を見やった。重さを量るまでもなく競技用ライフルより重いそれをゆっくりと持ち上げ、保管ケースに収納するためパーツを外していく。
ビルの下からは人の声や物音がいくつも聞こえてくる。皆、撤収作業に追われているのだろう。人の気配が薄かった数分前が嘘のようだ。
しかしローディは、それを眺める気にはなれなかった。
眼下を、見たくなかった。
*
高機動車前に転移すると、リュシエールは素早くあたりを見渡した。
せわしなく働く人々の中でも恋人の姿を見つけるのはたやすい。それは向こうも同じだ。すぐに目が合い、頬が自然と緩む。
「グレイっ」
小走りでグレイの胸に飛び込み、抱きしめる。そうして、大きな手が自分の肩に置かれたところでリュシエールは、二十一センチの身長差がある彼を半眼で睨み上げた。
「お前、私に隠れて何をした?」
グレイの顔があからさまに引きつった。遅れて我に返り、急いで笑顔を浮かべ直す。
「いったい何のことですか?」
「とぼけるな。伊達や酔狂で四六時中一緒にいると思うなよ? 一万年以上の年の功を舐めるな」
言い切ると、彼の心が動揺と悔しさと頑固さで揺れた。
グレイは魔族だ。基本的に己の欲のためにしか動かない。そして彼の欲望は、うぬぼれではなく事実として、そのほぼすべてがリュシエールという存在に直結している。彼はリュシエールを悲しませることはしない。リュシエールを悲しませるものを断固として赦さない。リュシエールの望みを叶えることが至上命題で、リュシエールを愛し、リュシエールに愛されることだけを願っている。
そんな彼の心の性質――色欲属性を持つ魔族の性は理解しているつもりだ。だから彼の行動を頭ごなしに責める気は毛頭ない。しかし暗躍に気づいてしまった以上、見て見ぬ振りもできないのだ。ここで解放してやるわけにはいかない。
リュシエールは表情を軟化させると、グレイの背中に回していた手を下にずらした。腰骨に腕を引っかけるようにして落ち着け、両指を絡ませる。
「私が怒っているのは、お前が私に相談もせず黙って勝手にしたことに対してだよ。心配しなくとも、お前の心を疑いはしない」
「…………、知ってます」
「だったら話せ」
グレイが、目を伏せるようにしてリュシエールから視線を外した。そして、ゆっくりと息を吸い込むと目を閉じて天を仰ぐ。
「どうしていつもいつも隠し事が巧くいかないんでしょうね。心を読めるなんて、ずるいですよ」
大きなため息まじりの白状に、リュシエールは微笑んで首を傾げた。
「そういう属性だからな。あきらめてくれ。……で、いったい何をしたんだ?」
最後の抵抗か、空白が一秒。
「偶然を待ってたのではいつになるかわかりませんから、ジオに、二人か三人、わざと逃がすようにお願いしました」
グレイが不愉快げに眉を寄せ、リュシエールに向き直った。
「ローディは、生物を撃つのは初めてのようでしたから。敵から充分離れた場所から撃てて、しかも軍のフォローが確実に期待できる今回、体感してもらいたかったんです。生き物を撃ったことに動揺して隙をさらすようなことがあっても、被害は最小限に抑えられますからね」
「それで、こんな回りくどいことをして、わざわざ撃たせたのか」
「少なくとも、緊迫した状況下に初心者を放り込むことは避けられました。これで度胸が付くか怯えて銃を握れなくなるかはわかりませんが、ローディを無駄死にさせることはないでしょ? 文句あります?」
その表情は、へそを曲げていると同時に、どこか照れくさそうにも見えた。くっついている場所から伝わってくる彼の心もまた、傲慢で嗜虐的で情欲の固まりでリュシエール以外はどうなろうと知ったことではないと豪語する男には不似合いな、思いやりという言葉が似合うものだ。優しい想いは柔らかな熱を発し、リュシエールの心を温めてくれる。心地よさで頬が緩む。
「馬鹿。誰が悪いと言った?」
リュシエールは、不機嫌顔をさらす恋人の胸に頬を重ねた。深く抱きしめる。
「私たちの仲間を護ってくれたんだな。ありがとう、グレイ」
頭上で、小さなため息。そのあとで、大きな腕に抱き込まれる。
「ローディは、大丈夫でしょうか」
耳元で囁かれた声と抱きしめる体の熱が、グレイが隠し持つ優しい心と本心を伝えてくる。リュシエールは、数分前に見たローディの硬い表情とそこから受けた小さくも深すぎる痛みを心の隅に押し込めて、恋人の背中をさすった。
「赦し、見守り、辛抱強く待ってやろうじゃないか。大丈夫。私たちが思っている以上に、人間という種族は毅くて賢明な生き物だよ」
「……はい」
ぽんぽんと軽く叩いて、体を離す。そうしていつもの微笑に戻ったグレイとともに、片付けを進めるべく高機動車に向かった。




