東の魔物
「ユキワ、ユキワ!」
「ラニン様、どうしたの?」
「主様がお呼びだよっ!早く早く!」
「ちょ、引っ張らないでよラニン様ぁっ!」
ユキワと呼ばれた少年は蒼く輝く銀の髪を美しい黒い簪でおざなりに止め、金の散る翠玉の瞳に合わせたようなうぐいす色の衣は寝乱れたまま。齢14、5だろうにその姿は凄絶なまでの色香を垂れ流していた。
それに対し、ラニン様と呼ばれた少女は真っ白の髪を無造作に紐でくくり、着ている紅の衣はしっかりと着込んだ上で大きすぎるようにしか見えない桜模様の羽織を羽織っていた。少女の帯には美しい紅の蝶の簪がさしてある。その姿は齢10にも満たないほど。
幼い2人が手を取り合って騒ぎながら宮殿を走れば、宮殿を覆う7色に輝く不思議な糸が道を開ける。艶やかなそれの正体は宮殿の最奥に行けば分かる。
白磁の宮殿をひた走る。長い渡り廊下を渡れば、閉じられていた蒼い扉が黒糸に引かれて勝手に開いた。
「主様!ユキワを連れてきたよっ!」
ぴたっと止まったラニンとは反対に、勢いを殺せなかったユキワの体が床に投げ出されかけ…黒の糸が絡んでそれを阻止した。
「これ、ラニン。ユキワをあまり乱暴に扱っちゃダメでしょ」
足首を吊られながら思う。その言葉はあなたにも言いたい、と。
主様の御宮は大人の龍がくつろげるほどに大きい。部屋というよりは舞台のようなここは中央奥の寝椅子と四隅の柱以外に外と中を隔てる壁はない。吹きさらしでは寒そうに思えるが、編まれた黒糸が風を遮り、ちょうどいい温度に保ってくれる。
豪奢な寝椅子にはたくさんの黒糸が集まっている。蒼い絹の重なった美しい天蓋の下、透けそうなほどに薄い蒼の衣をまとう人影。真っ白な肌はきめ細かく、大きく猫目がちな目はキラキラと輝く桃色。結われていないその髪は、世にも珍しい7色に輝く黒で、その暗さと輝きが、主様の白い肌と桃色の瞳、華奢な肢体を際立たせる。
東の果てには、美しき魔物が住んでいる。7色に輝く長い黒髪は、魔物の住処である宮殿を這い、蒼のそれは黒く見えるという。張り巡らされた髪をたどって宮殿の最奥に行けば、しどけなく横になった美女がいるという。
そう、主様は確かにとてもお美しい…
でも。
「あぁぁ、もうっ!私のために一生懸命走ってきてくれるとかなんて可愛いの私のラニンっ!それに文句を言いつつも無理にふり払ったりしないユキワっ!天使かな⁈いや、天使だよ!この私が保証するっ!2人は可愛いっ!」
きゃー、と足をバタつかせて悶える主様のお姿は齢12ほどの幼さ。妖艶な美女とは程遠いし、魔物だとは到底思えない。主様を簡易に表せば、美しすぎる変態だろう。
「主様、僕が可愛いなら下ろしてよ。」
さすがに頭に血が上ってきた。僕が人族であることをこの人は度々忘れる。
「あ、ごめんごめん。」
マリオネットのように手足に髪が絡みつき、僕を地面にそっと降ろした。主様の髪はとても滑らかで冷たい。僕たちを守ってくれるこの髪は、ここを訪れる勇者たちにとっては何より恐ろしいらしい。なぜなら主様のこの黒は時にこの宮に害為す者たちを容赦なく切り裂く鋼になるからだ。
主様は、外の者に容赦ない。いつもと変わらない笑みで、小さな朱唇を開き、細い喉を震わせて笑うのだ。切り裂かれた不届きものたちの亡骸を見て。
それでも、主様は絶対に宮の者に髪を向けない。
僕は髪を梳きながら主様を見上げた。
「主様、どうして僕を呼んだの?」
「こっちにおいで、ユキワ」
入り口から主様の寝椅子までは十五メートルほど。寝椅子まで10メートルのところから一段上がる。この30センチの差を僕達は尊重する。いかに宮の者といえど、主様の許しなくこの境は侵してはいけない。その境を僕は、超えた。
桃色の目が一瞬細まった。あちらこちらの髪が、蛇やドラゴン、甲冑の騎士や獅子の姿をとってはまた糸に戻る。
寝椅子まで5メートル。これもまた、境界。寝椅子を照らす一対のろうそく立て。これより先は宮の者でも主様の足として第を頂いた者ではないと入れない。
「もっとこっちにおいで、ユキワ。愛おしい天使。」
一歩、踏み入れる。それはもう、一瞬で膝が折れた。倒れそうになったところをまた髪に支えられる。そのまま髪に運ばれる姿がけしていいものではないことを知っていながらからだに力が入らない。
濃厚な、むせ返りそうなほどに甘い、甘い花の香り。それはもはや目に見えない手となって動きを封じてしまうほどに暴力的な甘さ。
跪いた格好で寝椅子まで運ばれる。あげられない顔を、主様の繊手がすくい上げた。
しっとりと吸い付くような肌に思わず唾を飲み込む。
「明日はユキワがここへ拾われた日だよ。覚えてる?」
「……ぁ…ぃ」
上手く声にならない声を主様は聞き分ける。
「そう、いい子だね、ユキワ。」
主様は全てを魅了する。主様に1番近い御宮の御髪には、一本たりとも簪は挿されてない。主様の美しい御髪は、それそのものが飾りなのかもしれない。そんなとりとめないことを考えながら主様を一心に見つめる。
「7歳だったユキワがもう15に見えるようになった。ここにきてから外では50年ほど経ってる。もうユキワを虐げた者たちはこの世にはいないよ。どうする、選んでユキワ。宮の外に出て人として生きるか、この東の宮の主に仕える腕となるか。」
それは。
目を見開いても声は出ない。無言の驚きは背後のラニン様からも感じられた。
東に住まう8つの腕を持つ魔物、というと人は実際に8本の腕を持つ美女を想像するが、実際は違う。腕というのは第を与えられた守り人のことだ。今、腕は第七までいる。つまり、主様の腕になりうるのはあと1人だけ。
「人となって私たちと離れるか、第八の腕となって私のものになるか。選んで、ユキワ。」
絶望が目に映ったのだろうか、朱唇が薄く笑みを佩く。
「ああ、たとえ外の者になったとしても私はユキワを歓迎するよ。別に縁を切るというわけじゃない。」
「…ぁ、ぼ、…く、」
「うん、」
「あ…る、じ、さま、と…」
「可愛いユキワ。美しいユキワ。宮の者たちに愛され育った人の童よ、この東の魔物の第八の腕になるかえ?」
「ぁ、い。」
そっとするほどに艶やかな、獣の熱を秘めた瞳がユキワを撃ち抜いた。髪が、ユキワから離れ、床に投げ出した。
痛いというより冷たいと、先に思った。初めて、乱暴に扱われた、そのことが体を震えさせた。
「可愛いユキワ、美しいユキワ。妾に仕え、妾の物となるなら、隷属を示せ。」
すらりとした、真っ白く可愛らしい足が、少し先に伸ばされた。
無様だ、でもそれでも構わない。絡みつく濃厚な甘い花の匂いに酔いながら、ユキワは差し出された足に、口付けた。
隷属の証の口づけを受けて、東の魔物は朱唇を歪める。
「ああ、ああ、可愛いユキワ、美しいユキワ。お前は妾のものとなった。妾の第八の腕として、妾のそばにあれ。」
主様、そう言おうとした口に東の魔物の足が入ってきた。
どこまでも甘い、蜜の味が口に広がり、息苦しいほどに甘い花の香りが篭る。
「噛め。」
反射的に噛めば、とろりとした熱い、凄まじく甘いなにかが喉を滑った。
「っぁ、ぐっぁ、」
喉が、焼ける。五臓六腑が悲鳴をあげ、血管がもえたち、ユキワは苦しさまのあまり叫んだ。
痛い 苦しい 熱い 気持ち悪い 焼ける 溶ける 刺される
潰される 飲み込まれる 喰われる 削られる
そしてなにより、ひたすらに甘い