31.花言葉
星が見える。満天の美しい星。
夏でも気温が低いこの国は、空気が澄んでいるから星がとても美しく見える。今も雲一つない春の夜空に、たくさんの星がきらめいていてそれはとても美しい。ほっと息を吐くと、白い塊りが夜空へと飛び立ってすぐにその姿を消してしまう。
ここは湖の離宮。王城の西側に位置していて、裏手に湖を思わせるような大きな池があることから、そのように呼ばれている。そしてここは、今夜から陛下と私の住まい。
今までロゥアン陛下が使っていらっしゃったお部屋は、実は執務室の一室。私との婚儀を機に、陛下が幼少時代をお父様とお母様と一緒に過ごされた、思い出の詰まったこの離宮を改装してくださった。
そして今私がいるのは、陛下と私の居室となる野葡萄の間のバルコニー。扉や家具のありとあらゆるところに野葡萄の彫刻が施されているこの部屋は、生前、陛下のお父様とお母様がご使用されていらっしゃったとか。そう聞いたからなのかもしれないけれど、なんだか温かい雰囲気に満ちている気がする。
そんな野葡萄の間のバルコニーから見える、美しい星空。その下には街の灯りがいくつも揺れている。そのひとつひとつの灯りの元に、家族や友人や恋人たちが今のこの時を穏やかに過ごしているのだと思うと、切なくも温かい気持ちになっていく。いつもならこのまま、温かい気持ちのままで眠りにつけるのに…。
なのに今の私には、そのやさしい灯りにさえも落ち着くことができなくて、心がざわついている。バルコニーはとても静かなのに、心が落ち着かなくてどうすればいいのかわからない。婚儀とさっきまでの晩餐会の様子が鮮明すぎて、気持ちが高揚したままでいることと、この後のことも気になって……。
今日、私はロゥアン陛下との婚儀を終えた。
朝早くから支度をして、アイスブルーのドレスと野の花のベールを身に纏い、レドリア大聖堂へと向かった。眼鏡を外していても、沿道を埋め尽くす大勢の人々が私の乗る馬車に、大きな歓声とともに手を振ってくださるのがわかる。
こんなに多くの人が惜しみない祝福を私に贈ってくださるなんて……。胸が熱くなって、大聖堂に着くころには涙で前が見えないほど。
『ルノエ様、もうここでお化粧を直すことになるとは思いませんでした。』
ガーネットを思わせる豪華な赤毛と、やさしいヘイゼルの瞳の女神のごときヒュイアさんに、控室で笑われながらそう言われたけれど、その瞳は私と同じように赤くなっていて…。ふたりで泣きながら笑って、お化粧を直してもらっては、また泣いて…を何度か繰り返した。
そして婚儀。
石造りの大聖堂に漂う荘厳な空気は、外の喧騒などまったく伝えず静寂と張り詰めた緊張感で、満ちていて圧倒された。このレドリア大聖堂でロゥアン陛下のお父様、そして歴代の王族方の数々の婚儀が行われてきた。そしてその中に私が名を連ねることの意味を今更ながらに痛感して、さら緊張する。
黒の正装姿のルイに震える手を添えると、私の心を読み取ったかのようにルイは、静かに口を開いた。
「…ルノー、父さんと母さんがついてるぞ。もちろん、俺もな。ロゥと幸せになれよ。」
子供の頃からいつもやさしかったルイ。口は悪いけれど、いつだって私の味方でいてくれた。お母さんとの約束の時間に帰らなかったとき。拾った子猫を飼いたいと泣いたとき。いつも一緒に頭を下げてくれた。
そして四年前のあの嵐の後も、イリサと一緒に私を心配してずっと支え続けてくれた。ルイ自身も辛かったはずなのに、それなのにいつも私を気にかけてくれて…。
「ルイ。」
「ん?」
「ありがとう。私、ルイ兄さんの妹でよかった。」
「……俺を泣かす気か。」
私よりも濃いブルーの瞳が、涙を滲ませながら笑う。
ルイ、今まで心配をかけてごめんね。ありがとう。
今度は声に出さずに、そう言った。
ルイにエスコートされて、礼拝堂を陛下が待つ祭壇までゆっくりと歩く。霞んでいるように思えるほどの、高い石造りアーチの連なる天井。祭壇までの長い道のりを、ルイに支えられてゆっくり陛下の元へと歩く。ハリク殿下とリィオル様。そして近隣諸国の方や貴族の方々。そしてイリサやカルオさん達が見えるけれど、緊張で足が震えてもつれそうになるほど。
そしてようやく祭壇の前で、私の手はルイから陛下へと託された。ルイとは違う大きな手に包まれて見上げると、ロゥアン陛下は艶のある黒髪はきれいに流されていて、濃いグレーの正装にアイスブルーのタイ。そのグレーの瞳はいつになく穏やかで、とても晴れやかなご様子。心からこの婚儀を喜んでいらっしゃるのがわかって、私もとても嬉しかった。そして婚約式でもお会いした司祭様のやさしいお顔に、緊張が少しだけやわらいだのを覚えている。
アーチ状の天井に朗々と響く、司祭様のお声。粛々と進められる婚儀。誓いの言葉と指輪の交換。そして誓いの口づけ。あんなに大勢の方の前での口づけはとても緊張してしまい、恥ずかしさのあまりにすぐに俯いてしまうと、ツイと陛下の長い指が私の顎を掬い取られて、まさかの二度目の口づけ……。
すると厳かな空気の大聖堂が静かにざわめいたのには、顔から火が出るほど恥ずかしかった。軽く睨むと、陛下はグレーの瞳を大いに緩めて、まるでいたずらが成功した子供のような表情で笑っていらっしゃる。その無邪気な笑顔に、恥ずかしくて恨みがましく思う気持ちなんて、すぐに消え去ってしまった。
儀式が終わり、参列していただいた多くの方々からの祝福を受けながら、陛下とともにゆっくりと大聖堂の外へ向かう。さっきまでの恥ずかしさも緊張や不安もすべて消え去り、ただただ嬉しい。
ルイの目が赤い。イリサは泣いている。カルオさんとエミリさんも泣いている。リラとカラはとびきりの笑顔。その様子を見た途端、急に胸がつまって私も涙が溢れた。
ありがとう。
感謝の言葉しか出ない。
みんな、ありがとう。お父さん、お母さん、ありがとう。
ここにはいない父と母に感謝しながら、今祝福してくださっている方々にも感謝した。
『ルノエ、行くぞ。』
大聖堂の外は大きな歓声と拍手以外、なにも聞こえない。それはまるで陛下と初めて出会った、港の街の市庁舎の前を思い出させた。震える手を陛下の大きな手に添えると、ぎゅっと強く握りしめられる。驚いて見上げると、そのグレーの瞳は堂々とした自身と誇りに溢れ、遥か遠くを見透すような眼差しの横顔でいらっしゃった。改めてこの方のお傍に寄り添い、少しでも支えることができれば…と、私自身の想いも新たにした。
『ルノエ。』
昼間の想いに浸っていて、ロゥアン陛下がバルコニーへいらしたことに気づかなかった。やさしい声と共に強引なやさしさで、強い腕が背中から私をまるごと包む。いつもなら嬉しくて胸が高鳴るけれど、今夜は緊張が先に立ってしまって、うまく体を預けることができない。
『どうした、寒いのか?身体が強張っているが。』
『いえ…。こんなに早くいらっしゃるとは思わなくて…。』
『ああ、俺も気が急いているからな。酔っ払いの相手を長くする気にもなれない。』
後ろから抱きしめられたまま、首筋に口づけを受ける。私の口から洩れた白い吐息が、また春の夜空へと飛び立っていく。心臓の音が頭に響いてなにも考えられない。
『中に入るぞ。』
『あ。』
ふわりと抱き上げたのは、いつも私を攫う腕。本当はもっと強い力を秘めているはずなのに、私を守るようにやさしく包む温かい腕。この腕が一番安心できる場所だったのに、今は一番落ち着かない場所になってしまっている。
心なしか背中にあてられた陛下の手に力が込められている気がして、しかもいつもより体を引き寄せられている気がして、離れることは許さないとばかりに締めつけられる。そしてよりいっそう、陛下の胸へ引き寄せられてしまう。
『フフ…ルノエ大丈夫か?心臓の音が伝わってくるぞ。』
『大丈夫では…ありません。』
『怖い、か?』
こう話している間にも、寝室の扉が近づいて来る。少しでもその扉から遠ざかりたくて、今度は私から陛下の胸元に身を寄せながら、首を縦に振ることでしか答えることができない。初めてのときはシリロのことを忘れたくて、必死に陛下に縋りついたけれど今は……。
『ああ、大丈夫だ。俺も怖い。』
陛下の予想外の言葉に驚いて顔を上げると、困ったようなグレーの瞳とぶつかった。
『俺はルノエを妻に迎えることができて、喜びで胸が張り裂けそうだ。だが俺の強すぎる想いをルノエがどう思うだろうかと考えると、怖い。』
『…………。』
なにも言えなかった。ただ全身が突然発火したかのように熱くなって、もう顔を上げることができない。
『…ルノエ。愛してる……。』
大きなベッドの上で眼鏡を外されて頬に口づけを受けられたあと、長い指にそっと部屋着の胸のリボンを解かれた。するとすぐに肩が露わになって……。それ以上は見ていることができなくて目を閉じた。
大きな熱い手が私の身体の輪郭をたどり、その後を追いかけるように柔らかな熱がたどっていく。恥ずかしくて隠そうとしても許してくださらなくて、すべてを見られていると思うとさらに恥ずかしくなる。でも陛下の手と唇は、私にそんなことを考える余裕を次々と剥ぎ取っていく。
『っ、ロゥ…すき。』
熱に浮かされたように告白すると、急に強い力が私のすべてを開いた。戸惑うこともできないくらい性急に、そして強引に。背中を支える固い腕は、少しでも逃げようとする素振りを見せると、引き戻されて深く捕らわれてしまう。私の名前を呼ぶ声はいつもは深くてやさしいのに、今は焦りと切なさを感じる。
『ルノエ、ルノエ。ルノエ………』
強い力はビクともしない。避けることも逃げることもできず、ただ息も絶え絶えに陛下を受け入れる。燃えるような熱が、私の中へ押し入ってくる。息を詰めてそれに耐える。
『あっ!』
強過ぎる刺激に思わず目を開けると、そこには鋭いグレーの瞳があった。荒い息遣いのせいで胸が痛い。それでも陛下は容赦なく、さらに奥へと私を追い詰めていく。
胸が苦しい。息ができない。喉が干上がる。身体が熱い。足が震える。
『ルノエ、熱いな…ああ、とても熱い…』
私を苛む熱はより一層、温度を増していくばかり。それはやがて燃えるような蛇になって、私の中でのたうち回り、さらに奥へ、最奥へ進もうとする。
『ロゥっ、ぁあっ………』
春の浅い夜の中で、私は陛下の妻になった。
そして夏。
「きゃーー!!いっっけぇぇぇぇーーーーー!!!!やったぁぁーーーー!!!!!」
「ルノエ!落ちるぞ!!」
北の国からは想像もできないほど、港の街の夏。
私は港の街に帰って来た。もちろん陛下と一緒に。十日後にはハリク殿下とゾルエン侯爵令嬢リィオル様の婚儀がこの国で行われる。陛下とともに招待されているので、少し遅いハネムーンと称してこの港の街へ里帰りさせていただいていた。宿泊先は、父と母が残してくれた小さな家。
熱い潮風。波の音。海鳥の声。遠く聞こえる汽笛。大歓声の中、水しぶきを上げて進む、レガッタ。そして赤いブーゲンビリア。なにひとつ変わっていない。人も街も景色も、一年前のまま。庭先のブランコも、私の部屋の窓から見える海の景色も…。
変わったのは、陛下と私の関係。陛下と通訳から、国王とその后になった。あのときはこんなことになるとは、考えもしなかったのに……。
斜め後ろの小さな椅子。そこが私の場所。あの頃のちょっと卑屈な自分を思い出して、それを愛しく感じる。
でもこれから先、陛下の隣に並んでいても、きっとあの頃の気持ちは変わらない。卑屈な気持ちはなくなったけれど、あのとき願った「陛下の未来がお幸せであられますように」という気持ちは変わらない。そしてこれからは、微力ながらも陛下の隣で支えていけるように、私も精いっぱい努めるだけ。
それなのに……
『まったく、お前は!観客席から落ちるつもりか!』
『…すみません。』
『夢中になるのはいいが、いつもいつも……。ああルノエ、あまり俺を心配させるな。』
『ごめんなさい、ロゥ。』
レガッタに夢中になり過ぎて観客席で立ち上がってしまい、危うく落ちるところだったのを陛下に支えていただいた。私が陛下を支えていくつもりなのに、逆に陛下に支えていただいてしまって…。しかも叱られていたのだけれど、結局最後はいつも通り、陛下に抱きしめられて……
『ああ、かわいいな…ルノエ。ルノエ………』
やさしく繰り返される口づけ。何度も名前を呼ばれながら受けるそれは、愛されていることをさらに実感させるもの。
少し強引で、でもいつもやさしく、上から私を覗き込むように見守ってくださるグレーの瞳。艶やかな黒髪と長い手足と見上げるような背丈。そして赤いブーゲンビリアの下で繰り返される愛の証。
今こそ伝えようか、ブーゲンビリアの花言葉を。
あなたしか見えない……。




