30.ベール
春の佳き日。
明日、ロゥアン陛下と私は婚儀を挙げる。
長く厳しい冬が去り、ようやく春めいてきたこの国で、私は陛下の妻になる。
婚儀を明日に控え、近隣諸国からのお客様が続々とご到着されているようで、城内は慌ただしい。ロゥアン陛下は、そのお客様のお迎えに忙しくされていらっしゃるけれど、私は今日一日をのんびり過ごす。
婚儀前日は花婿と花嫁は顔を合わせないのがこの国の慣例ということと、婚儀に出席するために来てくれたルイ家族や、港で別れたままのカルオさんとエミリさんとの時間を楽しめばよい、と陛下が気を遣ってくださったから。
「ルーちゃーーーん!!!」
「カラ!リラ!」
久しぶりに会う顔に嬉しくて嬉しくて、到着早々ルイに感謝すると…。
「なあに、気にするな。今までの宿泊費、食費、明日着るドレス代まで、すべてロゥ持ちだ。」
「…………。」
感動的な再会を、たった一言で打ち砕かれた……。
後宮は相変わらず私ひとりが住んでいるので、リドリスさんが以前ルイが来てくれたときのように、私の部屋の隣をルイ一家の部屋。そして廊下を挟んだ向かいに、カルオさんとエミリさんの部屋を用意してくださった。
他に人がいないから、カラとリラがはしゃいでも気兼ねなくくつろいでもらえるから、やはりリドリスさんは頼りになります。
「ルーちゃん、眼鏡違う」
「ルーちゃん、王子様どこ?」
「うん、赤い眼鏡はもう使えなくなったの。だから新しい眼鏡にしたのよ。えっと、王子様じゃなくて王様なの。今日はお忙しいから、明日会ってくださるわ。」
今私が使っているのは、フチのないシンプルな眼鏡。シリロとのお思い出が詰まった赤い眼鏡は、もう使っていない。
それにこれからは赤い眼鏡で私を認識してもらうのではなく、私自身をたくさんの方々に覚えていただかなければ、という陛下の想いもあって眼鏡を替えた。
「赤いのもかわいかったけど、今の眼鏡はルーちゃんのお顔がよく見えるね。」
カラが陛下と同じことを言うから、つい笑ってしまった。
賑やかなカラとリラと一緒に庭を散歩したり、厨房のベンチでイリサとエミリさんも一緒にお茶をしたり。夕食は私の部屋でみんなで久しぶりに楽しんだ。近況や他愛もないことや、婚儀のことや陛下のこと。時間がいくつあっても足りないくらい話が弾む。
「ルノエの顔を見てほっとしたよ。」
「本当ね。きっと大丈夫って思っていても、やはり顔を見ないと不安だったものね。」
私を養子にしてくださったカルオさんとエミリさんが、これでやっと心の底から安心できると言いながら笑う姿を見て、今までどれだけ心配をかけていたのか思い至る。
「カルオさん、エミリさん…ありがとうございます。」
「ルノエは昔からうちの娘同然だからね。なぁ、エミリ。」
「そうよ、だからルノーちゃんの花嫁姿を見れるなんて、本当に……こんなに、嬉しいことは…。」
「エミリさん…。」
感極まって泣き出されるエミリさんに、私ももらい泣きしそうになる。
「もうエミリさん、泣かないでくれよ。これからはこっちに来ればいつでも会えるんだから!」
「そうね。ね、エミリさん。夏はこちら、冬はあちらっていうのはどうかしら?」
「おおイリサ、それはいい考えだ。」
「そうね。そうすれば、みんなに会えるわね。」
夏はこちら、冬はあちら…?
「おお、ルノエには言ってなかったね。実は今年の秋を目途に、こっちに支社を設けることにしたんだ。支社長は、ルイだよ。」
「ええええ!!!ほんと!?」
「ああ。思ってたよりこっちの仕事は大成功だったし、軌道に乗っているんだ。しかも引く手数多。これからも王城で荷受けってわけにはいかないからな。ロゥと宰相補佐官に許可もらったから、秋にはイリサもカラもリラも引っ越すからな。」
「イリサ、本当に?」
「そうなのよ。ルノエの都合のいい時に会ったりできるかしら?」
「カラも、ルーちゃんに会いたい!」
「リラも~。」
「嬉しい!陛下にお願いしてみる!」
思わぬ出来事に嬉しくて嬉しくて、後ろに控えてくださっていたヒュイアさんを見ると、「大丈夫です」というふうに頷いてくださった。恐らく、陛下の許可もすぐにいただけそう。
楽しい夕食を終えてリラとカラが欠伸をしはじめたので、みんな明日に備えて早めに自室に戻った。
わたしも寝室へ入ろうと支度を整えているところへ…。
『ルノエ様、陛下がおいでになられました。』
『え?ヒュイアさん、確か今日は陛下とお会いしないはずでは?』
『ふふ…きっと落ち着かないのでしょう。』
ヒュイアさんが笑いながらおっしゃるから、恥ずかしくなってしまう。
部屋着にガウンという格好だけれど、そのままでよいと陛下がおっしゃるのでそのままお会いする。
『ああ、ルノエすまない。』
『ロゥ?』
『明日、渡そうかと思ったのだがやはり今日のうちがいいかと思ってな…。』
そう言って照れくさそうに私の視線を避けて、手にされていた箱を開けてくださる。
『あ、これは…。』
それは、港の街からこの国へ来る途中に立ち寄った、レースの街で見たもの。陛下に聞かれて私が選んだのは、小さな野の花のモチーフ。
それがこんな優雅で繊細なベールになっていたなんて……。
陛下が箱から取り出して、部屋着のままの私にそっと掛けてくださる。
『ああ、やはりよく似合う。かわいいな…。』
見上げると、上から私を覗き込むグレーの瞳が緩んでいて、あまりにも嬉しそうで……。つい恥ずかしくなって目を逸らすと、その先にはトルソーに飾られた、明日着る花嫁のドレス。
上半身の美しく繊細なレースは、ホワイトに近いアイスブルーのノースリーブ。スカートも、同じ色のオーガンジーを幾重にも重ねた流れるようなラインで、銀糸の小さな花の刺繍とパールが裾にちりばめられている。シンプルだけど可愛らしさのあるドレスに、ベールをかけてみる。
『わぁ………きれい。ね、ヒュイアさん。』
『ほんとうに、ルノエさまにぴったりですわね。ルノエ様、ドレスのレース部分とベールのモチーフが一緒なのはお気づきですか?』
『え?』
ヒュイアさんにそう言われて見ると、ドレスのレースにはベールの野の花の中で、ひとつだけ同じモチーフの花が使われてあった。
『これは……もしかしてブーゲンビリアですか?』
『ああ、よくわかったな。ベールの中にもドレスにもブーゲンビリアも入れさせた。ルノエに似合う小さな愛らしい花だからな。』
赤い葉に包まれた、小さな白いブーゲンビリアの花。魂の花とも呼ばれ、花言葉は「情熱」と「あなたしか見えない」。
陛下はこの花言葉をご存知なのだろうか?…多分、そうではないはず。
この言葉を陛下にお教えしようか…と、一瞬迷ったけれどやめておいた。だって「あなたしか見えない」というドレスを明日の婚儀で身に纏うのは、あまりにも当てはまりすぎていて、恥ずかしい……。
心がふわふわとしている。
とまどう私を上から覗き込まれるグレーの瞳は、ランプのオレンジ色の灯りを受けて、不思議な色にきらめいて……。
でもその色よりも、陛下のお言葉、仕草、その眼差しだけで私を愛してくださっていることを、どうしようもなく実感してしまう。
もう明日からはひとりじゃないんだ……。
港の街は、私が生まれ育った大好きな場所だけれど、父と母が行方不明になってからはずっと寂しかった。あの小さな家でひとり暮らすのは辛かった。でも明日からは……
『ルノエ、明日からは寝室もひとつなのだからな。』
『!!ロゥ!!』
ヒュイアさんの前でそんなこと!!
顔から火が出そうだと思っていると、ふいに長い指が私の顎をとらえて上を向かされる。そしてフチのない眼鏡を取られてしまって…。降ってくるはずのやさしい口づけを予感して、私は目を閉じた。
『ルノエ、かわいいな……』
なのに……
「おいっ!!なにしてやがるっっ!!!」
「えっ!ルイ!?」
振り向くとルイとリドリスさん、イリサが部屋に入って来たところ。ルイは完全に怒っている。
「式まで花嫁に会わないって話じゃなかったのか!?腹黒補佐、どうなってんだ!?」
『…ったく。陛下、やはりこちらでしたか。お式の前夜に私がルノエ様のお部屋を訪れるなど不躾と思い、ルイ様にご同行をお願いしましたが、まさか本当に陛下がこちらにいらっしゃるとは。…まったく堪え性のない。ルノエ様のベールが行方不明とあって、皆で探しておりました。だいたいそのベールは明日、大聖堂でつけていただく予定ではなかったでしょうか?』
『あぁ…。いや、早い方がいいかと……』
「ロゥ!ルノーから離れろ!!まだ式も終わってないってのに、くっつくな!!!」
………腹黒?腹黒補佐?腹黒ってなに?今ルイは、リドリスさんのことを腹黒って言ったよ、ね…?
ルイがわめいているけれど、耳に入ってこない。ただ「腹黒補佐」だけが、私の頭にこだまする……。
「ルイったら、そんなに大声出さなくても。いいじゃない、少しくらい。」
「いいや!イリサ、少しくらいじゃない!!これはけじめというもんだ!」
「けじめ?…あら、そう言うあなたは、私と婚儀を挙げる時、どうだったかしら。ねえ、ルイ?」
「う………。」
イリサの一言で、ルイが途端に口を噤む。
「さ、ルイ。子供達が目を覚ます前に部屋へ戻りましょう。失礼いたしました、陛下。」
イリサは陛下にご挨拶を申し上げると、ルイを引っ張って帰ってしまった。
「腹黒補佐」がまだ私の頭の中に響いているけれど、誰もそのことを追及しないのはルイの人徳なのか、ただ単に気付かないフリをしてくださっているのか……。
『…ふふ、イリサ様は素晴らしいですわね。では私達も失礼いたしましょう。』
と、今度はヒュイアさんがリドリスさんを引っ張って退室された。
「腹黒補佐……。」
陛下に聞こえないように、そっとつぶやいてみる。誰も気づかなかったけれど、いいのかな。このまま流してもいいのかな。
リドリスさん、お気を悪くされてないかな。でもリドリスさん自身も、気づかれていなかったような……。
『ルノエ。』
部屋はまた静寂に包まれていて、美しいドレスとベールが何事もなかったかのように佇んでいる。
見上げると、上から覗き込まれるグレーの瞳。いつもはやさしさを湛えた瞳から、一瞬だけ炎が見えた気がした。
『目を、閉じろ。』
明日、春の佳き日。私は陛下の花嫁になる………