26.雪の色
ルノエの微熱は今も続いている。医師もあれこれ手を尽くしてはいるが、なかなか思うように回復しない。
そんな様子をヒュイアも心細く思っているようで、最近は俺が部屋を訪ねると事細かくルノエのことを話すようになった。だが相変わらずルノエは俺に会うことを拒んでいるのだが…。
ヒュイから聞く話では、ルノエは徐々に衰弱しているのではないかと思える。
『とにかく食が細すぎるということが、回復が遅れていらっしゃる原因のようです。料理長に依頼してルノエ様のお国の料理と、口当たりの良いものもお出しするのですが、どれもあまり手をつけられません。』
『……痩せたのではないか?』
『はい。…目に見えてお痩せになられました。』
『そうか。…ヒュイ、ルノエに会いたい。』
『はい。少しお待ちください。』
ルノエが熱を出して、今日で五日目。昼も夜もルノエの傍を離れることなく、心を砕いているヒュイにも相当な疲れが溜まっているだろう。
『陛下、申し訳ございません。さきほどのお薬の影響でよく眠ってらっしゃいます。』
『ああ、顔を見るだけでいい。』
寝室の扉に向かいながらそう断言すると、ヒュイはもはや俺を制止しようとはしなかった。
薄いカーテンが引かれた寝室はなんとなく重い空気が漂う。そっとベッドに近づいて覗き込むと、そこには熱のせいか頬を染めたルノエが眠っていた。だがその姿は以前と違っていて……
こんなに細かっただろうか?
こんなに儚かっただろうか?
こんなに危うかっただろうか……?
今にも消え入りそうな様子に胸を抉られた。
…ルノエは心に大きな負担を抱え込んでいるのだろうか。だとすると、それはあの男のことか…。四年も待った男が自分を裏切っていたなど、やさしいルノエには耐えがたいはずだ。しかも行方不明になってから日が浅いうちに所帯を持つなどと…。
静かな寝室でたったひとり、抱え込んだ物の重さで沈んでしまいそうなその姿には、今までの伸びやかなルノエの気配はまったくない。
そっと小さな手を取ると、その手は以前より薄くなったような気がする。
あの港の街で出会った、赤い眼鏡ときらめくアイスブルーの瞳で俺を見上げるルノエ。高く結った髪が潮風になびいて、攫われてしまいそうだと思った。夏の暑くまとわりつくような空気の中でも、ルノエの周りだけは涼しげな風が吹いていて、その笑顔は赤いブーゲンビリアのように鮮やかで……。
五日前、赤の隊を見に初めて街へ出かけた時も本当に嬉しそうな様子だった。あの輝くようなかわいい笑顔…。そして瞳の色と同じアイスブルーの花嫁衣装を着たときの、頬を染めながらも俺に身を寄せてくる様子に、心から彼女を愛しいと思った。
なのにあの男に出会ってしまうとは……。しかもルイからの忠告があったのにもかわらず、あの男が赤の隊にいる可能性にまで考えが及ばなかったのは、完全な俺の落ち度だ。
壊れてしまったかのように動揺して泣き叫ぶルノエの様子は、俺の嫉妬心を掻き立てるのには充分過ぎた。深く傷ついた彼女を手離すことができず、部屋へ囲い、そしてそのまま……。卑怯だとは思った。だがルノエの気持ちを一瞬でも俺に向けさせたかった。一瞬でもあの男のことを忘れさせたかった。
……そしてその結果がこれだ。ルノエは己の殻に閉じこもり、心を失いかけている。これがあの男のせいなのか、それとも俺のせいなのか…。
ふと、ナイトテーブルに置かれたルノエの両親の写真に目がいく。ルノエの面差しによく似た母親の穏やかな表情が、幸せを物語っている。そして父親も……。写真立てを手に取ろうとして、その手前に光る物を見つけた。
俺が贈ったブルーダイヤのリング。
…ルノエは眠るために外したのだろうか。それとも、身に着けたくないから外したのか。そう思いつくと、俺の中で一気に渦巻いたのはドス黒く熱い想い。
もうこのままにしてはおけない。このままルノエが心を閉ざしていくのを黙って見ているわけにはいかない。
想いのままに深く眠るルノエをブランケットごと抱き上げると、明らかに以前より軽くなっていることに驚いた。まるでその軽さが無言で俺を責めているかのような錯覚を起こすが、敢えて無視しなければこれ以上自制できない。
腕の中で眠るルノエの長いまつ毛が少し震えているのを、瞼に口づけして止める。熱のせいか、少し熱い…。
『陛下っ、ルノエ様をどうされるおつもりですか!?』
『俺の部屋へ連れて行く。』
『今はまだ無理です!』
『ヒュイ、邪魔をするな。』
『ですが!』
『このままでいいとは思えない。ルノエは俺の傍に置く。』
ルノエの様子を不安に思っているヒュイも、今は俺の言葉に強く反対することができない。迷ったままのヒュイの脇をすり抜けて廊下へ出た。
シン、と静まり返った後宮の廊下には俺の足音だけが響く。誰もいない後宮を寒々しく感じながら、腕の中のルノエの寝顔を見てふと思う。
……ああ、ルノエはこの静かな廊下をなんと思っただろう、と。
あの賑やかな港の街で育ったルノエ。彼女に親愛を寄せる家族や友人と毎日過ごしていたはずだ。それを偶然出会った俺が、なんの覚悟もできていないルノエをいきなり攫い、周囲の者から突然離した。
俺はルノエを妻にできる歓びに浮かれ、警護に最適だから、うるさい貴族達から遠ざけることができるから
と、誰もいない後宮に押し込めて…。愛していると言いながら隔離し、自由を与えず籠の中に無理に閉じ込めた。
だからルノエは人の気配を求めて厨房へ行っていたのだろう。ルノエの居場所として定着してる厨房のベンチが、彼女にとって安心できる場所であったことが今頃になってようやくわかる。俺はなんと酷い仕打ちをルノエにしていたことか……。
ルノエは必死に順応していたはず…、と言ったリドの言葉が蘇る。
こんなことになるなら、慣例も噂もなにも気にせず、俺の想い通りにルノエをすぐに事実上の妻にすればよかった。俺の部屋から遠く離れた後宮ではなく、いつでも顔を見ることのできる距離に置けば…。俺は体面や噂ばかり考えて、ルノエの心を考えていなかった。後宮という離れた場所に置いたがために、ルノエにとって俺は安易に甘えられる存在ではなかったのかもしれない。
後宮を守る近衛がルノエを抱き上げた俺を見て驚いているが構わず進む。
回廊に差し掛かると、雪が降り始めていた。重たい色の空から無数の白い雪が、ふわりふわりと落ちて来る。ルノエが楽しみにしていた雪だ。
『ああ、寒いはずだな。ルノエ……雪だ。』
深く眠ったままのルノエには聞えていない。白い肌に影を落とした長い睫と頬にかかったブラウンの髪が、余計にルノエを儚く幼く見せている。
ふと傍へ落ちてくる、ひとひらの雪。ふわりふわりと落ちてきて、ブランケットからはみ出したルノエの裸足の足に舞い降りた。
………白い。
あの夏の日に、小川で足を浸したルノエを抱き上げた時のことを思い出した。俺が歩くたび所在なげに揺れていたあの小さな足は、陽に焼けていて健康そのものだった。なのに今では………。
ふわり、とまた雪がひとひら小さな足に降りる。
白い白い小さな足。陽に焼けていた足は、陽の当たらない国でいつの間にかその色を落とし、今では真っ白になってしまった。そのうえ寒さのせいで、爪までが白く染まっている。
俺は一体なにをしていたのか。なにを見ていたのか…。ルノエを苦しめるために攫ってきたのか…。ルノエを不幸にするために攫ってきたのか。無力で情けなくちっぽけな存在でしかない俺が、国王などと言えるのだろうか。ルノエひとり幸せにできない俺が………
『陛下!!なにをなさっているのです!!』
突然回廊に響く大声に目を向けるとリドがまっすぐこっちに向かっていた。怒気を全身にまとっている。
『ロゥ、ルノエ様をどうするつもりだ?』
静かだが底冷えのするようなリドの低い声。榛色の瞳が燃えているようだ。こんなリドは久しぶりに見る…。
『俺の部屋へ連れて行く。』
『こんのっ、ど阿呆が!なにやってんだ!!今の状態でこの寒空の中を連れまわるなど、ルノエ様を殺す気か!?』
『……ころ、す?』
『そうだ!今お前がやってることは、ルノエ様のお命に関わることだ。しかも部屋へ連れて行く?またこの方の環境を変えてしまうつもりか!さっさと部屋へ戻れ。ヒュイも心配してるだろ。』
『…リド、俺はどうすればいい?どうすればルノエを守ることができる?』
『そんなことは自分で考えろ。』
投げやりに言いながら、リドは自分の上着を脱いでルノエにそっとかける。俺に対する口調は横暴でも、ルノエに対するその手つきは思いやりに満ちていた。
『ロゥ、これからゾルエン侯爵がおいでになる。』
『…なんの用だ?』
『ルノエ様のことだろう。』
『………。』
『ここさえ切り抜ければ、腑抜けは当分執務に出て来なくていい。ロゥ、正念場だぞ、しっかりしろよ!』
『ああ…。』
なぜこんなことになったのか。なにが良くて、なにが悪かったのだろう………。
固く閉じられたルノエのまつ毛が震えている。




