16.闇色の凪
『お帰りなさいませ。ルノエ様?』
『ヒュイアさん、私……。』
『陛下からお話がございましたか?』
『はい。』
『それはルノエ様にとって、良いお話でした?』
『………よくわかりません。』
ロゥアン陛下の求婚を私は受けたことになる。本当にこれでよかったの?
あの後ベンチで陛下に口づけをされて、そのまま抱きしめられていた。
低い声で何度も私の名前を囁かれ、大きな手が纏めていた私の髪を解き、長い指で何度も髪を梳かれた。そして額、瞼、頬、こめかみ、耳。いろんなところに口づけされて…。
陛下のお言葉も口づけも、とても嬉しかった。
でも少し冷静になると……
『私、いいのかな?本当に陛下と…いいのでしょうか?』
『お悩みになられるのですね。』
『はい。…正直に言えば。』
ヒュイアさんは私をソファーに座らせて、お茶を淹れてくださる。
「ルノー、大丈夫!ゆっくりと考え事をする時には温かいお茶がいいのよ。」
いまだ行方不明のやさしい母が、白い指先でポットからカップにお茶を注いでくれる姿をを思い出す。
私のブラウンの髪は母譲り。母はいつも丁寧に編込んだ髪型をしていて、夜その髪を解くと年齢よりも幼く見えた。
いつもクルクルと動き回って、何事にも前向きで積極的に取り組む、明るい母。そんな母は語学教師をしていた学校でも、人気の教師だった。
「ルノー、今日はいいことがあったのよ。」
学校から帰った母が言う言葉。話を聞くと、それは他愛もない出来事ばかり。でも母は本当に嬉しそうに話してくれる。
そんなやさしい母とヒュイアさんが重なって見えた。
ねえ、お母さん。私いいのかな?ロゥアン陛下と結婚してもいいのかな?側妃様は迎えないとおっしゃっていたけれど、本当かな?周りの方々はそれを認めてくださるのかな?もし私がお后様になったとしたら、陛下は他の人達に非難されないかな?こんな庶民で、なんの取柄もない私がお后様なんて、陛下が笑われたりしない?ねえお母さん、私どうしたらいいの?………もう、シリロを忘れてしまってもいいの?
漠然とした不安が黒い霧のようになって、私の中に入り込む。胸の中が真っ黒だ。
怖い、吐き出したい。でも黒い霧はさらに増えるばかりで、息ができない。どうしよう、苦しい。お母さん助けて!
『ヒュイアさん。私、どうしよう………』
耐えきれず、私は泣いた。
お茶を出してくださってから、ヒュイアさんも隣に座ってくださった。
きれいなガーネット色の髪。そしてやさしいヘイゼルの瞳が私を心配そうに覗き込む。
『ルノエ様のお心の中で、なにが一番大きく占めていらっしゃいますか?』
『……私なんかで、いいのでしょうか?』
『…なぜそう思われます?』
『私なんかが陛下の隣に立つなんて……。私のせいで陛下が笑われてしまうかも。』
『なぜ笑われるとお思いですか?』
『私、庶民だし。それにきれいでもないし、教養も作法もなにも知らないですし………』
『では、ルノエ様をお后様に、と望んだのはどなたですか?』
『え?陛下……。』
『そうです。ルノエ様を望まれたのは、ロゥアン陛下ご自身です。ご自分が皆に笑われるのをわかった上で、ルノエ様を望まれたと思われますか?』
『……そんな風には思いません。でも、もし私が失敗したら!』
『そういうことはありません。とは言い切れませんが、でもその時は陛下がきっと助けてくださいます。それに宰相様も宰相補佐官のリドリス様も。もちろん私も、周りの者皆、ルノエ様を全力でお助けいたします。大丈夫です。皆を信じてください。』
『信じる……。』
『はい。絶対に、大丈夫です。ただしルノエ様自身にも相当な努力は必要と思われますが。でもルノエ様は一番大切なものをすでにお持ちですからね。』
『大切なもの?』
『……人として、お后様として、大切なものですよ。それに陛下はああ見えて、誠実な方です。本当にルノエ様のことを想っていらっしゃいます。私もルノエ様がお后様になられるなら、これほど嬉しいことはございません。…ですが、ルノエ様に今必要なものは、自信かもしれませんね。身分の件は陛下が手段をお考えでしょう。教養や作法はこれからいくらでも、教えて差し上げることができます。…おきれいでないということですが、今から試してみましょう。』
そう言って、ヒュイアさんは私を寝室へと連れて行った。
ドレッサーの前に私を座らせて、眼鏡を取り、髪を解いてブラッシングをしてから結い上げはじめる。手慣れた手つきで髪をきれいに纏め上げ、そして次はメイク。
下地を丁寧にして下さって、自然な感じに仕上げてくださったようだ。……眼鏡がないから鏡が目の前にあっても、よく見えない。
そしてドレス。いつ用意されたのかわからないけれど、アイスブルーの上品で軽やかなドレスを着つけてくださった。流れるようなスカートのラインと、胸元のピンタックには繊細なレースが施してあって、とても素敵だった。
『……思ったとおりです。さ、ルノエ様、ご覧ください。』
差し出された眼鏡を受け取って姿見の前に立つと………。
『え?これ?』
『はい。とてもおきれいです。ルノエ様はお優しいお顔立ちをされてますから、淡いお色がお似合いです。……本当に品よく可愛らしくて、おきれいですよ。』
確かに今までの私とはまったく違う。短所をきれいに隠して長所をさらに引き出されてるという感じ。
……私のごく微細な長所を見つけてくださったヒュイアさんに、感謝します。
でもドレスに赤い眼鏡は、似合わない……。
『もう夕刻ですが、参りましょう。』
『え?どこへ?ヒュイアさん?』
ニコニコと嬉しそうなヒュイアさんに手首を捕まれて、強引に連れて行かれた先は……
『ルノエ!?』
『おおお!ルノエ様!』
『素晴らしい!!』
……ロゥアン陛下の執務室。
陛下とナジェリス宰相様とリドリスさんの驚きの声に耐えようと思ったけれど、………無理!恥ずかし過ぎる!!
まじまじと私を見ようと席を立ちあがる椅子の音が聞こえて、羞恥が恐怖となった私はヒュイアさんを押しのけるように執務室を走り出た。
『ルノエ様!?』
驚いた声が聞えたけれど、そのまま逃げた。慣れないドレスでもつれる足に気を取られながら、走る。
そのうちになんだが情けなくて悲しくて、涙がこぼれた。
こんなドレスを着て、髪も結ってもらって、でも私には陛下の隣に立つ資格も自信もない。だったら諦めればいいのに、それでも私は………
『ルノエ!!』
後ろから左腕を取られたと思ったら、そのまま腰を攫われて体が宙に浮く。あっと思った時には、抱き上げられていた。
あの港の街で攫われたときのように。
『……ロゥアン、陛下。』
下から私を見上げるグレーの瞳。夕陽に染まっていつもと違った色で、逃げた私を優しく見上げてくださる。
『ああ、思った通りだ。よく似合う。美しいな。……ルノエ、なにを思い悩む?』
『陛下。私、どうすればいいのか、わかりません…。』
また涙が溢れる。泣き顔を見られるのが恥ずかしくて、両手で顔を覆って泣き続けた。
すると陛下は私の背中に手をそっと添えて歩きだされる。昼間、陛下に求婚された時は心の底から嬉しかったのに、今は不安が心の底から溢れ出す。
ヒュイアさんに勇気づけてもらっても、こんなにきれいにしてもらっても、それでも不安が後から後から私の中に湧いてくる。
もう胸の中が真っ黒に染まって苦しくて、息ができない。苦しい。辛い。悲しい。
シリロ、私どうしたらいいの?あなたを忘れてもいいの?このまま陛下の妻になってもいいの?でも、私にはそんな資格も自信もなにもない。なにもないの……。
扉が開いて閉じる音が何度かした。顔を手で覆ったままだから、どこへ連れて来られたのかわからない。
そしてそのまま、柔らかな何かの上にそっと降ろされた。
私の手を大きな手が包み、そっと外される。泣き濡れた顔を見られたくなくて、目をとじたまま下を向こうとすると、顎に手を掛けられて阻止されてしまった。
『ルノエ………』
口づけられる直前に、低く甘い声で名を呼ばれる。陛下の吐息が唇に当たって、私は震えた。
陛下の大きな手が私の濡れた頬を拭い、やさしく啄むような口づけを繰り返される……。
そして不意に背中の肌に直接触れた、熱くて大きな手の感触に驚いた。陛下が私のドレスの背中のボタンを外して、半分背中が露わになっていた。
驚いて周りを見回すと、そこは見たこともない広い部屋の大きく豪華なベッドの上だった。
『陛下!!』
逃れようとすると、露わになった背中を見せる格好になってしまった。
ヒュイアさんに簡単に着付けてもらったから、コルセットも付けていない。ボタンを外してしまえば、あとは簡単な下着だけ。
『ルノエ、抗うな。大丈夫だから目を閉じていろ。』
『でもっ!』
『大丈夫だから。……動くな。』
耳元で囁かれる低い声。背中を這う熱い手と口づけの柔らかな感触。髪を結い上げられたことで首筋が露わになり、項の髪の生え際にまで口づけられる。そして耳、肩、背中にも…。
触れられるたびに体が震え、背中が反り返る。さらにボタンを外されて腰まで肌が露わになっていく。
『っ、陛下!』
固い指が背骨を辿り、露わになった肩をつるりと撫でられる。体の中にどんどん熱が蓄積されていく。
胸元はドレスを必死に押さえているけれど、心もとない。どうすればいいのかわからなくて逃げようとしても、力強い腕が背後から前に回り込んで私の肩を掴み、動けないようにされてしまった。
『っへい、か……も、やめっ』
首から腰まで何度も辿られ、露わな肌のすべてに口づけされ、思考が感覚のすべてになるころ、ふいに体が浮遊感を感じた。
あっと思ったら、ベッドの上に仰向けに倒されていた。覆いかぶさるロゥアン陛下の表情は、窓から入り込む夕陽が背になっていてわからない。
『ルノエ、俺はお前がほしい。どんな手を使ってでもお前を手に入れたい。だが、それは体だけでも心だけでもだめだ。俺はルノエの心も体も未来もほしい。俺の妻になるのは、不安か?』
『………どうすればいいのか、もうわかりません。』
仰向けのままドレスの胸元を押さえながら、また涙があふれる。また私は手で顔を覆った。どうすればいいのか、本当にわからない。
『……ならば、俺がどのくらいルノエを愛しているか、教えてやろう。』
低い声で囁かれた。
泣いていた私の腕を取られてしまい、陛下に背中以上の肌を晒した。
夕陽色の寝室で薄い下着を解かれ、大きな熱く固い手が私の肌に触れる。
体が大きく震えて反応した場所に何度も口づけされて、執拗に撫で上げられた。
そして胸にも…。恥ずかしくてどうにかして隠そうとする私の腕を難なく解き、口に含まれてしまう。それと同時にまた肌を撫でられる。
夕陽色からあと少しで闇色へと変わるころには、もう体が熱くなり過ぎて、苦しくて辛くて……。
『ああっ……へい、かっ…』
『ルノエ、ここは俺の寝室だ。誰もいない。もうわかるだろう?』
『ロゥっ…も、や………』
体が思うように動かない。
このまま流されてしまうの?迷いがあるままで、陛下に抱かれてしまうの?本当にこれでいいの?
熱く溶けた思考で必死に考えるけれど、答えが出ない。
その時、陛下の手が私の膝に触れた。
『いやっ!』
明らかな拒否の声に、陛下は手を止められた。私自身も自分の言葉に驚く。
薄闇の中で恐々、陛下の様子を窺おうとすると、背中から掬い上げるようにして抱き上げられてそのまま膝の上に座らされた。
『ルノエ、俺が嫌いか?』
『いいえ!………すき、です。』
『俺の傍にいるのは?』
『………嬉しい、です。』
『では、お前の動揺はなんだ?』
『………それは…』
それから私は陛下の腕の中で泣きながら話した。
身分のこと。教養がないこと。所作や礼儀作法も知らないこと。きれいでないこと。自分に自信がないこと。
そんな自分が陛下の隣に立つと陛下が非難され、国民に笑われてしまうのではないか、と思うこと。
陛下はそれをじっと聞いてくださった。
『……フフ。昼間はあれほどやる気だったが、どうやら不安の方が勝ってしまったようだな。』
クスリと笑いながら仰る。
確かに昼間は『仕事』と聞いて、やる気が出てました。浅はかな考えの自分が恥ずかしい。
『ルノエ。今お前が言ったことは、まだ始まってもいない事ばかりだ。』
『……始まってもいない?』
『ああ、取りこし苦労だな。悩むなら問題に直面してから悩め。だいたい俺を信頼していないのか?俺に頼るという選択肢はないのか?それに、俺の人を見る目はかなりのものだと思うが?』
『でも、私……』
すっかり闇色になった寝室のベッドの上で、陛下の長い指が私の乱れた髪を手探りでやさしく解く。
灯りの無い状態だからなのか、素直に心の中を言葉にすることができるような気がする。
『私……。シリロのことも……。』
『ああ、将来を約束した男か。四年前だったな?』
『はい。忘れてしまってもいいのか……私。』
『忘れることができるのか?』
『え?』
『お前のことだ。本気で好きになった男なのだろう?』
『……はい。』
『なら忘れなくてもよい。…行方不明のままなら、お前がたまに思い出すぐらいのことをしてやらなくては、その男も浮かばれないだろう。』
『陛下……。』
『かと言って、無理に思い出すことはないぞ!』
『…はい。』
陛下の寛容なお心に感動していたのに、笑ってしまった。
『ルノエ、昼に俺はお前の心が好きだと言ったな。ほかにもたくさんある。何事にも懸命なお前が好きだ。正直にまっすぐに、前を見つめるお前が好きだ。周りの者を愛するお前が好きだ。そのアイスブルーの瞳で、俺を見上げるお前が好きだ。自分を美しくないなどと言っていたが、なぜそう思う?お前は充分美しいが?いや、愛らしいと言うべきか…。ああどちらにしろ、かわいい。かわいいな、ルノエ。』
陛下のあまりの言葉に、顔が赤くなるのが自分でもわかる。暗くてよかった。俯いた頭に口づけられるのがわかった。
『不安があるならいくらでも言え。なんでも何度でも聞いてやる。だがお前のことだ。散々愚痴を言った後は前を向くのだろう?もう、前を向く気になっているのではないか?』
『……………はい。』
自分の心の中を覗くと、確かにその気になっている。
さっきまであんなに黒い霧で胸がいっぱいだったのに、今はすっかり消えて軽くなっている。さらに心は前へ進もうとまでしている。
『陛下がすごいのか、私が単純なのか……。』
『フフ、どちらもだろうな。だが、お前のそういうところも好きだ。かわいいな、ルノエ。今度は返事をくれるか?俺の妻になるという、返事を?』
『私……ずっと陛下のお傍にいたいです。』
『ああルノエ、もう離すつもりはない。いいな?』
『はい、陛下。』
『ルノエ、愛している……』
『えっ?』
さっきまでやさしく抱きしめられていたのに、急に押し倒されてしまった。
暗くて陛下の表情はわからないけれど、嬉しそうな、甘くとろけるような雰囲気は伝わってくる。
『ルノエ………』
『え?陛下?あの?ままま待ってください!』
『…叫ぶな。』
再び悪さをしようとする大きな手を押さえて焦っていると、反対の手が腰のくびれを撫でる。
『っ!』
『なぜだ?俺の妻になるのだろう?』
『でででも、まだ心の準備が!』
『ああ、大丈夫だ。心配するな。』
『なにが?なにが大丈夫なんですか!?』
『ルノエ……』
『きゃあ!!リドリスさーーーーん!!!』
咄嗟に出た名前にロゥアン陛下も私自身も、固まってしまった。
『……ルノエ。なぜ今その名が出……』
コンコンコン
『ルノエ様、お呼びでしょうか?』
暗い寝室に響き渡るノックの音と、静かなリドリスさんの声。さらに……
『ルノエ様、ヒュイアです。入室をお許しいただけますか?』
『…………ルノエ、覚えていろ。次はないぞ。』
ロゥアン陛下はそう言いながら、私の額に口づけて上掛けで私を包んでくださった。
そしてランプを持ったヒュイアさんを寝室に招き入れ、ご自分は出て行かれる。
その陛下の背中を私は扉が閉まるまでずっと見ていた。
扉が閉まっても、見ていた。
私の心は静かに、でも温かく凪いでいた……。