その1 母の影
「ガルウッドさん……来ていらしたんですか」
屋敷の廊下で鉢合わせした女に、ソフィーは冷ややかに挨拶をした。
「『ガルウッドさん』だなんて。『お義母さま』って呼んで、ソフィー」
アンナ・ガルウッドは、ソフィーにほほ笑んだ。しかし、目は笑っていない。
アンナは、18歳のソフィーよりたった5歳年上の未亡人だ。夫は地方の地主だったらしい。
しかし、夫の死後も散財を続けたアンナに金銭的な余裕はなかった。
それでも、その見栄から、アンナは宝石やドレスを手放すことはなかった。その噂はソフィーも伝え聞いていた。
「結婚するまでは、お義母さまではありませんわ。ガルウッドさん」
「そうね。あなたの言う通りだわ、ソフィー。だって、あなたは賢いんですものね」
「そんなつもりは……」
「いいのよ、ソフィー。でもね……」
アンナは口の端をゆがめた。
「そんなに理屈っぽいこと言ってると、殿方に嫌われるわよ?」
「……そんなこと、関係ないでしょう」
「いいえ、大ありよ。いい? 女の幸せはね。殿方に気に入ってもらえるかどうかなのよ」
アンナは勝ち誇ったように胸を張った。
「お言葉ですけど……そういうのは、ちょっと古いんじゃないでしょうか」
「あら、私の方が年を取ってるって言いたいの? あなたね、そういうところが理屈っぽいのよ」
「いえ、私はただ……」
「ダメよ、そんなんじゃ。お母さまに教えてもらわなかったの?」
アンナが亡き母のことにふれた瞬間、ソフィーは無表情のままこぶしを握り締めた。わずかに肩がふるえた。
自分への嫌味なら聞き流すこともできる。しかし、母のこととなれば別だ。
そんなことを言う女は、結婚しても、いずれ父のことも自分のことも踏みにじるようになる。そんな予感がソフィーの胸をよぎった。
「ふふ……。強情な娘ね。いい? そもそもね……」
「何のご用でいらしたんですか? ガルウッドさん」
ソフィーが、アンナの言葉をさえぎった。アンナは少しムッとしたようだが、すぐに微笑みなおした。
「……ロバートに会いに来たのよ。書斎にいらして?」
ロバートとは、ソフィーの父、ロバート・ビレットである。
「ええ、たぶん……」
ソフィーの返事を最後まで聞かずに、アンナは背を向けた。彼女の耳に着けたイヤリングのパールが、顔の動きとともに揺れた。
アンナはソフィーに目もくれず、そのまま書斎に向かってそそくさと歩き出した。
その後姿を見てソフィーは思った。
いつからだっただろう。アンナが、父をロバートと呼ぶようになったのは。
◇ ◇ ◇
──ロバート・ビレットの書斎には、亡き妻の趣味だった調度品や絵画が並んでいる。どれも彼が1代で築いた財産で揃えたものだ。
ロバートは書き物机に向かっている。そばにはアンナがいたが、視線は書類の上だった。
「それじゃあ、ロバート。今夜の演奏会には行きませんの?」
「うむ、アンナ。ちょっと書類がたまっていてな」
ロバートは書類にペンを走らせながら答えた。
「ルゴッホの演奏会ですよ? 残念ね……。社交シーズンですのに、お忙しくて」
「すまんな、アンナ」
「じゃあ、1人で行ってきますわ……」
ロバートは、じっと自分を見つめるアンナの視線に気づき、ペンを止め、顔を上げた。
「どうしたね? アンナ」
「……いえ、なんでもありませんわ」
アンナが書斎を出て行くと、ロバートのペンの音だけが部屋に響いた。
◇ ◇ ◇
──その夜。使用人もみな部屋に下がっている。ソフィーはおやすみの挨拶のために父の書斎を訪れた。
「お父さま」
ノックのあと、そっとドアを開け、ソフィーが父に顔を見せた。
「ソフィー、まだ起きていたのか。もう休みなさい」
「はい……」
そう言いつつ、ソフィーはドアのそばで佇んでいる。
「どうしたんだ? ソフィー」
「お父さま、私、今まで言い出せなかったんです。……ガルウッドさんのことで……」
ソフィーはうつむいて言葉を止めた。あの女と暮らすことになるくらいなら、いっそ、この家を出てもいい。しかし、父はどうなるのか? あの女はいつか本性を現すはずだ。
やがて、ソフィーは決心したように顔を上げた。
「……アンナ・ガルウッドさんのこと、お義母さまと呼びたくはありません……」
「……そうだったのか。ソフィー、どうして今まで黙っていたんだ?」
「だって、お父さまが選んだ人ですもの。私……言えなくて」
「そうか……」
ロバート・ビレットは深いため息をついた。
「実はね……わしも彼女の噂は聞いている」
「え……?」
「あの女は、わしの財産が目当てなんだよ。それに、いろいろ評判も聞いている」
「そうだったの……」
アンナの評判については知っていたが、ソフィーは初めて聞いたようにうなずいた。
「今ごろ気づくなんて、わしもどうかしてたよ。そのせいでお前をつらい目にあわせていたとはな。すまなかった、ソフィー」
「いいえ……そんな。でも、どうなさるの?」
「まあ、わしにまかせておきなさい。悪いようにはならんから」
「はい……お父さま」
「とにかく、そういうことだ。さ、安心したら、もうお休みなさい」
ソフィーが出て行くと、ロバート・ビレットはまた書き物を始めた。
──時間が過ぎ、娘も、使用人も皆、寝たようだ。屋敷は静まり返っている。
ふと、テラス窓を叩く音が聞こえる。ノックの仕方で、ロバートはそれが誰かすぐに分かった。
だが、訪問は予定にないはずだ。
カギを開け、窓の外の人物を招き入れる。
「こんばんは、ロバート」
顔を見せたのは、アンナ・ガルウッドだった。




