第六十一部 海の姫は、銀貨より先に友人の顔を見る話 ③ リヴィアの到着と、並べた銀貨
昼を少し過ぎた頃、リヴィアを乗せた馬車は、辺境伯府へ到着した。
レオンは、寝台へ横になっていなかった。
ただし、医師から渡された条件は守っている。
客棟から出ない。
坂道へ行かない。
重いものを持たない。
酒を飲まない。
窓際の机へ帳面を広げ、市場へ入った荷車の記録を読むことは、療養の範囲内である。
おそらく。
たぶん。
少なくとも、見回りへ来た女医は、帳面を取り上げなかった。
記録には、昨日市場へ入った魚油、乾燥果実、薬箱、穀物、工具、鉱石、塩樽の数が並んでいる。
レオンは、一つだけ気になる箇所へ印を付けていた。
シーロ便の薬箱。
宿駅を通った数より、市場へ入った数の方が多い。
減っているのではない。
増えている。
別の道から入った可能性がある。
あるいは、宿駅と市場で数え方が違う。
まだ、それだけだ。
だが、確かめる理由にはなる。
戸の外から、複数の足音が聞こえた。
アーデルハイト。
カミラ。
それから、知らない足音。
軽い。
しかし、迷いがない。
戸が開いた。
「レオン」
聞き覚えのある声だった。
レオンは帳面から顔を上げる。
海風に晒された栗色の髪。
青い目。
旅の外套。
手には、銀貨を入れた革袋。
「リヴィア」
しばらく、互いに顔を見る。
リヴィアの視線が、レオンの脇腹へ巻かれた包帯へ落ちる。
次に、机の上の帳面。
そのあとで、カミラ。
最後に、もう一度レオンへ戻った。
「会うたびに、違う場所で怪我をしているわね」
「再会の言葉として、少し厳しい」
「事実でしょう」
「今回は、かなり回復している」
「窓際で帳面を読んでいる怪我人が言っても、説得力はないわ」
「統治を学んでいる」
リヴィアは、少しだけ黙った。
「今度は、何を始めたの」
「俺も、まだ詳しくは分からない」
「分からないまま始めたの?」
「学ぶとは、そういうことだ」
アーデルハイトが口元へ手を添える。
カミラは、静かに息を吐いた。
「昨日、父から課題を出されました」
アーデルハイトが説明する。
「橋、市場、倉庫、道。気づいたことを考え、報告するように、と」
「ああ」
リヴィアは納得したように頷いた。
「コンラート様なら、やりそうね」
「アーデルも、長い間、似たことをさせられてきたらしい」
レオンが言う。
「笑わないで」
アーデルハイトが、リヴィアへ言った。
「笑っていないわ」
「少し楽しそう」
「役に立つでしょう?」
「役に立たないとは言っていない」
「面倒とは、言っていた」
「それも事実です」
レオンは、二人の会話を聞きながら、机の端へ置いた帳面を指で叩いた。
「俺も、一つ見つけた」
アーデルハイトが顔を向ける。
「何でしょう」
「シーロ便の薬箱。宿駅を通った数より、市場へ入った数の方が多い」
アーデルハイトは帳面を覗き込む。
リヴィアも、その横から記録を見る。
「別の道から?」
リヴィアが訊いた。
「可能性はある」
レオンは答える。
「ただし、宿駅では外箱、市場では中の小箱を数えたなら、記録の単位が違うだけだ」
「山腹の迂回路もあります」
アーデルハイトが言った。
「雨量が多い時期は、荷を分けて通します。ただ、薬箱なら、通常は川沿いを使うはずです」
「確かめる価値はある」
カミラが言う。
「数が違うことより、違う理由を追えるかが重要だ」
「確認します」
アーデルハイトは頷いた。
レオンは、少しだけ口元を緩める。
「役に立った?」
「まだ、分かりません」
アーデルハイトは答えた。
「ですが、確認すべき点です」
「父親に似ている」
「似ていません」
返答が早い。
リヴィアは楽しそうに笑った。
「似ているわよ、アーデル」
「リヴィアまで」
アーデルハイトは困った顔をした。
市場で銀貨を分けていた時より、ずっと若く見える。
カミラも、ほんの少しだけ口元を緩めていた。
まだ、出会ったばかりだ。
カミラとリヴィアは、今日初めて言葉を交わした。
アーデルハイトとも、昨日市場で会っただけである。
それでも、同じ銀貨を見て、同じ帳面へ目を落とし、互いの意見を聞く間に、少しずつ距離が縮まり始めている。
悪くない。
レオンは、そう思った。
◇
革袋から出された銀貨が、客棟の机へ並べられた。
リヴィアは、西側の港で集めた情報を、分かっていることと、分からないことへ分けて話した。
「レヴォナ自由都市同盟、ヴェルシャイン王国、ブリエンの間で、銀貨の受け取り方が変わり始めています」
「国同士で、偽貨だと言い合っている?」
レオンが訊く。
「表向きは、まだそこまでではありません」
リヴィアは答えた。
「商人、船主、港湾役人が、先に警戒しています。古い銀貨を選び、新しい鋳造分を避ける。重量を量る。少しでも軽い袋は値引きを求める。別の港へ回す。そういう動きが増えています」
「意図的に流している者がいる可能性は」
「あります」
カミラが言った。
「だが、まだ断定はできない。偽貨なら、見破られれば終わる。問題は、本物として受け取られる程度に作られていることだ」
レオンは銀貨を一枚持ち上げた。
掌の上では、違いなど分からない。
市場でパンを買う。
酒場で一杯頼む。
宿へ泊まる。
傭兵へ給金を払う。
そのたびに、誰もが一枚ずつ秤へ載せるわけではない。
「質の悪い本物」
レオンが言う。
「そうかもしれない」
リヴィアは頷いた。
「だから、面倒なの。偽物なら、悪いものを弾けばいい。でも、本物と区別が付きにくいなら、銀貨そのものを信用できなくなる」
アーデルハイトは、領内の帳簿を机へ広げた。
「穀物、塩、薬、工具。どこから値段が動いたかを見ます。港と市場だけでは足りません。鉱山町の賃金、山側の配給所、宿駅の飼葉も確認します」
「馬の餌まで?」
レオンが訊く。
「商隊が迂回すれば、宿駅で使う飼葉が増えます。荷が遅れれば、別の道へ負担が掛かる。貨幣の異常が、道の混雑として先に出る場合もあります」
「銀貨一枚から、橋まで戻るのか」
「橋だけではありません」
アーデルハイトは答えた。
「国は、つながっています」
橋。
待機所。
秤。
港。
市場。
倉庫。
鉱山。
配給。
銀貨。
目の前へ置かれた小さな金属片が、遠い土地の道まで揺らし始めている。
「それから」
リヴィアが言った。
声が、少しだけ変わる。
「確かではない噂もあります」
「何だ」
レオンが顔を上げた。
「レヴォナ方面で、銀貨と鉱石の流れを調べている一行がいるそうです」
リヴィアは、記憶を確かめるように言葉を選ぶ。
「大柄な剣士。灰十字医療団に見える女が二人。土地の人間へ、銀貨、荷車、鉱山、商人の名前を聞いて回っている」
レオンの目が細くなるより、ほんの半拍だけ早く、カミラが呟いた。
「リューリックか」
レオンは、カミラを見る。
カミラは銀貨へ目を落としたまま続けた。
「あの男なら、やりかねない」
リヴィアが、二人の顔を交互に見る。
「知っているの?」
「ガリレオで顔を合わせた」
カミラが答える。
「礼儀正しい顔をしているが、レオンの無茶を止める側の男だ」
「かなり正確だ」
レオンは銀貨を布へ戻した。
「拾わなくてもよい面倒まで拾って、最後まで捨てない。俺より、ずっと真面目だ」
「そこは否定しない」
カミラの返答は早かった。
リヴィアは、少しだけ目を細める。
「本人には、会ったことがありません。ただ、あなたたちが揃ってそう言うなら、可能性は高そうね」
「断定はできない」
カミラが言った。
「噂は、噂だ。名前も、目的地も、まだ確かめる必要がある」
「ええ」
リヴィアは頷いた。
「だから、記録には名前を書かない。大柄な剣士と、灰十字らしい二人。それ以上は、確認できてからにします」
レオンは、軽い銀貨へ目を向けた。
ニーナの村。
荷車。
軽い銀。
南方。
レヴォナ。
王国。
ブリエン。
海路。
アルムロイト。
離れた場所へ、同じ波が届いている。
すぐに追い掛けたいと思わないわけではない。
だが、傷は塞がっていない。
帝国の賞金首としての立場も変わらない。
アルムロイトを勝手に出れば、ヴァルターとコンラートが作った細い道を、自分で壊すことになる。
焦って走るだけでは、届かない。
それも、いま学ぶべきことなのだろう。
「今は、記録を集める」
レオンは言った。
カミラが、少しだけ目を細める。
「飛び出すと言うかと思った」
「俺だって、少しは考える」
「少し?」
「かなり」
「そこまで増やすと、急に信用が落ちる」
カミラの声には、かすかな笑いが混じった。
──第六十一部 了




