第六十一部 海の姫は、銀貨より先に友人の顔を見る話 ④ 銀貨より先に友人の顔と、執務棟へ
夕方になると、リヴィアとアーデルハイトは、港湾記録を持って執務棟へ向かった。
カミラも同行しようとしたが、昼過ぎから歩いていたことを理由に、医師から客棟へ戻された。
不満そうではある。
だが、逆らいはしなかった。
少しは休むことも覚え始めている。
レオンは、廊下の長椅子へ腰を下ろし、戻ってきたカミラを見た。
「教師の言うことを聞いたな」
「あんたよりは」
「比較対象として、俺を使いすぎではないか」
「便利だからだ」
カミラが客室へ入ろうとした時、後ろから、リヴィアとアーデルハイトが戻ってきた。
リヴィアの手には、小さな木箱がある。
「忘れもの?」
アーデルハイトが訊く。
「忘れていないわ。あなたへの土産」
箱の中には、シーロの乾燥果実と、蜜漬けの柑橘が入っていた。
「港で渡すつもりだったけれど、銀貨の話で後回しになってしまった」
「ありがとう」
アーデルハイトの声が、少しだけ明るくなる。
リヴィアは、次にカミラへ顔を向けた。
「カミラさんも、一緒にどうですか」
「私も?」
「帳簿は、明日もあります」
「だが」
「今日は、医師から止められたでしょう」
カミラは、少しだけ黙る。
仕事を理由に逃げる道が、塞がれたらしい。
「お茶だけです」
アーデルハイトが言った。
「長くは引き止めません」
カミラは、二人の顔を順番に見た。
断る理由を探している。
だが、見つからない。
「……少しだけなら」
答えた。
リヴィアが笑う。
「決まりね」
三人は、アーデルハイトが使っている小さな控室へ向かった。
レオンは、廊下の長椅子へ座ったまま、その背中を見送る。
蜜漬けの柑橘。
乾燥果実。
シーロ共和国との友好交易。
文化理解。
参加する理由は、十分にある。
レオンが立ち上がりかけた時、背後から女医の声がした。
「どちらへ」
「文化交流」
「座って」
「海洋国との関係を学ぶ必要がある」
「座って」
レオンは、静かに腰を下ろした。
扉の向こうから、リヴィアの声が聞こえる。
「アーデル、あなたも今日は休みなさい。市場から港まで歩いていたでしょう」
「リヴィアこそ、船を降りたばかりです」
「私は、慣れている」
「カミラさんと同じことを言っている」
「それは困ったわね」
「私まで、同じにするな」
カミラの声がした。
そのあとで、三人が笑う。
大きな笑いではない。
だが、険しくもない。
レオンは、扉を見た。
入りたい。
かなり。
柑橘も食べたい。
非常に。
だが、扉を叩くべきではない。
カミラが、戦場でも、監察でも、逃亡でもない時間を過ごしている。
自分が入れば、少しだけ違うものになる。
レオンは背もたれへ身体を預けた。
「成長しましたね」
女医が言った。
「何が」
「立ち上がりませんでした」
「俺も、状況を読む」
「褒めておきます」
「柑橘を一つ、もらえる程度には?」
「駄目です」
「評価が厳しい」
女医は何も答えず、廊下の先へ歩いていった。
扉の向こうでは、三人の会話が続いている。
まだ、出会ったばかりだ。
それでも、この土地でしか生まれない時間が、少しずつ始まっている。
急ぐ必要はない。
少なくとも、今夜は。
──第六十一部 了




