表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

314/349

第六十一部 海の姫は、銀貨より先に友人の顔を見る話 ① 働く音の朝と、賑やかな港

アルムロイト辺境伯府の朝は、領主の館らしい静けさよりも、宿駅に似た働く音から始まった。


 客棟の窓を開ければ、谷の底を流れる川の響きへ、荷車の軋み、馬の蹄、倉庫の扉を開ける重い音が幾重にも重なる。山の影がまだ河川港の一部へ残っているうちから、執務棟の前には役人が出入りし、前日の水位、橋の通行制限、鉱石を積んだ荷車の到着数、港から上がってくる薬箱の内訳を、それぞれの担当者へ伝えていた。


 領主が眠っている間にも、国は動き続ける。


 むしろ、誰か一人が眠れば止まる国では、長く生き残れない。


 昨夜、コンラート・フォン・アルムロイトから聞いた言葉を思い返しながら、レオンは窓辺へ立っていた。


 泥は知っている。


 だが、泥の上へ道を引く方法は、まだ知らない。


 耳へ痛い言葉ではあった。


 しかし、腹立たしいとは思わなかった。


 十八歳の頃には、兵を前へ出す方法を考えた。どこへ置き、どこから回り、どこで矢を射らせ、いつ剣を抜かせるか。傭兵になったあとは、道のぬかるみ、荷車の軋み、馬の疲労、食糧袋の減り方を、嫌でも見るようになった。


 それでも、橋を閉じたあとに、商人と馬が待てる場所を用意する発想は持っていなかった。


 秤を置くだけでは足りず、誰からも見える場所へ置く意味も知らなかった。


 戦場へ入るより前に、国はすでに守られている。


 考えれば考えるほど、自分が知らないものの輪郭が広がっていく。


「窓辺へ立つ許可は出していません」


 背後から、低い女の声がした。


 振り返ると、昨日から二人を診ている年配の女医が、薬瓶と新しい包帯を載せた木箱を持って立っていた。


「歩いてはいない」


「立っているでしょう」


「立てることを確認していた」


「誰の指示で?」


「自発的な健康管理」


「勝手に試験を始めないでください」


 女医は椅子を指差した。


 逆らっても、結果は変わらない。


 レオンは素直に腰を下ろし、外衣の前を緩めた。


 脇腹へ巻かれた布が外され、傷口へ冷たい薬が触れる。白鷹門を離れた直後より、痛みはかなり軽い。ただし、深く息を吸えば、身体の内側へ鈍い熱が残っている。


「今日は、客棟と執務棟の間だけ。坂道は禁止。河川港も市場も、まだ駄目です」


「港へ行く必要がある」


「ありません」


「シーロ共和国の船が着く。海路から届く情報は、統治を学ぶうえで重要だ」


「昨日の夕食で、ずいぶん便利な言葉を覚えましたね」


 女医は迷いなく包帯を巻き直していく。


「学びは、実地で深まる」


「傷も、実地で開きます」


 戸が叩かれた。


 入ってきたのは、カミラとアーデルハイトだった。


 カミラの右手には、新しい包帯が巻かれている。深い灰色の上着と黒の長衣も昨日と同じだが、旅装へ戻る必要がないためか、髪は丁寧にまとめ直され、顔色も少しだけ良くなっていた。


 アーデルハイトは、濃い栗色の髪を首の後ろで束ね、深緑色の外套を羽織っている。市場へ出ていた時より軽い服装だが、腰には帳面と小さな革袋を下げていた。


「診察中だったか」


 カミラが言った。


「交渉中だ」


 レオンは答える。


「結論は見えている」


「始める前から諦めれば、得られるものも得られない」


「港へ行きたいのですか」


 アーデルハイトが訊いた。


「話が早い」


「許可は?」


「これから出る予定だ」


「出ません」


 女医の返答には、考える間すらなかった。


 アーデルハイトは、気の毒そうな顔をするでもなく、事実を受け入れるように頷いた。


「では、港の記録は、戻ってからお見せします。リヴィアも、積荷の確認が終われば辺境伯府へ来ます」


「本人には会える?」


「客棟へ来るよう伝えておきます」


「それならいい」


 カミラは、少しだけ目を細めた。


「あんたは、療養していろ」


「俺だけが置いていかれるのは、不公平だと思う」


「あんたは昨日、寝台へ横になってすぐ眠っただろう」


「身体が、休息を効率良く使っただけだ」


「物は言いようだな」


 カミラの口元が、ほんの少しだけ緩む。


 追われ続けていた旅の最中には、見られなかった表情だった。


 誰かに仕事を頼まれ、自分の知識を必要とされ、新しい土地へ自分の足で向かう。


 そのことが、カミラへわずかな余裕を戻している。


「無理はするな」


 レオンが言うと、カミラは眉を寄せた。


「あんたに言われたくない」


「俺は、無理をしていない」


「今、港へ行こうとしていた」


「学びのためだ」


「やはり、便利な言葉だな」


 アーデルハイトは、二人の会話を静かに聞いたあと、レオンへ一冊の帳面を差し出した。


「昨日、市場へ入った荷車の記録です。退屈でしたら、見ていただけますか」


「課題?」


「療養中の客人へ、無理をさせるつもりはありません」


「辺境伯家らしい言い方だ」


「父よりは、答えを言います」


 アーデルハイトは穏やかに笑った。


「気になる箇所があれば、紙へ書き出してください。歩ける範囲が増えたら、実際の道と照らし合わせます」


 レオンは帳面を受け取った。


 麦袋。


 塩樽。


 魚油。


 薬草。


 工具。


 鉱石。


 シーロ便の荷箱。


 軽い銀貨が混じった取引。


 道へ出られなくても、道を通るものは見られる。


「余計なことを思いつく時間が減るな」


 カミラが言った。


「同行者としての評価が厳しい」


「経験に基づいている」


 カミラは、アーデルハイトと共に客室を出ていく。


 戸が閉じる直前、女医が廊下へ顔を出した。


「カミラさんも、歩きすぎないように」


「分かっている」


「本当に?」


「……倉庫と記録室だけにする」


 返答の前に、ほんの少しだけ間があった。


 アーデルハイトが、安心したように頷く。


 アルムロイトでは、怪我人の自己申告だけでは、信用が足りないらしい。



 ◇



 アルムロイト沿岸部の港は、山の国にあるとは思えないほど賑やかだった。


 ただし、広々とした砂浜へ桟橋が並ぶ港ではない。


 海へ突き出た二本の岩岬が天然の防波堤となり、その内側へ木製の桟橋、石造倉庫、荷役場、船具の修繕小屋が密集している。山から流れ込む川は港の奥で海へ注ぎ、河川船と外洋船が、同じ湾内で行き交っていた。


 潮。


 濡れた木。


 魚油。


 塩。


 縄。


 焼いた魚。


 薬草を詰めた箱。


 山側から下りてきた鉱石箱と、海から上がる穀物袋が、狭い荷役場で交差している。


 カミラは、桟橋へ向かう途中で一度足を止めた。


 海を見ること自体が珍しいわけではない。


 だが、オストマルクの港とも、逃亡の途中で使った小さな船着き場とも違う。


 ここでは、山と海が同じ帳面の中へ押し込まれている。


 背後には斜面が迫り、自由に使える土地は少ない。倉庫を横へ広げられないため、一階を石造りにし、その上へ木造の二階を載せている。荷役場も、魚、鉱石、穀物、薬を同時に扱わず、時間帯と区画を分けて使っているらしい。


「混ぜないためか」


 カミラが言った。


 隣を歩くアーデルハイトが頷く。


「魚油と薬は、同じ床へ長く置きません。鉱石と穀物も分けます。土地を増やせないなら、時間と順番を使うしかありませんから」


「記録も分ける?」


「港湾役人、荷役人、船主。それぞれが目録を残します」


「三つも?」


「書き間違いはあります。忙しければ、数え方も変わる。ただ、どこか一つだけ数字が違えば、確かめる理由になります」


「誰か一人の正しさへ、頼りすぎない」


「父の考えです」


「悪くない」


 カミラは、桟橋へ積まれた木箱へ視線を移した。


 青い貝殻の印。


 シーロ共和国のサレーネ船団から運ばれた荷だ。


 魚油。


 乾燥果実。


 薬。


 船具。


 織物。


 西方の港から回されたらしい箱には、見慣れない香辛料の名も書かれている。


 海路は、荷物だけを運ばない。


 価格。


 病。


 噂。


 戦争。


 貨幣。


 遠い土地の異変まで、船は運ぶ。


 桟橋の先で声が上がった。


 一隻の外洋船が、ゆっくりと接岸している。


 帆はすでに畳まれ、濡れた縄が投げられる。港側の荷役人が受け取り、太い杭へ巻き付けた。船腹には、青い波と白い海鳥を組み合わせた印が描かれている。


 甲板から、一人の女が降りてくる。


 海風へ慣れた足取りだった。


 外套の裾が少し濡れていても気にせず、桟橋へ降りる前に、船員へ短く指示を出していく。


「薬箱は先に。湿気へ弱い紙は、外装を確かめてから記録室へ。銀貨の袋は、私が持ちます。港の役人へ渡すのは、そのあとで」


 船員たちが迷いなく動く。


 女は、最後に革袋を自分で持ち上げ、桟橋へ降りた。


 海風で乱れた栗色の髪。


 日差しを受けた肌。


 よく動く青い目。


 華美な衣服ではない。


 だが、船員たちは自然に道を空ける。


 命令へ慣れている。


 そして、信頼している。


「リヴィア」


 アーデルハイトが呼んだ。


 声が、少しだけ柔らかくなる。


 女が振り返る。


 一瞬だけ、交易を担う者の顔が消えた。


「アーデル」


 リヴィアは笑い、歩調を速めた。


 アーデルハイトも普段より少しだけ急いで前へ出る。


 二人は互いの手を取り、ほんの短い時間だけ、再会を確かめるように握った。


 格式ばった挨拶ではない。


 リヴィアは、そのままアーデルハイトの顔を覗き込んだ。


「また、顔が疲れてる」


「到着して、最初に言うことがそれ?」


「姉としての忠告」


「姉になった覚えはない」


「では、シーロ共和国からの正式な交易上の助言」


「内容が変わっていない」


 アーデルハイトは困ったように言ったが、その声には笑いが混じっている。


 市場で銀貨を分けていた時とも、辺境伯府の食卓へいた時とも違う。


 後継者候補ではなく、一人の友人としての顔だった。


 カミラは、少し離れた場所から二人を見る。


 羨ましいと思ったわけではない。


 そうした感情へ、すぐ名前を付けられるほど慣れていない。


 ただ、会えたことを自然に喜び、相手の疲れた顔を見て、最初に心配できる関係は、少しだけ眩しく見えた。


 アーデルハイトが、カミラへ顔を向ける。


「紹介します。カミラ・パヴェルさんです」


 一度、言葉を切る。


「イタリカで監察官を務めていました。ただ、現在の権限は停止状態に近く、父の許可で、こちらへ一時的に滞在しています」


 リヴィアの足が、ほんのわずかに止まった。


 笑顔が消えたわけではない。


 ただし、交易記録を扱い、複数の国の港を渡ってきた者の目へ変わる。


「イタリカの監察官?」


「元、を付けるべきかもしれない」


 カミラは答えた。


「私自身も、イタリカが次にどう扱うつもりなのかは分からない」


 リヴィアは、カミラの右手へ巻かれた包帯と、隣へ立つアーデルハイトを順番に見る。


「アルムロイトへは、辺境伯閣下の許可で?」


「ええ」


 アーデルハイトが答える。


「グランデル帝国のヴァルター軍監から、父へ私信が届いています。詳しい事情は、館へ戻ってから話します」


「分かった」


 リヴィアは頷いた。


 それ以上は、港で聞かなかった。


 船員も、荷役人も、商人もいる。


 誰の耳へ入るか分からない場所で、他国の監察官が追われている事情を掘り下げるほど、不用心ではない。


「リヴィア・サレーネです。サレーネ船団で、港と船の間を走り回っています」


「海の姫、と聞いた」


 カミラが言うと、リヴィアは少しだけ顔をしかめた。


「その呼び方は、忘れてください」


「定着しているようだ」


「誰かが、面白がって広めました」


「誰だろうね」


 アーデルハイトが言う。


「アーデル」


「私は、事実を止めなかっただけ」


「それを広めたと言うの」


 二人の会話へ、カミラの口元がわずかに緩む。


 リヴィアは、その変化を見逃さなかった。


「笑いましたね」


「少しだけだ」


「では、話はできそうです」


「判断が早い」


「海では、迷っている時間が事故につながります」


 リヴィアは、カミラの包帯へもう一度視線を向ける。


「傷は、大丈夫ですか」


「歩ける」


「大丈夫かどうかを訊きました」


 カミラが、わずかに黙る。


 アーデルハイトが小さく息を吐いた。


「今朝、医師にも似たことを言われていました」


「では、港の倉庫と記録室だけにしましょう」


「最初から、そのつもりだ」


「本当に?」


「……歩きすぎない」


 返答の前に、ほんの少しだけ間がある。


 リヴィアは、アーデルハイトへ顔を向けた。


「アーデル。この方、放っておくと休まない人?」


「昨日お会いしたばかりですが、おそらく」


「二人で見ておきましょう」


「勝手に決めるな」


 カミラの声は低かったが、追い払うほど強くはなかった。



 ──第六十一部 了


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ