第六十一部 海の姫は、銀貨より先に友人の顔を見る話 ① 働く音の朝と、賑やかな港
アルムロイト辺境伯府の朝は、領主の館らしい静けさよりも、宿駅に似た働く音から始まった。
客棟の窓を開ければ、谷の底を流れる川の響きへ、荷車の軋み、馬の蹄、倉庫の扉を開ける重い音が幾重にも重なる。山の影がまだ河川港の一部へ残っているうちから、執務棟の前には役人が出入りし、前日の水位、橋の通行制限、鉱石を積んだ荷車の到着数、港から上がってくる薬箱の内訳を、それぞれの担当者へ伝えていた。
領主が眠っている間にも、国は動き続ける。
むしろ、誰か一人が眠れば止まる国では、長く生き残れない。
昨夜、コンラート・フォン・アルムロイトから聞いた言葉を思い返しながら、レオンは窓辺へ立っていた。
泥は知っている。
だが、泥の上へ道を引く方法は、まだ知らない。
耳へ痛い言葉ではあった。
しかし、腹立たしいとは思わなかった。
十八歳の頃には、兵を前へ出す方法を考えた。どこへ置き、どこから回り、どこで矢を射らせ、いつ剣を抜かせるか。傭兵になったあとは、道のぬかるみ、荷車の軋み、馬の疲労、食糧袋の減り方を、嫌でも見るようになった。
それでも、橋を閉じたあとに、商人と馬が待てる場所を用意する発想は持っていなかった。
秤を置くだけでは足りず、誰からも見える場所へ置く意味も知らなかった。
戦場へ入るより前に、国はすでに守られている。
考えれば考えるほど、自分が知らないものの輪郭が広がっていく。
「窓辺へ立つ許可は出していません」
背後から、低い女の声がした。
振り返ると、昨日から二人を診ている年配の女医が、薬瓶と新しい包帯を載せた木箱を持って立っていた。
「歩いてはいない」
「立っているでしょう」
「立てることを確認していた」
「誰の指示で?」
「自発的な健康管理」
「勝手に試験を始めないでください」
女医は椅子を指差した。
逆らっても、結果は変わらない。
レオンは素直に腰を下ろし、外衣の前を緩めた。
脇腹へ巻かれた布が外され、傷口へ冷たい薬が触れる。白鷹門を離れた直後より、痛みはかなり軽い。ただし、深く息を吸えば、身体の内側へ鈍い熱が残っている。
「今日は、客棟と執務棟の間だけ。坂道は禁止。河川港も市場も、まだ駄目です」
「港へ行く必要がある」
「ありません」
「シーロ共和国の船が着く。海路から届く情報は、統治を学ぶうえで重要だ」
「昨日の夕食で、ずいぶん便利な言葉を覚えましたね」
女医は迷いなく包帯を巻き直していく。
「学びは、実地で深まる」
「傷も、実地で開きます」
戸が叩かれた。
入ってきたのは、カミラとアーデルハイトだった。
カミラの右手には、新しい包帯が巻かれている。深い灰色の上着と黒の長衣も昨日と同じだが、旅装へ戻る必要がないためか、髪は丁寧にまとめ直され、顔色も少しだけ良くなっていた。
アーデルハイトは、濃い栗色の髪を首の後ろで束ね、深緑色の外套を羽織っている。市場へ出ていた時より軽い服装だが、腰には帳面と小さな革袋を下げていた。
「診察中だったか」
カミラが言った。
「交渉中だ」
レオンは答える。
「結論は見えている」
「始める前から諦めれば、得られるものも得られない」
「港へ行きたいのですか」
アーデルハイトが訊いた。
「話が早い」
「許可は?」
「これから出る予定だ」
「出ません」
女医の返答には、考える間すらなかった。
アーデルハイトは、気の毒そうな顔をするでもなく、事実を受け入れるように頷いた。
「では、港の記録は、戻ってからお見せします。リヴィアも、積荷の確認が終われば辺境伯府へ来ます」
「本人には会える?」
「客棟へ来るよう伝えておきます」
「それならいい」
カミラは、少しだけ目を細めた。
「あんたは、療養していろ」
「俺だけが置いていかれるのは、不公平だと思う」
「あんたは昨日、寝台へ横になってすぐ眠っただろう」
「身体が、休息を効率良く使っただけだ」
「物は言いようだな」
カミラの口元が、ほんの少しだけ緩む。
追われ続けていた旅の最中には、見られなかった表情だった。
誰かに仕事を頼まれ、自分の知識を必要とされ、新しい土地へ自分の足で向かう。
そのことが、カミラへわずかな余裕を戻している。
「無理はするな」
レオンが言うと、カミラは眉を寄せた。
「あんたに言われたくない」
「俺は、無理をしていない」
「今、港へ行こうとしていた」
「学びのためだ」
「やはり、便利な言葉だな」
アーデルハイトは、二人の会話を静かに聞いたあと、レオンへ一冊の帳面を差し出した。
「昨日、市場へ入った荷車の記録です。退屈でしたら、見ていただけますか」
「課題?」
「療養中の客人へ、無理をさせるつもりはありません」
「辺境伯家らしい言い方だ」
「父よりは、答えを言います」
アーデルハイトは穏やかに笑った。
「気になる箇所があれば、紙へ書き出してください。歩ける範囲が増えたら、実際の道と照らし合わせます」
レオンは帳面を受け取った。
麦袋。
塩樽。
魚油。
薬草。
工具。
鉱石。
シーロ便の荷箱。
軽い銀貨が混じった取引。
道へ出られなくても、道を通るものは見られる。
「余計なことを思いつく時間が減るな」
カミラが言った。
「同行者としての評価が厳しい」
「経験に基づいている」
カミラは、アーデルハイトと共に客室を出ていく。
戸が閉じる直前、女医が廊下へ顔を出した。
「カミラさんも、歩きすぎないように」
「分かっている」
「本当に?」
「……倉庫と記録室だけにする」
返答の前に、ほんの少しだけ間があった。
アーデルハイトが、安心したように頷く。
アルムロイトでは、怪我人の自己申告だけでは、信用が足りないらしい。
◇
アルムロイト沿岸部の港は、山の国にあるとは思えないほど賑やかだった。
ただし、広々とした砂浜へ桟橋が並ぶ港ではない。
海へ突き出た二本の岩岬が天然の防波堤となり、その内側へ木製の桟橋、石造倉庫、荷役場、船具の修繕小屋が密集している。山から流れ込む川は港の奥で海へ注ぎ、河川船と外洋船が、同じ湾内で行き交っていた。
潮。
濡れた木。
魚油。
塩。
縄。
焼いた魚。
薬草を詰めた箱。
山側から下りてきた鉱石箱と、海から上がる穀物袋が、狭い荷役場で交差している。
カミラは、桟橋へ向かう途中で一度足を止めた。
海を見ること自体が珍しいわけではない。
だが、オストマルクの港とも、逃亡の途中で使った小さな船着き場とも違う。
ここでは、山と海が同じ帳面の中へ押し込まれている。
背後には斜面が迫り、自由に使える土地は少ない。倉庫を横へ広げられないため、一階を石造りにし、その上へ木造の二階を載せている。荷役場も、魚、鉱石、穀物、薬を同時に扱わず、時間帯と区画を分けて使っているらしい。
「混ぜないためか」
カミラが言った。
隣を歩くアーデルハイトが頷く。
「魚油と薬は、同じ床へ長く置きません。鉱石と穀物も分けます。土地を増やせないなら、時間と順番を使うしかありませんから」
「記録も分ける?」
「港湾役人、荷役人、船主。それぞれが目録を残します」
「三つも?」
「書き間違いはあります。忙しければ、数え方も変わる。ただ、どこか一つだけ数字が違えば、確かめる理由になります」
「誰か一人の正しさへ、頼りすぎない」
「父の考えです」
「悪くない」
カミラは、桟橋へ積まれた木箱へ視線を移した。
青い貝殻の印。
シーロ共和国のサレーネ船団から運ばれた荷だ。
魚油。
乾燥果実。
薬。
船具。
織物。
西方の港から回されたらしい箱には、見慣れない香辛料の名も書かれている。
海路は、荷物だけを運ばない。
価格。
病。
噂。
戦争。
貨幣。
遠い土地の異変まで、船は運ぶ。
桟橋の先で声が上がった。
一隻の外洋船が、ゆっくりと接岸している。
帆はすでに畳まれ、濡れた縄が投げられる。港側の荷役人が受け取り、太い杭へ巻き付けた。船腹には、青い波と白い海鳥を組み合わせた印が描かれている。
甲板から、一人の女が降りてくる。
海風へ慣れた足取りだった。
外套の裾が少し濡れていても気にせず、桟橋へ降りる前に、船員へ短く指示を出していく。
「薬箱は先に。湿気へ弱い紙は、外装を確かめてから記録室へ。銀貨の袋は、私が持ちます。港の役人へ渡すのは、そのあとで」
船員たちが迷いなく動く。
女は、最後に革袋を自分で持ち上げ、桟橋へ降りた。
海風で乱れた栗色の髪。
日差しを受けた肌。
よく動く青い目。
華美な衣服ではない。
だが、船員たちは自然に道を空ける。
命令へ慣れている。
そして、信頼している。
「リヴィア」
アーデルハイトが呼んだ。
声が、少しだけ柔らかくなる。
女が振り返る。
一瞬だけ、交易を担う者の顔が消えた。
「アーデル」
リヴィアは笑い、歩調を速めた。
アーデルハイトも普段より少しだけ急いで前へ出る。
二人は互いの手を取り、ほんの短い時間だけ、再会を確かめるように握った。
格式ばった挨拶ではない。
リヴィアは、そのままアーデルハイトの顔を覗き込んだ。
「また、顔が疲れてる」
「到着して、最初に言うことがそれ?」
「姉としての忠告」
「姉になった覚えはない」
「では、シーロ共和国からの正式な交易上の助言」
「内容が変わっていない」
アーデルハイトは困ったように言ったが、その声には笑いが混じっている。
市場で銀貨を分けていた時とも、辺境伯府の食卓へいた時とも違う。
後継者候補ではなく、一人の友人としての顔だった。
カミラは、少し離れた場所から二人を見る。
羨ましいと思ったわけではない。
そうした感情へ、すぐ名前を付けられるほど慣れていない。
ただ、会えたことを自然に喜び、相手の疲れた顔を見て、最初に心配できる関係は、少しだけ眩しく見えた。
アーデルハイトが、カミラへ顔を向ける。
「紹介します。カミラ・パヴェルさんです」
一度、言葉を切る。
「イタリカで監察官を務めていました。ただ、現在の権限は停止状態に近く、父の許可で、こちらへ一時的に滞在しています」
リヴィアの足が、ほんのわずかに止まった。
笑顔が消えたわけではない。
ただし、交易記録を扱い、複数の国の港を渡ってきた者の目へ変わる。
「イタリカの監察官?」
「元、を付けるべきかもしれない」
カミラは答えた。
「私自身も、イタリカが次にどう扱うつもりなのかは分からない」
リヴィアは、カミラの右手へ巻かれた包帯と、隣へ立つアーデルハイトを順番に見る。
「アルムロイトへは、辺境伯閣下の許可で?」
「ええ」
アーデルハイトが答える。
「グランデル帝国のヴァルター軍監から、父へ私信が届いています。詳しい事情は、館へ戻ってから話します」
「分かった」
リヴィアは頷いた。
それ以上は、港で聞かなかった。
船員も、荷役人も、商人もいる。
誰の耳へ入るか分からない場所で、他国の監察官が追われている事情を掘り下げるほど、不用心ではない。
「リヴィア・サレーネです。サレーネ船団で、港と船の間を走り回っています」
「海の姫、と聞いた」
カミラが言うと、リヴィアは少しだけ顔をしかめた。
「その呼び方は、忘れてください」
「定着しているようだ」
「誰かが、面白がって広めました」
「誰だろうね」
アーデルハイトが言う。
「アーデル」
「私は、事実を止めなかっただけ」
「それを広めたと言うの」
二人の会話へ、カミラの口元がわずかに緩む。
リヴィアは、その変化を見逃さなかった。
「笑いましたね」
「少しだけだ」
「では、話はできそうです」
「判断が早い」
「海では、迷っている時間が事故につながります」
リヴィアは、カミラの包帯へもう一度視線を向ける。
「傷は、大丈夫ですか」
「歩ける」
「大丈夫かどうかを訊きました」
カミラが、わずかに黙る。
アーデルハイトが小さく息を吐いた。
「今朝、医師にも似たことを言われていました」
「では、港の倉庫と記録室だけにしましょう」
「最初から、そのつもりだ」
「本当に?」
「……歩きすぎない」
返答の前に、ほんの少しだけ間がある。
リヴィアは、アーデルハイトへ顔を向けた。
「アーデル。この方、放っておくと休まない人?」
「昨日お会いしたばかりですが、おそらく」
「二人で見ておきましょう」
「勝手に決めるな」
カミラの声は低かったが、追い払うほど強くはなかった。
──第六十一部 了




