第40話 研究棟の剣士【後編】
夜、研究棟は静まり返っていた。
シャロウは壁際の剣を取り、外套を羽織った。
朝、紫音に言ったことを変えるつもりはなかった。
自分がいなくなれば、少なくとも王宮に一つ、理由を与えずに済む。
扉を開ける前に、部屋を振り返る。
寝台と、椅子と、壁。
それだけの場所なのに、出ていくには少しだけ重かった。
部屋を出て、物音を立てないよう廊下を進む。
食堂の前を通ると、厨房にまだ灯りが残っていた。
リネットが布巾を畳み、明日の朝の支度をしている。
シャロウはそのまま玄関へ向かった。
外套の内側へ手を入れる。
指先に触れたのは、研究棟の鍵だった。
いつの間にか、持っていることに慣れていた。
少し迷ってから、玄関脇の小皿へ鍵を置く。
かすかな音が、思ったよりもよく響いた。
「……シャロウ様」
振り返ると、リネットが廊下に出てきていた。
その視線が、小皿の鍵へ落ちる。
「鍵を、お返しになるのですね」
シャロウは答えなかった。
「有紗様には、何とお伝えすればよろしいでしょうか」
「……適当に」
「私には、そのような大切なことを適当にお伝えすることはできません。お別れになるのでしたら、ご自身でお伝えくださいませ」
ポケットの中で、小さな硝子玉を握る。
鍵は置けても、それは置いていけなかった。
「……分かった」
シャロウは踵を返した。
◇
有紗の部屋へ向かう途中、廊下の窓から中庭が見えた。
薄い月明かりの下、石段に有紗が座っている。
シャロウは足を止め、そのまま中庭へ向かった。
有紗はぼんやりと星を眺めていた。
人の気配に振り返る。
有紗の視線が、シャロウの外套と剣をなぞる。
「シャロウ……行くの?」
「……あぁ」
口にしてから、自分でも驚くほど素直な返事だったと思った。
「そっかぁ」
有紗はひと言だけ返し、再び夜空を見上げた。
沈黙が続いた。
別れの言葉くらい、きちんと伝えなくてはならない。
そう思うほど、何ひとつ浮かばなかった。
「……有紗。今まで、世話になった」
有紗はしばらく黙っていた。
やがて、小さく笑う。
「なんだよ」
「思ってたより堅くて、シャロウじゃないみたいだった」
有紗は笑ったまま、夜空を見ていた。
「……じゃあ、どう言えばいいんだよ」
有紗は首を傾げ、少し考え込んだ。
「行く、戻る、帰る……かな。三文字以内だと思う」
「……」
「それか」
「……なんだよ」
「またな……かな」
そこでようやく、有紗はシャロウへ視線を戻した。
「『世話になった』は、不合格だと思う」
「不合格……?」
「シャロウらしくないもん。やり直し!」
シャロウは眉間に皺を寄せた。
「……やり直しって」
「いつものシャロウでいいよ」
「……有紗」
「なぁに」
真っ直ぐに見つめ返され、シャロウは黙った。
有紗は何度か瞬きをしながら、それでもこちらを見ていた。
思ったより、沈黙が長くなった。
一度は言えた別れの言葉を、もう一度口にすることができなかった。
シャロウは視線を逸らし、小さく息を吐いた。
「……戻るぞ」
有紗は拍子抜けしたように目を瞬かせたあと、すぐに柔らかく笑った。
「……冷えるから、早くしろ」
「冷えるから、その格好なの?」
「……そうだよ」
「そっかぁ」
二人は並んで、研究棟の中へ戻っていった。
◇
翌朝。
有紗が食堂へ入ると、壁際にはシャロウの剣があった。
いつもの場所に、いつものように立てかけられている。
向かいでは、その持ち主が何食わぬ顔でパンをちぎっていた。
「シャロウ」
「あ?」
「……おはよう」
シャロウの手が、一瞬だけ止まった。
それから目を逸らすように、パンへ視線を落とす。
「……おはよう」
小さな返事だった。
有紗は安心したように笑い、匙を手に取った。
その時、食堂へ入ってきたリネットの腕には、綺麗に畳まれた外套が抱えられていた。
昨夜、シャロウが羽織っていたものだ。
「シャロウ様」
「何だよ」
シャロウは、すでに嫌な予感がしたように眉を寄せた。
リネットはいつもと変わらない穏やかな顔で、外套の上に載せていた小さな鍵を差し出す。
「こちら、お部屋の鍵でございます。昨夜のお召し物を整えておりましたら、外套のポケットに入っておりました」
「ポケットに入ってたの?」
有紗が鍵を見る。
シャロウは答えず、リネットを見た。
リネットはいつも通り微笑んでいる。
「なくさなくてよかったね」
「……」
シャロウは諦めたように、鍵ごと外套を受け取った。
「……どーも」
「どういたしまして」
リネットは、いつも通りに一礼した。
シャロウは鍵を掌の中で一度転がし、外套の内ポケットへしまった。
有紗は、その動きをじっと見ていた。
「……よかった」
思わず零れた声に、シャロウが顔を上げる。
「何が」
「ううん。何でもない」
「何でもない顔じゃねえだろ」
「何でもないよ」
有紗は小さく笑い、スープを一口飲んだ。
その向かいで、シャロウは居心地悪そうに顔を背ける。
紫音が茶器を置いた。
「では、鍵をお持ちである間は、研究棟の規則に従っていただきます」
「朝からうるせえな。預かるだけだ」
「承知しました。では、預かっている間は規則を守ってください」
「お前、本当に性格悪いな」
「正確に確認しているだけです」
リュシアンが小さく笑った。
「よい朝ですね」
「どこがだよ」
「少なくとも、皆様お揃いです」
有紗は食卓を見回し、嬉しそうに頷いた。
「うん。いい朝だね」
シャロウは答えなかった。
ただ、何も言わずに次のパンへ手を伸ばした。
いつも通りの朝だった。
少しだけ、昨日とは違う朝だった。




