第1話 研究棟の朝
研究棟の朝は、いつも少しだけ焦げ臭い。
窓の隙間から入り込む風には、まだ冬の冷たさが残っていた。
王都を見下ろす丘の上では、日の出より先に実験の煙が上がることも珍しくなかった。
有紗が廊下へ出ると、奥の実験室から細い煙が流れてきていた。鼻をひくつかせ、そのまま扉を開ける。
「紫音くん。また何か燃やした?」
「燃えたのではなく、反応しただけです」
机の向こうで、紫音は書類から顔も上げずに答えた。
机には開いた本と計算紙、それから昨夜置いたままらしい冷めた茶が並んでいる。窓の外はもう明るいのに、燭台の火だけがまだ残されていた。
「寝てないでしょう」
「少しは寝ました」
「少しって?」
「二時間ほど」
「それは寝たって言わないよ」
有紗が冷え切った茶器を取り上げたところで、玄関の扉が勢いよく開いた。
「おはようございます。お二人とも、今日はきちんと朝食を召し上がりましたか?」
返事を待たず、大きな籠を抱えたリネットが入ってくる。
紫音は書類へ目を落としたまま、動こうとしない。
リネットはその姿を一目見て、静かに息を吐いた。
「紫音博士」
「今、重要なところです」
「昨日も同じことをおっしゃっていました」
籠から焼きたてのバターロールと瓶詰めの果実ジャムを取り出し、研究机の空いている場所へ並べていく。
「研究資料の横で食事をしないでください」
「ここ以外に置く場所がありません」
「片づければございます」
いつものやり取りだった。
有紗は笑いながらパンを一つ取り、半分に割った。
「はい、紫音くん」
「有紗が食べてください」
「私のはもうあるもん」
押しつけるように手渡すと、紫音はようやく筆を置いた。
リネットは満足そうに頷き、それから思い出したように一通の封筒を取り出した。
「そうでした。有紗様、本日は街へ行かれますか?」
「行きたい」
「まだ用件を申し上げておりませんよ」
「でも、街でしょう?」
紫音の視線がすぐに上がった。
「一人では行かせません」
「市場までだよ?」
「距離の問題ではありません」
「紫音博士。薬舗と市場は同じ通りですし、昼までにはお戻りになれるかと」
リネットは二人の間へ封筒を差し出した。
「薬舗へ、こちらを届けていただきたいのです。シンシア様が次にいらした時に使う材料だそうで」
「シンシア、今月も来るの?」
「予定では、あと四日ほどで」
有紗は封筒を受け取り、表に書かれた細かな文字を眺めた。
「また難しいものを作ってるのかな」
「シンシア様が簡単なものを作っていたことがございましたか?」
「ないかも」
「寄り道をしないこと。昼までに戻ること。それが条件です」
「分かってるよ」
「本当に分かっていますか?」
「分かってるってば」
◇
昼前の街は、人と荷車で溢れていた。
研究棟の静けさとは違い、あちこちから声が飛び交っている。焼いた肉の匂い。色鮮やかな果物。石畳を叩く馬の蹄。
薬舗への届け物を終えた有紗は、行き交う人々を避けながら、夕食の食材を買うため、市場へ向かっていた。
その時、路地の奥で何かが倒れる音がした。
周囲の人々は一度だけ視線を向け、それから何事もなかったように通り過ぎていく。
有紗だけが足を止めた。
薄暗い路地の奥に、一人の男がいた。
黒い衣服。乱れた髪。石壁に預けた腕から、血が滴り落ちている。
「大丈夫ですか?」
声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
鋭い目が一瞬だけ有紗を捉える。
けれど、男は何も答えなかった。
壁に手をついて立ち上がり、そのまま有紗の横を通り過ぎようとする。
「待ってください」
男は足を止めない。
「怪我してますよ」
「……」
「そのまま行ったら駄目です」
有紗が後を追うと、男はようやく振り返った。




