第1話 目覚め
――城門が崩れる音を、最後に聞いた気がする。
数万の視線と敵意が集まる中、召喚した悪魔の大群と共に防衛ラインを突破した。悲鳴と怒号が混ざり合う街中での掃討戦、最後まで立っていたのは俺だけだった。
全てのプレイヤーの始まりの街であり、数多のプレイヤーが拠点を構えている"中央都市アルンダラ"。
その象徴である大神殿の瓦礫の上に座り込み、空を見上げた。
やりきった、という感覚だけが、やけに鮮明だった。
ログアウトをして、次に感じたのは、規則的な電子音と、天井の白い染みだった。それを見ながら、まだ生きているか、とぼんやり思う。周囲には長い間世話になった医者と看護師、数少ない友人たちがいた。
呼吸が浅くなり、耳が遠くなっていく。田中はただ「ありがとう」と何度も言った。
そして――途切れた。
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意識が浮上する。重苦しい病室の空気とは全く異なる、清涼な風が頬を撫でた。土と草の匂いが鼻腔をくすぐる。微かに聞こえるのは、鳥のさえずりだろうか。
全身に満ちる、漲るような力。病に蝕まれていた体とはまるで違う、完璧な肉体。
ゆっくりと目を開ける。視界に飛び込んできたのは、どこまでも広がる青い空と、見渡す限りの緑の草原だった。
身体を起こそうとして、ふと自分の手が目に入る。それは、人間のものではなかった。灰色の皮膚。黒く鋭い爪。
「……は?」
混乱は一瞬だった。次に、頭部に奇妙な重みを感じ、思わず手を伸ばす。
触れたのは、硬くねじれた角。額には三つめの目がある。鏡などなくとも、今の自分の姿がどのようなものか、田中には容易に想像できた。
"悪魔帝"
ChaosFantasyで、彼が到達したユニークのデーモン種。灰色肌の筋骨隆々とした肉体、黒毛の山羊頭、白い捻れた角、額の三つ目、3m程度の身長という、威圧的な異形の姿。
ゲームの中で幾度となく見てきたアバターである"タナカ"の姿だ。
「え……異世界転生!?マジで!?てか声低いな!」
軽い喋り方だが、その声は低く、響くような威厳のある声。
彼は立ち上がった。身長3mの巨体が、風に揺れる草原に影を落とす。全身に満ちる魔力と武気。これは夢ではなく、紛れもない現実だった。
「おい、マジかよ!ゲーム内じゃないだろうな!?ステータス!」
タナカは、かつてのゲームと同じように唱えた。しかし、目の前にステータスウィンドウが表示されることはない。何度試しても、虚空は虚空のままだ。
彼の口元に、笑みが浮かんだ。
「はははっ!すげぇ、現実だ!」
ゲームであれば、コマンド一つで自身の能力値や所持アイテムが一覧表示される。それができないということは、ここはゲームではない、ということの何よりの証拠だった。
現実であることへの確かな手応えが、彼の興奮をさらに煽る。
次に、彼は虚空に右手を差し込んだ。
ゲーム時代の癖で、無意識にアイテムボックスを使おうとした。すると、彼の右手が、まるで水面に差し込まれたかのように、空間に吸い込まれていく。
彼の手に握られていたのは、見慣れたハイポーションだった。
「おお……マジかよ!」
思わず声が漏れる。アイテムボックスが使える。それはつまり、ChaosFantasyで彼が築き上げてきた膨大な資産───ミシック級の装備品や素材、消費アイテムの全てが、この異世界でも使えるということだ。
試しに、もう一度虚空に手を差し込み、今度は愛用していた大剣を取り出してみる。ずしりと重く黒い金属、刃に刻まれた魔術的な紋様。にじみ出てくる黒いモヤ。
ChaosFantasyで生産職の親しいフレンドたちに作成してもらった"魔帝ノ大剣"だ。
「最高じゃねぇか……!」
笑いが込み上げてくる。しかし、この悪魔帝の姿のままでは色々と不都合が多い。
異世界を楽しく探索するためにも、いきなり人々に敵対されるわけにはいかない。タナカは自身の種族スキルの一つを思い出した。
「『完全擬態』」
スキルを発動すると、彼の巨体が光に包まれた。角が消え、灰色の皮膚は健康的な肌色へと変化する。額の三つ目は消え、黒毛に覆われていた山羊頭は、後ろに流した黒髪へと変わった。身長も縮み、人間としては少し大柄な190cm台へと落ち着く。
光が収まった時、そこに立っていたのは、鍛え上げられた肉体を持つ、顎髭を生やした一人の男だった。
「これで良し。名前は……そうだな、『アルク』でいいか」
完全擬態に"アルク"として名前が固定された。完全擬態の効果として、どの鑑定アイテムやスキルでも偽装されたステータスを表示させることができる。
デメリットとしてレベルが40下がってレベル160になってしまうのだが、大したデメリットじゃない。完全擬態の状態で殺されても、"元の姿"を強制的に晒すことになるだけだ。
人間の姿となったタナカは、改めて周囲を見渡した。見渡す限りの大草原。地平線まで続く緑の絨毯には、目印となるような大きな木も、岩山も、建造物も一切見当たらない。ただただ、広大な空間が広がっている。
風が草の葉を揺らし、さわさわと音を立てて通り過ぎていく。人の気配も、集落の光も、遠くに見える煙一つない。自分が世界のどこに転移したのか、皆目見当もつかない状況だった。
「ここまで何もないことあるか?」
独りごちながら、"アルク"は魔帝ノ大剣をアイテムボックスにしまい、ゆっくりと歩き出した。
どこへ行くという明確な目的はない。ただ、この世界の広大さを肌で感じ、何か新しい発見を求めていた。
どれほどの時間歩いただろうか。アルクの視界の端に、奇妙なものが映り込んだ。
地平線の彼方で、何かが大量に蠢いている。最初は陽炎かと思ったが、目を凝らすと、それは確かに動く物体だった。しかも、その数は尋常ではない。
まるで、巨大な黒い塊が、うねるように動いているように見える。
「なんだあれ……」
距離が縮まるにつれて、蠢くものの正体がはっきりと見えてきた。それは、魔物たちの群れだった。
そして、彼らは互いに激しく争っている。戦場と化しているのだ。
アルクはその戦場の様子を観察した。一方の勢力は、緑色の肌を持つ小柄な魔物たち。槍を構えた"ランサー・ゴブリン"と、棍棒を振り回す"ブルート・オーク"の集団だ。
もう一方の勢力は、空を飛び回る"ニードル・ビー"と、地面を這い回る"バイト・アント"の大群。インセクト種だ。
ゴブリンとオークが、インセクト種の大群に数で押し込まれているように見える。
「ゴブリン種とオーク種が、インセクト種と……縄張り争いか?」
別種族の争い。その規模は想像を絶するものだった。数えきれないほどの魔物が、互いの命を奪い合っている。
その中で、一際大きく、周囲のゴブリンたちに指示を出しているゴブリンがいた。体格は通常のゴブリンよりも一回り大きく、革製の鎧を身につけ、大型の剣を手にしている。あれは……
「ホブ・ゴブリン……下位種か」
ゴブリンの群れのリーダー格だろう。そのホブ・ゴブリンは、雄叫びを上げながら、インセクト種の群れに突進して蹂躙している。
アルクは、遠くからその光景を眺めていた。弱肉強食。まさに異世界といった光景だ。ゲームの中では何度も見てきたはずの、魔物同士の争い。
しかし、こうして生身で五感を通してその迫力を感じると、やはり違う。血の匂い、土煙、魔物たちの咆哮。全てが現実味を帯びて、彼の感覚を刺激する。
「すっげぇな、異世界」
思わず、感嘆の声が漏れた。この世界は、彼の想像を遥かに超える面白さに満ちている。
ふと、彼は虚空に手を差し込んだ。アイテムボックスから取り出したのは、掌に収まるサイズの、ごく普通の虫眼鏡だった。
ChaosFantasy時代、最も基本的な鑑定アイテムとして重宝した"鑑定虫眼鏡"だ。
アルクは、戦場にいる無数のゴブリンの中から、適当な一体を選び、鑑定虫眼鏡を覗いた。レンズ越しに映し出されたのは、槍を構えた小柄なゴブリン。その頭上には、見慣れた情報が表示される。
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ランサー・ゴブリン Lv.122
槍術師:狩人:採掘師:解体屋
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「は……?」
アルクの口から、間の抜けた声が漏れた。ChaosFantasyでの種族や職業の位付けは、最下位,下位,中位,上位,最上位の五つだ。
ランサー・ゴブリン。それはゴブリン種で最下位ランクに位置する魔物。ゲーム時代であれば、序盤のプレイヤーが経験値稼ぎに狩るような、取るに足らない存在。
それが、レベル122。
最下位ランクではありえないレベルだ。ゲーム内であればこのレベルだと中位ランクが妥当だろう。
アルクはすぐさま次の個体にレンズを向けた。まずは、ゴブリンの隣で棍棒を振り回す巨漢。
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ブルート・オーク Lv.128
闘士:重装兵:解体屋:釣り人
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次に、空を高速で旋回する羽音の主。
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ニードル・ビー Lv.115
突撃兵:毒使い:建築士:狩人
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さらに、地面を黒く染めて進軍する軍勢。
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バイト・アント Lv.112
闘士:兵士:建築士:料理人
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「あれが特別強いわけじゃないのかよ。基本100は超えてんな」
どの個体も、本来ならレベル10から20程度が関の山のはずの最下位種だ。それが軒並み100の大台を超えている。
視線を戦場の中心へと戻す。そこでは、先ほど目にしたホブ・ゴブリンが、インセクト種の猛攻を大剣一本で切り伏せていた。
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ホブ・ゴブリン Lv.141
重装兵:指揮官:守護者:解体屋
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レベル141。
完全擬態中のアルクのレベルは160だ。つまり、目の前の雑魚の親玉と、アルクとのレベル差はわずか19しかない。
「乱入して暴れ回るのも一興かと思ったが……」
アルクは一度、アイテムボックスから取り出しかけた大剣の柄から手を離した。
「いや、この世界の情報が少なすぎる。今はまだ、だな」
眼下で繰り広げられる殺し合いは、時間の経過とともにその異質さを増していく。特に、インセクト種の動きだ。
数千という単位の虫たちが、まるで一つの巨大な生き物のように連動している。
ニードル・ビーが空から急降下してゴブリンの視界を奪い、その隙にバイト・アントが脚を食いちぎる。波状攻撃のタイミングは、コンマ数秒の狂いもなく揃っていた。
「統率されてんな。それも、えげつないレベルで」
アルクは目を細め、戦場を凝視した。
彼らは無秩序に襲っているのではない。ゴブリン側の指揮官であるホブ・ゴブリンを執拗に削りにいっている。
盾役のオークを無視し、隙を突いては指揮官にだけ毒針を叩き込むなどといった、自身の命を気にかけていないような特攻を何度も行なっている。
「"統率個体"でもいんのか? 見当たんないけど」
これほどの大軍を操るなら、後方に統率個体が鎮座しているのがセオリーだ。だが、アルクの視界には、それらしき影は見当たらない。
やがて、均衡が崩れる。
数百の死骸を積み上げたホブ・ゴブリンの膝が、ついに折れた。
全身に無数の針が突き刺さり、緑色の肌は毒でどす黒く変色している。断末魔の叫びを上げる暇もなく、大剣が手から滑り落ちた。
その瞬間、それまで狂乱状態で襲いかかっていた虫の群れが、一糸乱れず動きを止めた。
そして、まるで機械的な信号を受信したかのように、陣形を組み替える。あるものは死骸の回収へ、あるものは残党の追撃へ。
感情の欠片もない、不気味な同時行動。命令が下った直後の軍隊そのものだった。
乱戦の残滓が草原に沈み、勝者であるインセクトの本隊が移動を開始する。
だが、その一部隊――数十から百単位の虫たちが、突如として本隊から分離した。
彼らは迷うことなく、一直線にこちらへ向かってくる。
「ん?」
アルクは眉をひそめた。
風向きは向こうからこちらへ吹いている。臭いで悟られるはずはない。距離も十分にある。
偶然の徘徊にしては、その進路はあまりにも正確だった。
「狙ってきてるな、これ」
迷いがない。明確な意図を持って異物を排除しに来ている。ガチガチと顎を鳴らす音が、草原を伝って耳に届く。
レベル100超えの集団。完全擬態による弱体化状態では、少々骨が折れる数だ。
「この数はさすがに、完全擬態使ったままだとダルいか」
アルクは岩場からゆっくりと立ち上がった。
逃げるという選択肢は、最初から存在しない。
彼は深く息を吸い込み、体内に渦巻く魔力と武気を解放する。
「『完全擬態 解除』」
呟きとともに、世界が歪んだ。
心地よい解放感が全身を包み、骨が軋み、肉が膨れ上がる。
190センチの人間から、3メートルの巨躯へ。
顎髭の男の顔は、禍々しい黒毛に覆われた山羊の頭部へと変貌し、額には第三の目が開く。
白い、ねじれた角が天を突き、周囲の空気が重圧で震えた。
悪魔帝。
その真の姿を現したタナカの前に、バイト・アントの先遣隊がたどり着く。だが、彼らはその圧倒的な威圧感を前にしても、一歩も引くことはなかった。
殺意を剥き出しにした虫たちが、悪魔の足元へと躍りかかる。
「さて、検証といくか」




