19歳・3
無。
私の心は無だった。
明美を殺すことによって、開放感や達成感、あるいは罪悪感などを感じるかもしれないと予想していたが、吹き上がってくる感情など皆無だった。いや、考えようによっては、『無』という感情が溢れてきたとも考えられるか。
「……どうでもいいか」
そんな結論に達し、私は重い腰を上げる。
心身ともに気だるいが、まだすべてが終わったわけではない。明美を殺し、かつ、その事実を一切疑われないことが私の目的だからだ。そして後者のためには、一刻も早く事故現場から離れる必要がある。
――この感じだと、明美の死を実感するまで、多少は時間がかかるのかもしれない。
仕方ないとは思う。婆ちゃんの筆箱を壊されて以降の五年間、明美を殺すことばかり考えてきたのだ。むしろ、これから先はなにを目標にして生きればいいのか、不安にすら思う。
が……ともかく後だ。まずはこの場を離れるとしよう。
私は気を取り直すと、信号発信用スマホの電源を切った。そして双眼鏡などをかばんに入れ、変なモノを残してないか周囲の地面をチェックする。
……問題はない。あとは近くに隠してあるバイクに乗って、林道を通って帰路に着くだけだ。
そして、私は振り向いた。バイクは斜面の上の方に置いてあったからだ。
だが、私の足はそこで止まった。
ついでに全身が硬直した。
目の前の光景が理解できず、思考さえもフリーズした。
斜面の上、五メートルほど先に、明美がいた。
喪服姿のまま傘も差さず、ずぶ濡れで、スマホを私に向けて直立している。
私は、動けない。
天地がひっくり返ったような現状に、頭が真っ白になっていた。何かを思う余裕すらなく、ひたすらに心身ともに石化してしまっていた。
明美はスマホをこちらにかざしたまま、無感情な目で私を見下ろしている。が、ようやく視線を外し、スマホを片手で操作する。
「送信……と」
そう呟いた後、再び感情のない視線をこちらに向ける。……違和感を覚えた。いつもの、高飛車で高慢な態度がまったく感じられない。
そうして初めて、私は目の前の女が明美ではないかもしれない、という疑いを抱いた。
「十分ほど前から、あなたを撮影していた。動画は信頼できる人間に送って、私に万が一のことがあった場合は警察にそれを送ってもらう手筈になってる。つまり、もうあなたは安易に私を殺すことはできない」
やはりおかしい。明美が私を、『あなた』なんて呼ぶはずがない。口調もやたら平坦だし、無機質的だ。
幾つもの重要な疑問をすっ飛ばし、私は明美の真贋を見極めようとする。
……しかし、態度や口調がおかしいとはいえ、眼前の喪服女は間違いなく明美そのものだった。散々監視してきた私がそう思うのだから、間違いない。
「ねぇ、話聞いてる? あなたが車を爆破した瞬間を、動画に撮ったって言っているのだけれど。それについて、何か感想は?」
「……お前、誰だ」
相手の話は、半ば耳に入っていなかった。だが何かを聞かれたから、私の疑問を素直に口にしてみた。
「誰って、見ての通り、馬場明美だけれど」
「話し方が全然違う」
「そんなの、時と場合によって幾らでも変わるものでしょ。……でもまあ、あなたは私のこと、ちっとも理解してなかったのね。それが理解できたのは良かったかな」
本当に淡々とした口調だった。人間味がまったく感じられない。そもそも、お前は私を全力で否定する存在じゃなかったのか? 私への敵意とか嘲りはどこにいったんだよ。
私はこの時点で、相手が明美の皮を被った化け物ではないかと、本気で疑い始めていた。
「……お前が本当に明美なら、さっき車に乗ってたのは誰だったんだ。別人だとでも?」
「あれは人形だよ。そんなに精巧なやつじゃなかったから、ちゃんと顔を確認すればわかったはずだけど」
その言葉に、私は度肝を抜かれた。
「に、人形?」
「そう、人形。で、直線の道に入ったところで車の自動運転を解除して、そのまま崖に突っ込ませたってわけ」
「じ、自動運転?」
またもオウム返しで聞いてしまった。
この流れだと、明美は――あるいは明美らしき存在は、私の計画をすべて把握していたことになる。
「そんな大したものでもないわ。元から搭載されていた機能を、遠隔で使えるようにしたってだけだし」
「じゃあ……じゃあ、さっき落ちて、爆発した車は……」
まわりまわって、話が本題に戻った。
そう、重要なのは私が明美を殺せたのか否かだった。そして、どうやらそれは――。
「もちろん、フェイク。あなたを逆に罠に嵌めるための」
「……罠」
「そう、罠。こうして私は死なず、あなたは車を爆発させた犯罪者となった。理解できた? あなたは失敗したのよ、玲ちゃん」
明美とは小学高学年から大学まで同じ学校だったが、言うまでもなく、ちゃん付けで呼ばれたのは初めてだ。
きっとヤツにとって、私の名前は忌々しくてたまらないものだったはず。たとえ天地がひっくり返ろうと、『玲ちゃん』なんて親しげに呼ぶはずがない。
その有り得ない事実をかっちり認識したとき、私は思考の霧が局所的に晴れた感覚を得た。
「……よくわかった」
呟いた私を見て、斜面の上の明美はゆっくりと頷く。
「わかってくれて良かった。もはや、あなたの運命は私の手の中にあるわけだけど、下手な抵抗をしなければ――」
「お前が明美じゃなく、人間でもないナニカってのがよくわかった」
「…………は?」
若干眉を持ち上げ、疑問の表情を作る明美もどき。初めて感情らしきものを見せたが、もう遅い。
私は目の前にいるこの物体を、完全なる化け物と断定した。だって、『意味不明な怪物が明美の外見を借りてあれこれ画策した』というのが、現状ではもっとも説明がつくのだ。
そしてその認識は、私に更なる確信を与えた。
――人間でない化け物なら、殺しても罪にはならない。
私は明美もどきを凝視したまま、合羽のフードを脱ぎ、かばんを地面に投げ捨てた。そして、斜面の上へと一歩踏み出す。目の前の存在を殴り殺す――そんな殺意を漲らせて。
「うーん、そうきちゃったかぁ。さすが玲ちゃん、コントロールできない」
そう呟きながら、明美もどきはスマホを持つ手をスカートのポケットに入れた。
私は斜面を駆けだす。もしも武器を携帯していた場合、あのポケットから出てくる可能性があるからだ。……が、しかし。
私は内心で舌打ちした。上手く走れない。
山林の斜面、さらに雨が降っているとあって、地面の土が雪のように柔らかかったのだ。ここに来たときは草が生えている場所を歩いてきたので、気づかなかった。
一気に距離を詰められない事実を認識し、私は合羽のポケットからスマホを取り出した。それを、すかさず目の前の化け物に投げつける。牽制のためだ。
木のそばにいる明美もどきは、右腕を上げてそれをガードした。
だが防いだだけで、逃げるそぶりはない。いまだ、無感情な目を私に向けている。
足場が悪いながらも全力で接近した私は、届くか届かないかの距離で、全力の左ジャブを打った。ほとんどノーモーションから繰り出された高速のパンチが、明美もどきの鼻先を掠める。
当たった。射程ギリギリで打ったからダメージはほとんどないだろうが、一瞬怯ませるにはあれで十分。
本命は、直後に繰り出した右のフックだ。腰を大きく捻り、上半身の体重を乗せた私の右こぶしが、明美もどきの顎へと飛ぶ。
足の踏ん張りが利かないから全力とは言えないが、これが直撃すれば間違いなく脳みそは揺れる。そして立つことすらできなくなったヤツの後ろに回り込み、首を絞めて殺す。これが私が即席で立てたプランだった。
明美もどきは膝丈のスカートをはいており、逃げるにせよ戦うにせよ、動きに大きな制限を受ける。ナイフやスタンガンといった武器さえ使われなければ、私に敗北などあるはずもない。
――そう、思っていたのだが。
気づけば、膝をついていたのは私のほうだった。
敵の顎への右フックは当たっていた。だがほぼ同時に、明美もどきの右足のつま先が、私の左脇腹に突き刺さっていたのだ。
「がは……ッ!」
思わず、息が漏れた。
カウンターの蹴りをもらったのだと気づいたが、すぐに立てない。この抉るような痛み――もしかすると、肋骨が一、二本折れてしまったのかもしれない。
だが、あちらも顎への一撃を食らっているはず。即、気絶していてもおかしくなく、私は明美もどきが倒れているのを期待して顔を上げた。
息を呑んだ。
明美もどきは倒れていなかった。それどころか片足で優雅に立ち、拳法家のように右足を九十度持ち上げて見せている。
スカートにはチャイナドレスのような大きなスリットがあるようで、そこから白い太ももが大きく露出していた。右フックを食らったはずの顎にはダメージが見受けられず、さっきと同じ調子で私を無感情に見下ろし続けている。
私は悟った。あいつ、私の右フックを受ける直前に、自分で同じ方向へ首をひねったのだ。そうすれば、かなりの衝撃を受け流すことができる。
ボクシングの高等技術だが、その動作を蹴りのカウンターと同時にこなしたというのだろうか? だとしたら、ヤツの格闘技術はプロ並み――間違いなく、私を超えていることになる。
――大学に入ったときと同じだ。あいつ、また実力を隠していたのだ!
…………いや違う。あれは明美じゃないんだから、別におかしいことはない。
そもそも明美はおかしいことの塊なわけで、いまさら奇妙な点があっても――。
いやだから、あいつは化け物が明美のフリをしてるだけで――。
「…………ふぬぅっ!」
乱暴に息を吐いて思考を強引に打ち切り、私はどうにかして立ち上がった。
雑念を抱いている場合じゃない。骨折っぽい大ダメージを負ってしまった分、こちらがはるかに劣勢なのだ。
思いっきり手を伸ばせば届くほどの距離に、明美もどきは立っている。なぜ追撃を仕掛けてこないか不明だが、おかげで私に若干の思考の余裕が生まれた。
私は即座にプランを練り直した。あちこちの地面が異様に柔らかく、踏ん張りの利かない現状、私が普段得意とするフットワークを生かした戦法は使えない。だが、動きづらい条件はあちらも同じだ。
……よし、それならばいっそ――。
次の出方を決めた私は、密かに両足の裏にグリグリと体重をかけた。踏んでいる土を押し固めるためだ。
そうして踏ん張りを利かせる前準備をしたところで、前のめりになり、パンチを打つ姿勢を取る。
次の瞬間、私はパンチのフェイントを入れ、即座に体を沈めてタックルを仕掛けた。斜面すれすれの低空タックルで、たとえフェイントに引っかかっていなくとも、この足場の悪さなら回避など不可能だろう。
しかし、明美もどきと一緒に地面に倒れることを予期していた私だが、そうはならなかった。無様にも、地面へと倒れこんだのは私一人だけだったのだ。
なにが起こったのか疑問に思う間もなく、背中に衝撃が走る。だが、さほど痛くはない。
わけがわからず、私は地面を泳ぐようにしてジタバタと前へ逃げ、どうにか体を起こす。そして振り返り、目の前の木に背中をピタリとつけた。
明美もどきは、私の正面、斜面のすぐ下に立っていた。ゼーゼーと息を荒げているこちらと違って、呼吸の有無さえ疑うほど静かな面持ちで私を眺めている。
「良くないな、玲ちゃん。タックル仕掛けるなら、もっと高低差を考えないと」
なにやらアドバイスめいたことを言ってきたが、私には不可解だった。
高低差もなにも、今どうやって避けた? 真上にジャンプしたとでも? で、私の背中に着地した?
状況的にそうとしか考えられないが、この雪のように柔らかい土だと、どう踏み固めてもそんなに高く飛べるわけが――。
ふと足元を見て、気づいた。根っこだ。
あいつ、土の地面ではなく、木の根っこを足場にして飛び上がったのだ。それならば思いっきり踏ん張って動ける。さっきの蹴りがやたら強かったのも、そういう理屈なら頷ける話だ。
しかし、お互いの位置は入れ替わった。今度はこちらが良い足場を持ってるんだから、それを活かせば勝機はあるはず。
そう思い、木に背中を預けつつ立ち上がろうとする私だったが――。
ドッ、と小気味よい音を立てて、ナイフが木に刺さった。私の顔から、わずか数センチ左の部分に。明美もどきが投擲したものだった。
私はここらでようやく、命の危険を覚えた。今のナイフがほんのわずかにずれていれば、死んでいたのだ。
背筋に冷たいものが走り、不安を駆り立てる危機感が一気に増していく。
しかし、だからといって無抵抗でいるわけにはいかない。
私は勇気を奮い立たせると、すかさず木に刺さったナイフの柄に手をかけた。こいつを奪って武器とすれば、多少は戦況を優位にできるはず。
だが、思いっきり引っ張ってもなぜかナイフは抜けなかった。刃の先に返しでもついていて、引っかかっているのだろうか?
ともあれ、私は両手で柄を握って全力を込めるが――。
それは、むしろより深く突き刺さった。明美もどきが距離を詰め、ナイフの柄頭を足裏で強く踏みつけてきたからだ。
片足をナイフにかけたまま、明美もどきは私に覆いかぶさるような姿勢を取ってくる。
「……よし、決めた」
なにやら独り言を言うと、ヤツはナイフを踏んでいた足を下ろした。が、私の両手はまだナイフの柄を掴んでいる。
そのまま引き抜くか、ナイフを諦めて素手で再び挑むか、一瞬逡巡してしまう私。
そして……その硬直が、命取りとなった。
明美もどきは両腕をさっと伸ばすと、突然私の首を絞めてきた。
そのまま首に体重をかけられたため、私は地面に押し倒される。ナイフを掴んでいた手も放してしまった。喉元を強く圧迫され、息ができない。
私は気が動転しつつも、全力で暴れて抵抗した。両手で明美もどきの顔を殴り、体をばたつかせ、どうにかして逃れようともがいた。しかし、私の首を絞める手はまったく緩まない。
「殺そうとしたんだもの。殺される覚悟くらい、あるよね?」
そんな声が、すぐ頭上から降ってきた。すでに言葉をまともに聞ける状態ではない私だったが、死が間近にあることは理解できた。
――死ぬ。殺される。
私が? なんで?
殺される覚悟なんて、これっぽっちもなかった。だって、明美の死は絶対正義であって、私に否などあるはずが――。
意識が遠のくのを感じた。自分のすべてが苦痛で覆われ、急速に塗りつぶされていく。いっそ気を失えば楽になるのだろうか――とまで考えてしまう。
そんなときだった。右耳に、激烈な痛みが走る。
「~~~~ッ!!」
尋常ではない痛みに悶えるが、依然、首を絞められているから声は出ない。右耳の痛みはさらに加速していく。まるで刃物で抉られているかのようだ。
気づけば、明美もどきが私に抱き着くように密着していた。そして、吸血鬼が人間の血を吸うときのごとく、私の耳元に顔をうずめている。
私は気づいた。こいつ、私の耳に咬みついている。
だって、両腕は私の首を絞めたままだし、ヤツの頭の揺れと私の右耳の痛みが連動しているのだ。歯で耳を噛んでいるとしか思えない。
最後の力を振り絞って暴れた。この化け物の頭を、自分の拳が壊れるほどの勢いで殴りまくった。それこそ、相手を殺すつもりで。
だが、首と耳への攻撃はちっとも緩まない。むしろ強まっていく。
――ああ、なんてこった。本当に、マジの化け物だったんだ、こいつは。
私の中に、急速に納得や諦観、そして絶望といった感情が広がっていく。
力が入らない。気づけば、両腕はすでに持ち上がらず、視界が混濁している。ただ右耳だけが、異様に痛い。
明美もどきが、体を起こした。口周りが真っ赤に染まっている。そして、歯と歯の間に何か小さいモノを挟んでいる。――私の耳たぶだ。こいつは私の右耳の先を、歯で食いちぎったのだ。
意識を失いそうになる瞬間、私は見た。
明美もどきは、噛み切った私の耳たぶを舌先で転がし、舐め、ちゅうちゅうと血を吸った。そして、性的快感を得ているかのような喘ぎ声をあげ、体を震わせる。
やがて、喉がごくりと動いた。私の肉片を飲み込んだのだろう。
途端、明美もどきは上半身を大きくのけぞらせ、ビクンビクンと大きく震えた。絶頂にでも達したかのようだった。
同時に、私の腹のあたりを急速に暖かい液体が伝わっていく。すぐ気づいた。私に跨る明美もどきが、おしっこを漏らしたのだ。
――――なるほど、こいつは化け物だ。
疑いようもなく、正真正銘の、百パーセント化け物だ。
薄れゆく意識の中、死を覚悟しつつ私はそう思った。そして、なにがなんでもコイツを殺さなければならないと、新たな決意を抱いた。
もう、本物の明美かどうかも関係ない。
この化け物を殺さねば。この不快極まりない存在を、絶対に消さねば。
だが、強い決意とは裏腹に、急速に思考が鈍くなっていく。
私は、この新たな確信を失わないようにと、強く心で握った。そして、そのまま眠りの海へと沈んでいった。




