07:陰陽寮と、山盛りの申請書
東京、霞が関。
近代的な官庁街の地下深く、地図には存在しないフロアに、時代錯誤な和室があった。
雑然と積まれた書類の山と、壁に貼られた護符が奇妙な調和を見せている部屋。
古くより霊的防衛を担ってきた行政機関——内閣官房特殊事象対策局、通称『陰陽寮』の内奥にある一室だ。
焚き染められた線香の匂いが、澱んだ空気と共に漂っていた。
「……報告します。離反した宵町暁灯の足取りですが、依然として『神性呪物拾弐號』と共に逃亡を継続中」
「広域霊的探知網を欠いた現在の体制では、やはり満足な探索が難しい状況です」
報告を行う若い職員の声には、隠しきれない疲労と、どこか戸惑いのような色が混じっていた。
「共鳴器棺で観測した拾弐號の霊力反応は低下傾向にあります。恐らく、不安定な状態が続いているようです。このままでは、千歳の身体が保たない可能性も……」
「——呼称が違います」
書類に目を落としたまま、上席に座る初老の男——局長の烏丸が、低く言葉を挟んだ。
職員が、しまったという顔で口元を押さえる。
「その名で呼ぶなと言ったはずです。業務に私情を持ち込むべきではありません」
烏丸は顔を上げ、眼鏡の位置を指で直しながら淡々と言った。
「あれは国が管理する『備品』。暁灯が勝手につけた名前など、忘れることです」
「は、はい…… 申し訳ありません。つい、以前の癖で」
職員はバツが悪そうに頭を下げた。
かつて暁灯が組織にいた頃、彼が神性呪物拾弐號を「千歳」と呼び、人間のように接していたことは周知の事実だ。現場の若い職員の中には、それに感化されている者も少なくない。
「まったく。暁灯め、余計な『呪い』を残していきおって」
烏丸は深いため息をつき、手元の湯呑みをすすった。
彼にとって、神性呪物拾弐號は資材だ。替えの利かない重要資材ではあるが、情をかければ、有事の際の『使用』に躊躇いが生まれる。
それは管理者としてあってはならないことだった。
「……続けてください」
「あ、はい。本件は引き続き宵町家預かりとして対処中でしたが、学校敷地内にて宵町暁灯と特定外部者の継続接触を確認。加えて、敷地内で術式反応を検知したため、宵町家判断による一次遮断として式神を投入しました」
「結果は」
「全機消滅。目標の確保には失敗しました。加えて現場ではダンジョン発生を確認。これにより本命だった後続班の投入は中止され、対象を取り逃がしております」
「ダンジョン、か……」
ダンジョン。
それは、聞きたくない言葉であった。
二ヶ月前に突如現れた、魍魎に満ちた『穴』。
本来ならば陰陽寮の管轄となるべきその怪異を、政府は民間企業へ丸投げした。
千年を超える歴史を誇り、影から国を、世界を守ってきた陰陽寮にとって、これほどの屈辱はない。
苛立たしげに書類を見ていた烏丸の瞳が、ふと、爬虫類のように細められる。
書類をめくる手が止まり、烏丸はしばしその一点を凝視した。
「……姫岸」
「局長?」
「いや、面白いことを考えて、な」
烏丸は書類を閉じ、薄く笑った。
それは部下たちがよく知る——獲物を見つけた時の笑みだった。
「追跡班には、引き続き監視を継続させてください。ただし、深追いはしないように、と」
「は……? しかし、それでは——」
「暁灯を追い詰めるだけが、回収の手段ではあるまい」
烏丸は湯呑みを置き、煙草に手を伸ばした。
「搦め手というものを、教えてあげましょう」
————————
真白さんの愛車は、年季の入った黒のワゴン車だった。中古で買ったものらしい。
残念ながら、牛車ではなかった。陰陽師といえば牛車のイメージは裏切られた。落胆半分、安心半分だ。
後部座席に暁灯くんと並んで座った私は、窓の外を流れる夕暮れの街並みを横目で眺めながら、スマホを三台同時に操る。
「アカネさん、お疲れ様です、咲希です。臨時の同行者登録をお願いしたいのですが、二名分、本日中に処理していただくことは可能でしょうか」
『咲希様、お疲れ様です。本日中、ですか? さすがにそれは——』
「スカウト枠での処理を考えています。書類は今からお送りしますので、ご確認いただけますか。……急なお願いで申し訳ないのですが、一時間以内に承認いただけると大変助かります」
『一時間……。かしこまりました。緊急事態、というわけですね。咲希様の推薦であれば、上にも話を通しやすいです』
「ありがとうございます! よろしくお願いいたします」
通話を切ると同時に、別のスマホで書いていたメールの送信ボタンを押す。
三台目では、探索者組合の申請フォームを開いていた。
「——真白さん、次の信号を左。そのまま三つ目の橋を渡るまでとりあえず直進でお願いします!」
「はいはい、了解ー」
真白さんが、軽くハンドルを切る。カーナビなんて上等なものはない。道案内も私の仕事だ。
「暁灯くん、これ」
私は三台目のスマホを暁灯くんに渡す。
「同行者申請のフォーム。悪いけど、暁灯くんと真白さん、二人分の個人情報を入力してもらえる? 名前、生年月日、住所、身長、体重に、緊急連絡先とかそういうのね」
「……わかった」
暁灯くんがスマホを受け取り、画面を見つめる。
そして、固まったまま停止した。
「……これ、どこに打てばいい?」
「え? その白い枠のところをタップして——」
「……タップ」
「……指で軽く触る」
暁灯くんがゆっくりと画面に触れた。入力欄がアクティブとなり、日本語のキーボードが表示される。
彼は、一文字一文字、人差し指でゆっくりと入力し始めた。
「……暁灯くん、もしかしてスマホ苦手?」
「陰陽寮にいた頃は、こういうのは全部、紙の書類だったからな。筆と墨なら、簡単にできるんだが」
「へえ、流石は昔から続く組織なんだね」
「騙されちゃ駄目だよ、咲希ちゃん」
運転席から、真白さんの笑い声が飛んできた。
「陰陽寮にだって、普通にデジタル化の波は来てるからね。報告書だってパソコンで作るし、連絡もメールでやり取りしてたの。ただ暁灯がそういうの全部サボって、私に押し付けてただけ」
「えぇ……」
「こいつ、術の才能はあるくせに、事務仕事になると急に『俺は現場向きだから』とか言い出すんだよ。そういうのはジジィになってからやれってんだよね」
暁灯くんが、ばつが悪そうに目を逸らした。
組織を捨ててまで千歳ちゃんを守ると決めた人と、同一人物とは思えない。
「運転中じゃなければ、私がやってもいいんだけどねえ」
「真白さんは得意なんですね、そういうの」
「得意だよー。暁灯の尻拭いしてるうちに覚えちゃった」
真白さんが肩をすくめる気配がした。
「それに、千歳と一緒に動画見たり、ネットで調べ物したりもするしねぇ。あの子、ダンジョン関連の情報収集に熱心でさ。『真白、これ見て!』『真白、ここ開いて!』って」
なるほど。暁灯くんの尻拭いと、千歳ちゃんとの時間。両方で鍛えられたわけか。
外に出られない千歳ちゃんにとって、ネットが世界との窓口になっているのだろう。そして真白さんは、その手伝いをしているうちに自然と詳しくなった。
一方、暁灯くんは——サボっていたわけだ。
「——漢字の変換って、どうやるんだ」
暁灯くんの困り果てた声が聞こえた。
画面を覗き込むと、『よいまち』が『酔い街』になっていた。私は未成年だからわからないけど、多分、こんな居酒屋もありそうだ。
「ここを押して、候補から選んで。……ああもう、貸して」
結局、私が片手で必要書類を揃えながら、もう片方の手で入力を手伝う羽目になった。
「……すまない」
「いいよ。でも、これを機にスマホの使い方くらい覚えてね」
借りてきた猫のようになっている暁灯くんを横目で見ながら、彼の言葉を入力していく。
身長一七六センチか。流石は男の子。高いねえ。
「……善処する」
「善処じゃなくて、覚えると…… そうだ! スマホ自体は持ってるんだよね?」
暁灯くんが頷き、ポケットからスマホを取り出す。
二割を切った電池残量に「充電しろ」との言葉を噛み殺し、近距離通信でURLを送信した。
彼のスマホ画面に、ピコンというデフォルトの受信音と共に、メッセージが表示される。
「ライン招待……?」
「そそ。ラインは分かるでしょ? 私の連絡先を送ったから、友だち追加しておいてよ」
「分かった。アプリを追加しておこう」
「暁灯、私や千歳と会話しているアプリ、あれがラインだよ。フレンド登録だけすればOKだ」
真白さんが、バックミラー越しにくっくっと笑っていた。
彼のスマホを借り受けると、なるほど、ホーム画面のほぼ全体が、緑色のアイコン一つで占められていた。要するに、極限まで大きく表示されたラインアプリのアイコンだ。
これを押せば対話できるとなると、確かにアプリ名は覚えないのかもしれない。
「スマホ持ったの自体が二ヶ月前だからな」
お、言い訳だ。
なるほど、確かに彼のスマホにはライン以外、ほぼ何も入っていなかった。だからこそ、気軽に私に渡せたのかもしれない。
「今までは、千歳や真白とは念話で話せたから、必要なかったんだ」
ピコン、とデフォルトの受信音を立てて、暁灯くんのラインがメッセージを受信する。
私は慌てて目を逸らして、スマホを彼に返した。
「千歳が目を覚ましたらしい。何か食べるものがないか、聞いている」
「レンジの中に親子丼が入っているから、チンして食べろって伝えておいて。ああ、冷蔵庫の牛丼には手を出すな、とも」
「分かった」
暁灯くんは短く返事をして、スマホの画面に向き直った。
たどたどしい指つきで何度か文字を打ち直し、やがて送信ボタンを押す。
『牛丼には手を出すな』という、なんだかスルーしてはならない気がする台詞が聞こえたが、一旦置いておくことにする。
それきり、暁灯くんの口数は目に見えて減った。
スマホを握ったまま窓の外を眺めているように見えたが、よく見ると、瞼が半分ほど落ちている。
「……眠いなら、少し寝てもいいよ?」
「いや、起きてる」
返事だけは即座に返ってきた。
だが、その声には普段の張りがなかった。
真白さんがバックミラー越しにくすりと笑う。
「千歳の無事が分かったから、糸が切れかけてるんだよ。放っておけばそのうち落ちる」
「落ちない」
「はいはい」
それから、車内にはしばらく、タイヤが路面を拾う音だけが続いた。
書類は送った。申請も動いた。千歳ちゃんの無事も分かった。
ひとまず、今この場でできることはなくなった。
「さて、そろそろ到着だよ」
進行方向の先に、大きな建物が見えた。
スポーツの競技場を倍にしたくらいだろうか。縦にも横にも大きな建造物が、夕方にもかかわらず煌々と明かりに照らされて、異様な雰囲気を醸し出している。
更に近づくと、工事の騒音が色んな場所から鳴り響き、鉄製の骨組みに張られた白いビニールがはためいていた。
工事用の車両やスーツの人々、巨大なカメラを手にしたマスコミ、それに研究者らしき白衣の人たちといった様々な面々が、忙しなく歩き回っている。
これこそが、二ヶ月前に世界を襲ったダンジョン災害の、現在の姿だ。
今なおギュウギュウ詰めの駐車場を尻目に、私たちのワゴンは直接建物の一角へ向かう。
予め待っていたのだろう。ガレージのようなシャッターが大きな音を立てて開き、私たちを迎え入れてくれた。
「ようこそ、第七東京ダンジョンへ!」




