第九話_嵐の前の静けさ
京の闇を支配する「慈眼の五入道」。
その最奥、決して陽の光が届かぬ禁域の広間に、鈍い蝋燭の炎がゆらめいていた。
そこに鎮座する首領・油麻呂の周囲には、耐え難いほどの重圧が漂っている。
それは、ただの威圧感ではない。
まるで、この世の理そのものが彼の機嫌を伺っているかのような、得体の知れない不気味さだった。
「――報告せよ」
油麻呂の細い唇から漏れた声は、静寂を切り裂くナイフのように鋭く、冷たかった。
彼の前に跪いているのは、残された二つの寺、怒眼寺と楽眼寺の法師たちだ。
彼らは冷や汗を流し、震える声でその報告を告げる。
「喜眼寺と哀眼寺…両寺とも壊滅いたしました。哀眼寺に至っては僧兵、信者、法師に至るまで、全滅…。」
油麻呂の瞳が、薄く開かれた。
その眼球は白濁しており、何を見ているのか定かではないが、法師たちは魂まで見透かされているような錯覚に陥り、顔を地面に擦り付けた。
「犯人は?」
「それが、たった二人の若い男女だと…。」
瞬間、広間の空気が沸騰した。
油麻呂が玉座の肘掛けに置いた指先が、石の如き硬度を持つはずの装飾を、まるで泥のように押し潰して歪ませたのだ。
「たった二人…?二つの寺を、二匹の虫けらが…。」
彼の怒りは、咆哮となって爆発することはなかった。
代わりに、広間全体が押し潰されるような、重く湿った殺気が充満する。
彼は玉座からゆっくりと立ち上がると、法師たちを見下ろした。
その姿は、この世の生物というよりは、古びた土人形のようにも見えた。
「必ず見つけ出し、血祭りに上げろ。さもなくば、お前たち自身の首を、我がコレクションに加えることになろう。」
法師たちが歓喜して「殺害の許可」を求めようとした時、油麻呂はかぶりを振った。
「いや、殺すな。」
その言葉は、慈悲ではない。
より凄惨な命令だった。
「…私の前に生きて連れてこい。神にも等しいこの私に牙を向く不届き者ども。死などという、楽な救いを与えてなるものか。死を越える苦痛と絶望を…骨の髄まで味わせてやらねば、私の怒りは静まらぬわ。」
油麻呂が不気味に笑った。
その顔は、泣いているのか笑っているのか判別できないほど歪んでいる。
彼にとって、人命とはただの粘土細工に過ぎないのだ。
「探し出せ。何としても、だ。」
その声は部屋の隅々まで染み渡り、法師たちの背骨を凍りつかせた。
◇◇◇
一方、京の片隅にある隠れ宿。
凛は、窓から差し込む一筋の光を遮るように寝台に寝転がり、大きくため息をついた。
「つまんない!」
「それは贅沢な悩みですね。」
清十郎は床に座り、淡々と愛刀の刃の手入れをしている。
凛が退屈で死にそうな顔をしているのに対し、彼は相変わらずの凪いだ表情だ。
「だってしょうがないでしょ。街中、あそこの僧侶たちが血眼になって私たちを探し回ってるのよ? 昼間っからお散歩もできないなんて、牢屋に閉じ込められてるのと変わらないわ。」
「まあ、派手にやりすぎましたかね。寺を二つも消せば、多少は騒ぎにもなりますよ。」
清十郎がのほほんと言う。
凛はむくれながらも、彼が少しだけ悪戯っぽく笑ったのを見逃さなかった。
彼らにとって、寺を壊滅させることなど些細な「仕事」の範疇に過ぎないのだ。
とはいえ、自由を奪われるのは凛の性格に合わない。
二人の間には、緊張感とまったりとした空気が奇妙に混ざり合っている。
そこに、障子を軽く叩く音がした。
「…誰かしら。」
凛が警戒心ゼロの足取りで障子を開けると、そこには風のように姿を消した密偵の姿と、一通の手紙が置かれていた。
凛はそれを手に取り、さらりと目を通す。
「…あら。」
「良い便りですか?」
「石田さんから。…この退屈も今日明日で終わりそう。」
凛は手紙を清十郎の方へ投げるように渡した。
清十郎はそれを広げ、穏やかな顔のまま内容を飲み込む。
「義彦さんと義吉さんが到着、ですか。しかも今日にも。」
「あの二人を京に向かわせるなんて、石田さんも慎重ね。」
凛は退屈そうな表情を消し、嗜虐的な笑みを浮かべた。
『左足の義吉』と『蝋人形の義彦』。
その名は、裏社会でも「関われば最後」と恐れられる存在だ。
「ねえ清くん。私たちがこの部屋でくすぶっている間に、残りの怒眼寺と楽眼寺、壊滅させられちゃうかもしれないわね。」
「僕たちの獲物を横取りされるのは少し残念ですが…お二人もせっかくの京観光ですから、楽しんでくれればいいですね。」
京の街の至る所で、僧侶たちが血眼になって二人を探している。
だが、彼らが今最も警戒すべき存在は、すぐそこまで迫っている別の二人なのかもしれない。
「あの二人、参拝前にここに寄ってくれるかしら?」
「先に済ませてしまうんじゃないですかね。逆の立場だったら僕だってそうしますし。」
清十郎の言葉に「確かにね」と笑う凛。
二人のいる部屋には、引き続きまったりとした時間が流れ始めたが、京には新たな嵐が吹き荒れようとしていた。




