第五話_喜狂の終焉
地下工房から戻った凛は、朱色の袈裟を纏ったまま、すでに熱狂の渦と化している本堂へと足を踏み入れた。
彼女はあらかじめ、地下の監督役に「今夜は特別に、いつもより強い香を焚け」と厳命してある。
その狙い通り、広間に立ち込める『喜楽香』の紫煙は、もはや向こう側が見えぬほど濃く、甘く、人々の理性を溶かしていた。
「うははははっ!今宵の祭りはいつもより愉快じゃ!!喜びが満ちておるっ!!」
本堂の正面、一段高くなった上座には、豪華な法衣を纏った喜眼法師がどっしりと鎮座し、声を荒らげている。
その足元の広間では、数人の女たちが香の毒気に当てられ、だらしなく身体をくねらせて踊っていた。
凛は広間の隅に立ち、朱色の袈裟で身を隠しながら、冷めた瞳でその光景を観察する。
信者も要人も、もはや人としての形を保っていない。
そこへ、先ほど地下の秘密通路を教えてくれた恰幅の良い男幹部が、酒杯を片手に千鳥足で近づいてきた。
「おお、新顔の!案の定ここへ来ていたか。どうだ、この盛り上がりは!法師様もご機嫌だぞ!」
男は凛の肩を叩こうとして、そのあまりの美しさに改めて息を呑む。
「…しかし、あそこで踊っている泥女どもに比べ、お前は格が違いすぎる。どうだ、法師様への挨拶代わりに、お前のその見事な身体で一舞い披露してみせろ。お前なら、今夜の主役を奪えるぞ!」
男幹部は下卑た笑いを浮かべ、凛を広間の中央へと押し出した。
凛は「…ふふ、そうね。せっかくの祝祭だもの」と小さく囁き、ゆっくりと扇を広げた。
凛が、踊る女たちの中心へと割り込む。
彼女の舞が始まった瞬間、空気の震えが変わった。
指先一つ、足運び一つに、研ぎ澄まされた刃のような鋭さと、男の魂を吸い寄せるような色香が宿っている。
翻る朱の袈裟が、濃密な煙を切り裂く。
その絶世の美貌と、見る者を異界へ誘うような見事な舞に、本堂の喧騒がふっと静まり返った。
「…ほう。」
一段高い場所から見下ろしていた喜眼法師の瞳に、ギラついた欲望が灯った。
彼は身を乗り出し、喉を鳴らしながら凛を指差す。
「見事だ。これほどの逸材、今までどこに隠しておったのだ。おい、そこの女!近くへ来い。その舞、余の目の前で披露せよ!」
凛は冷たい笑みを唇の端に湛えたまま、一歩、また一歩と、法師が待つ高座への階段を上がっていく。
法師は近づいてくる凛の圧倒的な美しさにすっかり毒され、自身の手で彼女を引き寄せようと腕を伸ばした。
「さあ、余の隣へ…。今夜はお前のために、さらなる悦楽を――」
法師が凛の腰に手を回そうとした、その瞬間だった。
凛の袖の中から、月光を反射したような銀の閃光が走った。
「ええ、極上の悦楽をあげるわ。」
肉を裂く、鈍く重い音が響く。
凛の小刀は、喜眼法師の喉笛を深々と、そして正確に貫いていた。
「あ、が…っ…。」
法師は驚愕に目を見開いたが、声を出すことさえ叶わない。
凛は至近距離で、もがく男の耳元に死の宣告を囁いた。
「よかったわね。いつもより強いお香のおかげで、痛みも『喜び』に変わるでしょう?」
法師の巨体が、崩れるように椅子から転げ落ちる。
鮮血が豪華な床を汚していくが、一段下の広間にいる信者や要人たちは、それさえも「祭りの余興」としてしか捉えていなかった。
「おお…!なんという素晴らしい演出だ!」
「法師様が血の雨の中で踊っていらっしゃるぞ!ありがたや、ありがたや!」
異常な濃度の喜楽香に脳を焼かれた人々は、主の死を祝福の儀式だと思い込み、狂ったように笑い、手を叩き、涙を流して踊り続ける。
広間の隅で凛を焚きつけた男幹部さえも、法師の死を喜びとして受け取り、涎を垂らして拍手を送っていた。
目の前で繰り広げられる地獄絵図を、凛は血に濡れた小刀を拭いながら、蔑むような冷徹な瞳で見下ろした。
本堂を満たす狂乱の歓声。
その中心で、自身の欲望に溺れたまま、物言わぬ肉塊へと成り果てた喜眼法師。
「これも幸せの形…なのかしら?」
凛は冷ややかな笑みを浮かべると、狂乱の信者たちを尻目に闇の中へと消えていった。
祭りはまだ続いている。
…この寺が、自らの毒で自滅するその時まで。




