花火大会(2)
ーーそして花火大会当日になった。
父が自転車のライトを直してくれたのは
正直、予想外だった。
ホームセンターで買ったと思しき真新しいライトがちょっと古くなった自転車に取り付けられている。
「暗くなったらスイッチを押して点けるようにね。帰ったらお父さんにお礼言うのよ」
「うん、わかった」
「お小遣いは、足りそう?」
「うん」
結奈は自転車に跨ってペダルに足をかけた。
「いってらっしゃい」
「いってきます」
久しぶりのやり取りに心が少しくすぐったい気持ちになる。
自転車に乗ることも久しぶりで
乗れなくなっているんじゃないかと内心不安だったが、全然平気だった。
夏の夕暮れを横目に結奈は自転車を漕ぐ。
漕いでいるうちに足が重くなっていく。
家にいるばかりできっと運動不足だ。
疲労を紛らわすために結奈は大きく息を吸ってみた。
そして、風の匂いを嗅いだ。
夏芽と出会ったときよりもムワッとした盛夏の風。
『風は通り過ぎる』
夏芽よりも大人びた声がした。弥葉だ。
『結奈が輝いて前へ進むほどに
風は素早く通り過ぎる。
自転車に乗って風を切るみたいにして』
(夏芽も、言ってた。止まっていたらぐるぐる回る。でも歩き出したら通り過ぎる)
『それ、私が夏芽に教えたの』
(弥葉は夏芽の友達?)
『違うよ。ーー』
大通りに差し掛かり、喧騒が近づいてきてその後の言葉をうまく聞き取ることはできなかった。
ようやく夜の帳が降り始めたころ、
結奈は花火大会会場の土手に辿り着いた。
自転車は近隣の駐輪場に停めて
なるべく人の顔を見ないようにして息を殺すようにして歩いていた。
『結奈、それだめ。堂々と歩こう』
弥葉が訴える。
しかし、それに取り合う余裕は結奈にはなかった。
人でごった返す会場。
屋台に並ぶ人の列。
ビールを片手に談笑する大学生と思しき男性たち。
浴衣で集まりセルフィを撮る女子高生たち。
屋台からはおじさんのいらっしゃいませー!がひっきりなしに聞こえてる。
ざわめきが結奈の心を乱していく。
夢のように何を買おうかと考える余裕すらなかった。
とにかく結奈の頭は混乱していた。
人の目が怖い。
私を見ないで。
私もみんなを見ないから。
自分を落ち着かせようにも
嫌な汗が止まらない。
…とにかく人のいないところに行かなくちゃ!
踵を返そうとして人にぶつかった。
謝らないと、と顔を上げた結奈は、しかし、動けなかった。
深めの二重瞼、浅黒い肌。
ナチュラルではない茶髪の髪。
結奈は背筋に怖気が走るのを感じた。
フラッシュバック。記憶が蘇る。
中1の時だった。
部活中に突如目が見えなくなった。いや、見えてはいたが人の顔が認識できなくなり、
次第に視野が欠け始めた。
結奈はふらくつ足で教室に向かった。
先生に症状を訴えたけど、取り合ってもらえなかった。
それで、頭が痛くなって…視界がチカチカして、目も開けられなくて
それで。
みんなの前で吐いてしまった。
その後のことはよく覚えていない。
数日後、結奈は学校のトイレでこの…黒川に言われた。
「あ、ゲロ女だ」と。
その張本人は、結奈を見て一瞬瞠目していた。
そしてすぐ乾いた笑みを貼り付けた。
「ゲロ女がいる~」
ヒュッと喉の奥が鳴った気がした。
弥葉の声が背後から聞こえる。
『いいじゃん、具合が悪けりゃ、誰だって出る。そういう身体の仕組み。自然の摂理。』
(それは、そうだけど…)
弥葉が言っていることは多分、正しい。
でもそれ以上に
結奈は自分がしでかした失敗に対して劣等感を抱いていた。
私は汚い女。みんながいる前で吐いた。
泥だって入れられて当然だから。
『駄目。それは結びつかない。結奈は汚くなんかない』
「黒川?何言ってんの?」
「ゆなな超久しぶりやん!元気?」
「細くない?ご飯食べてるー?」
彼女の友人のギャルたちが結奈に声をかけてくれるが結奈は何も言えない。
結奈は胸が締めつけられる。
言い返したい。でも声が出ない。
胸の奥が凍りつく。
逃げたい。
消えたい。
あの日と同じだ。
そのとき、胸の奥で弥葉が囁いた。
今度は背後からじゃなかった。
『結奈』
鼓動がひとつ鳴る。
『思い出して』
脳裏に浮かぶ。
図書館。風。あの一節。
___怪物と戦う者は、自分が怪物にならぬよう気をつけねばならない。
怒鳴り返したい。
傷つけ返したい。
同じだけ惨めにしてやりたい。
けれど――違う。
それは間違っている。
結奈はゆっくり顔を上げた。
「……ねえ、黒川さん」
黒川が眉をひそめる。
「あなたは、一度も具合悪くなったことないの?」
周囲が静まる。
「吐いたこと、一度もないの?」
花火が上がる。
赤い光が黒川の顔を照らした。
黒川は答えられない。
結奈は続けた。泣きそうだけど、それでも構わない。
「私…私は、その、す、好きで吐いたんじゃないんだ。あの時……
あの時、気持ち悪くて、苦しかっただけだよ」
声は震えていた。
けれど、まっすぐだった。
「それをゲロ女って……
笑われることじゃ、なかった」
沈黙。
胸の奥で弥葉が笑う。
『それでいい』
『怪物にならなかったね』
ドンッと大きな音が響いた。
夜空に大きな花火が開いた。
結奈は初めて、
もともと自分の中にあった力が戻ってくるのを感じた。
「じゃ、私行くね…」
結奈は黒川から顔を背け、走った。
露店通りに溢れていた人は河川敷に集まっていた。
みんな花火に夢中だった。
ぶつかる心配がないから思い切り走った。
走って、走って、
黒川たちとだいぶ離れたところの河辺にたどり着いた。
花火は涙で滲んでよく見えなかった。
でもなぜか
人生で一番キレイな花火を見た気がした。
「夏芽、ありがと」
結奈は懸命に涙を拭った。
それでも涙は止まらなかった。
「弥葉も…ありがとう」
風は、ただ、通り過ぎた。
言った方は忘れているかもしれない
けれど言われたほうは憶えている
何気なく悪気なく言ったのかもしれない
その人だって大変な人生を歩んでいるのかも
当時の私はそんなふうには思えなかった
でも今わかるのは、彼女は確実に幸せではなかったんだなと
それでも理不尽を許すことはできない




