はじまりの風(2)
結奈がなつめを伴ってやってきた公園は
図書館も併設している大きな施設で
市の公民館としても人々に親しまれている場所だ。
結奈も小さい頃は母とよくここに遊びに来ていた。
大きくなってからは主に図書館を利用しているが学校に行けなくなってからはめっきり足が遠のいていた。
なつめは嬉しそうに初夏の風が吹き渡る公園へ駆け出していった。
「ママにお花、いっぱい摘むんだ〜!」
その声が風に溶けて、遠くに消えていく。
結奈は、その背中を見つめながら胸の奥でうずくものを感じていた。
怒り、憎しみ、それから外側の世界に対する恐れ。
あの出来事がなければ、私はこうならなかったのに…。
あの日の記憶が、今も胸の奥で燃え残りのように燻っている。
風が吹いているあいだは、まだ平気だった。
けれど、陽の下に立つと、光が肌を細かく刺すように感じた。
「……日焼け止め、忘れたかも」
鞄の中のポーチを探るが、指先は別のものをなぞるだけだった。
まだ、汗ばむほどではない。けれど、まとわりつくような空気が、胸の奥をざわつかせる。
どこかで誰かが草を刈っている匂いがして、遠くの風鈴の音がかすかに聞こえた。
それらの音がなぜかやけに近く聞こえて、心のなかの何かをそっと掻き立てた。
「……図書館、行こ」
独り言のように呟いて、歩き出す。
久しぶりの外出には、やっぱり勇気が必要だった。
隣の図書館の自動ドアが開くと、ひんやりとした空気が迎えてくれた。
冷たくはない。ただ、外より静かで、少しだけ安心できる匂いがした。
⸻
中は静まり返っていた。
ページをめくる音と、遠くで椅子が擦れる気配だけが漂っている。
窓の外では、風が木の葉をすべらせていた。
そのやわらかな揺れを、結奈は胸の奥で感じていた。
結奈は本棚の間を歩きながら、息を整える。
本は最近全然読んでいなかった。
漫画でさえ、買いに行っていないから気になっていた作品からどんどん置いていかれている。
子どもの頃読んだ作品を少し思い出していると
母が春頃に渡してくれた一冊の本を思い出した。
なんだっけ、あの本…。
なんだかとても哲学じみた本でたいして読まずにほっぽり投げてしまった。
その本を思い出そうと本棚を眺めていた。
その時、視界の端に人影が映った。
白いTシャツ、髪を後ろで結んだ横顔。
見たことがあった。
──莉子。
「ッ」
どうして。なんで。
よりによってあいつが…。
胸の奥で、押し込めていた憎しみが怒涛のように湧き上がる。
あの日の泥の匂い、汚れた母お手製の赤い道具袋。莉子の常軌を逸した行動、それを理解できず、ただ混乱したあの日のことを、今も思い出す。
復讐心が、身体の奥で熱を帯びる。
逃げたい――!
結奈はとっさに莉子から背を向けた。
でも、足は固まる。手が震える。
その瞬間、背後から声がした。
『どうしたの?』
振り返ると、なつめが立っていた。
まるで風のように、穏やかにそこにいた。
「……なつめ、どこから来たの?」
「風といっしょに来たよ。
結奈ちゃんが助けてって泣いてるんだもん」
無邪気に笑うその顔は、現実を揺さぶる光のようだった。
「泣いて、ないよ」
結奈は手で頬を撫でたが濡れてなかった。
「うん。泣いてないけど、心が泣いているよ。私にはわかるの」
なつめが何を言っているのか、結奈にはわからなかった。
なつめは再度聞いてきた。
どうしたの?と。
結奈は一瞬の逡巡の後、答えた。
「えっと…知ってる子がいたの。……嫌な子」
「嫌な子?」
「うん。小学校のとき、私のお道具袋に泥を入れたんだ。他にも色々…物を取られたりしたの。
」
なつめは少し首を傾げて結奈を見つめた。
「その子、まだ結奈ちゃんの中にいるんだね」
「……え?」
「今はその子と距離とってるけど。頭では終わりにしているでしょ。
でも、つもりになってるよ。それ。結奈ちゃんは心の中で、いまだにあの日を生きてるね」
結奈は息を詰めた。
怒りが胸に渦巻き、手のひらが震える。
「許せなくて…」
吐露した言葉は音になっているのだろうか。
果たして、それがなつめに届いたかは結奈にはわからない。
なつめの表情は結奈が受けた理不尽を怒っているわけでもない。
しかし、そんなのは、過去のことだろうと笑っているわけでもなかった。
ただ、穏やかな風のような表情をしていた。
彼女は何も断定せず、ただ風のように言葉を置く。
「ねぇ、風ってね、止まってる人のまわりをぐるぐる回るんだって」
「……風?」
「うん。逃げても追いかけてくる。でも、歩き出したら通りすぎるの。だからだいじょうぶだよ」
その言葉が、胸の奥で何かをほどいていった。
結奈は、自分のなかに溜まっていた熱に気づく。
それは憎しみの炎だった。
けれど、その熱はもう、誰かを焼くためのものじゃない。
自分をあたため、生かすためのものだ。
「あっ」
本の記憶が、ふと浮かんだ。
さっきまで思い出そうとして思い出せなかった本。
――『怪物と戦う者は、自分が怪物にならないよう気をつけねばならない』。
ページの一行が、今になってやっと意味を持つ。
怒りも、悲しみも、いつかはすべてが風のように通り抜けていく。
すべては幻影のようなものなのかもしれない。
その幻影に人は翻弄されて泣いたり、苦しんだり、憎み合ったりしている。
誰かが前に結奈に言った。誰だっただろうか。
「そういう後ろ向きなことってさ、風邪みたいなもんだよね。そのうち治るよ。だから……」
結奈の考えていることがわかったのか
なつめが笑って頷いた。
そうか
怪物になるというのは、幻影に飲まれて
自分も相手を陥れたり、蔑んだりすることなんだ…。
大事なのは幻影に囚われず
風が通り過ぎるかのごとく気に留めないことだ。
「……堂々として、前に進もう」
結奈は呟いた。
なつめは両手を腰に当てて胸を張る。
「結奈ちゃん、だいじょうぶだよ〜」
結奈の胸の奥で、風が動いた。
止まっていた時間が、ゆっくりと流れ出す。
本棚に戻り、指で背表紙をなぞる。
ページをめくる手が、今までより確かにしっかりしている。
もう、手は震えない。
すると、背後から声がした。
「……結奈?」
ゆっくりと振り向くと、莉子が立っていた。
彼女の柔らかい笑顔の奥に、まだ冷たさが潜む。
「やっぱり、そうだよね。ひさしぶり」
「……うん」
結奈は莉子の目を見て答えた。
「元気?最近、見かけないから」
「うん、まあ」
莉子の唇がわずかに動いた。
それが笑みなのか、そう見えるだけなのか――
結奈にはわからなかった。
けれど、もう確かめる必要はなかった。
短い会話の後、莉子は軽く手を振り、去っていった。
「はぁあ…」
結奈は小さく息を吐いた。
憎しみはまだ胸にあるけれど、
それを抱えたまま堂々と歩くことができる。
私にはその力がまだある。
なつめの言葉が、それを教えてくれた。
「ね、言ったでしょ」
なつめが花を抱えて立っていた。
「うん……風、通りすぎた」
「そう。結奈ちゃんが、動いたからだよ」
結奈は小さく笑った。
ほんの少し、涙に似た感覚が胸を満たした。
外に出ると、風が頬を撫でた。
なにかが変わるそんな予感がした。
風は優しくふたりを包んだ。
___
結奈が家に帰ると玄関の灯の下にふたつの影が見えた。
母は心配そうに両手を胸の前で組み、父は何度も腕時計を見ながら落ち着かない様子だった。
お母さん、お父さん
と結奈が呼ぶ前に父が結奈に気づいた。
「結奈、どこに行っていたんだ?!」
声が上ずっていた。怒鳴り声というより、焦りに押しつぶされたような響きだった。
父は思わず結奈の腕を掴む。
「ご、ごめんなさい……図書館に行ってただけ」
腕を引かれた拍子に足がもつれて、結奈は玄関の段差に手をついた。
「お父さん、ちょっと。手を離して。近所に聞こえる」
母の声はやわらかいが、芯があった。
父は「携帯くらい持っていけ」とだけ言い残して、靴を鳴らして家の中へ引っ込んだ。
母は結奈の肩を支え、袖についた埃をそっと払った。
「お父さん、すっごく心配してたのよ。仕事から帰ってきたら結奈がいなくてね。お母さんにも電話してきて、警察を呼ぶとか言い出して……。言い方はちょっと強いけど、見たでしょ?スーツのままで」
母は、ほっとしたように小さく笑った。
「携帯、部屋に置いて出てきちゃった。あれ…?みっちゃんは?」
「大丈夫。茂叔父さんが代わってくれたの。しばらくは家にいられるよ」
母の言葉に、結奈はほっとして頬をゆるめた。
「あ……ご飯、炊くの忘れちゃった」
「いいよ。それより、久しぶりのお出かけはどうだった?」
「風が気持ちよかった。あ、そうだお母さん。紹介したい友達がいるんだけど…」
結奈は振り返った。
だが、
「あれ?なつめ…?」
そこになつめの姿はどこにもなかった。




