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先生の手は煩わせません~夏休みの宅配弁当

 児童館(じどうかん)とは、児童福祉法(じどうふくしほう)第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設(じどうふくししせつ)である。

 専門の職員・・・児童厚生員(じどうこうせいいん)が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。

 また、施設によっては学童保育(がくどうほいく)(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。

 これは、そんな場所でのある日の出来事である。




 夏休みを目前に控えた7月上旬。

 既に25℃を越える日が毎日のように続き、照り返しの強い日差しが園庭を白く染め、児童館の窓ガラスには青空がまぶしく映っていた。


 館内では、宿題を終えた子供達がカードゲームを囲み、廊下では鬼ごっこを始めようとする声が響く。

「匠(たくみ)せんせー! 見て見て!」

「一緒に鬼ごっこする~ぅ?」

「あとでなー。廊下は走るの禁止!」

 匠が笑いながら注意すると、子供達は「はーい」と返事だけは元気よく、結局は走って行ってしまう。


 毎年、この時期になると児童館の空気が変わる。4月に入ってきた1年生も少しは成長して、馴染んでくるからだ。高学年からは、お兄ちゃんお姉ちゃんらしくなる子も出てくる。

 そして夏休みが始まれば、朝8時から、遅い子で夜7時。一日中子供達と過ごす日々になる。更にはフライングで朝7時半頃から来る子達までいる。

 楽しい反面、職員の仕事量も一気に増える季節だった。



 玄関で帰宅する子供を見送っていると、一人の保護者が少し申し訳なさそうな表情で近づいてきた。

「匠先生、少しいいですか?」

「はい。どうされました?」

 保護者は周囲を気にするように視線を巡らせてから、小さく笑った。


「今年の夏休みって、ここって、お弁当の宅配はやらないんですか?」


「宅配ですか?」

 思わず聞き返す。

「ええ。最近は学童でも増えてるって聞いて」

 保護者はスマホを取り出し、画面を見せながら続けた。

「この前、知り合いのお母さんから教えてもらったんです。スマホで注文して、お昼に届けてもらえるサービスがあるらしくて」


 匠は画面をのぞき込んだ。

 色鮮やかな弁当の写真が並び、「栄養バランス」「日替わりメニュー」といった文字が目に入る。

 便利そうではあるな・・・。

 共働き家庭が増えている昨今、朝の弁当作りがどれほど大変かは、少しはわかっているつもりだ。実際、毎朝眠そうな顔で子供を送り届ける保護者を何人も見てきている。


「もし学童で利用できたら、本当に助かる家庭、多いと思うんですよ」


 その言葉には切実さがあった。

 匠は軽く頷く。

「なるほど・・・」

 保護者は更に続けた。


「先生方のお仕事も増えないみたいですよ」


「そうなんですか?」

「はい。注文も支払いも、それぞれの保護者が自分でスマホでやるんです。先生は何もしなくていいって聞きました」


 何もしなくていい。その言葉だけが、不思議と耳に残る。本当にそんな事あるのかな。

 仕事柄、その手の説明を何度も聞いてきた。

『簡単です』

『負担はありません』

『すぐ終わります』

 そう言われて始めた仕事が、本当に簡単だった試しはあまりない。


 それでも、目の前のお母さんが悪気なく話している事は伝わってくる。

 毎朝のお弁当作りから解放されたい。

 その気持ちは、ごく自然な願いなのだろう。

 匠は穏やかに笑った。

「ご意見ありがとうございます」

「じゃあ・・・」

「すぐに決められる話ではないので、一度、他の先生達とも相談してみます」

 保護者の表情が少し明るくなる。

「本当ですか?」

「はい。導入するかどうかは分かりませんけど、話は共有します」

「ありがとうございます。助かります」

 深く頭を下げた保護者は、子供の手を引いて帰っていった。

 玄関のドアが静かに閉まる。


 匠はその背中を見送りながら、小さく息をついた。

 保護者にとっては、本当に助かる話なんだろうな。できれば導入したいけど、どうだろうなあ。

 毎朝のお弁当作り。

 夏場の食中毒への心配。

 仕事に向かう前の慌ただしい時間。

 そうした負担が少しでも減るなら、歓迎する人は少なくないはずだ。

 だからこそ、簡単に無理ですと切り捨てる気にはなれなかった。


 けれど・・・先生は何もしなくていい・・・か。児童館の仕事をしていると、そんな言葉ほど信用できないものはない。

 誰かが、手間はありませんと言う仕事ほど、結局は現場に細かな作業が積み重なってくる。見えない家事と同じ構造だ。・・・実体験も含まれる。

 子供を相手にする仕事なら、尚更だった。


 廊下の向こうから「匠せんせー! UNOやろー!」という元気な声が響く。

「はいはい、今行くー」

 笑って返事をしながら歩き出す。

 その胸の奥には、小さな引っ掛かりだけが残っていた。



 午後7時。

 最後の子供を見送り終えた児童館は、昼間とは別の静けさに包まれていた。

 さっきまで館内を満たしていた笑い声は消え、聞こえるのはエアコンの低い唸りと、事務室に響くパソコンの打鍵音だけ。窓の外では、夕暮れ色だった空がゆっくりと夜へ変わり始めている。


 匠は今日の利用記録を入力し終えると、ふと思い出したように顔を上げた。

「そういえば、今日、保護者の方から相談がありました」

 パソコンに向かっていた京子(きょうこ)せんせーが視線を上げる。

「相談?」


「はい。夏休み中のお弁当宅配を導入しないのか、って」

 その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。


 悠子(ゆうこ)せんせーが書類から顔を上げる。

「ああ、その話」

「知ってるんですか?」

「最近、少しずつ増えてるみたいね。ニュースにもなっているわ」

 穏やかな口調で頷きながら、カップに口をつける。

「共働きの家庭も多いし、朝のお弁当作りって本当に大変だから」

 匠も頷いた。

 今日話しかけてきた保護者の表情を思い出す。

 決して無理を押しつけようとしていたわけではない。助かる家庭が多いと思うんです。

 その一言には、生活の切実さが滲んでいた。


 悠子せんせーは静かに続ける。

「保護者からそういう要望があるなら、児童クラブとして一度検討してみてもいいんじゃないかしら」

「確かに」

 匠も素直にそう思った。

 保護者の負担を軽くする事も、児童クラブの役割の一つではある。

 すると、京子せんせーが腕を組んだ。

「私もね」

 少し考えるような間を置いてから話し始める。

「近くの学童が、去年から導入したって聞いた事があるの」

「そうなんですか?」

「ええ」

 京子せんせーは頷いた。

「保護者からの評判は悪くないらしいわ」


 そこまで言ってから、京子せんせーは小さく首を傾げる。

「ただ・・・」

 事務室が少し静かになる。

「毎日、宅配弁当って、本当に栄養面でいいのかしらとは思うのよ」

 匠は少し意外だった。

 運営や費用の話ではなく、最初に出てきたのは子供の健康だった。京子せんせーらしい、と心の中で苦笑する。

「家庭のお弁当なら、それぞれ工夫もできるでしょう?」

「はい」

「宅配弁当も栄養士さんが考えているとは思うけど、それでも毎日頼る前提になるのは少し気になるわね」

 悠子せんせーもゆっくり頷いた。

「その心配は分かるわね」


 匠は2人の話を聞きながら、今日保護者から聞いた説明を思い出した。

「あ、そういえば、」

 3人の視線が集まる。

「保護者の方が言ってたんですけど」

「うん」

「注文も支払いも、それぞれの保護者がスマホからやるそうです」

「スマホ?」

 京子せんせーが聞き返す。


「はい。だから先生たちの手は煩わせないから大丈夫ですよ、って」


 匠がその言葉を口にした瞬間だった。

「ふふっ」

 事務室の隅から、小さな笑い声が聞こえた。

 森(もり)もせんせーだった。帳簿を閉じながら、肩を揺らしている。

「森もせんせー?」

 匠が首を傾げると、森もせんせーは笑いをこらえながら言った。

「いやぁ・・・」

 一度息を整え、いつもののんびりとした笑顔を浮かべる。

「本当に職員の手を煩わせないなら、導入してもいいと思いますよぉ」

 少しだけ言葉を区切る。


「本当に、大丈夫ならねぇ」


 最後の一言だけが、不思議なくらい強調されていた。

 その声音には皮肉も怒りもない。けれど、何かを知っている人間だけが持つ確信が滲んでいる。

 匠は思わず聞き返した。

「・・・何かあったんですか?」

 森もせんせーは苦笑する。

「昨年や一昨年から、」

 視線を机の上に落としたまま、静かに話し始めた。

「近くの学童で、実際に宅配弁当を導入したところは、わたしも幾つか知っていますよぉ」

 京子せんせーと悠子せんせーも、自然と森もせんせーへ視線を向ける。

 事務室には再び静寂が訪れた。


 そして森もせんせーは、当時その学童で働いていた知人から聞いた話を、一つ一つ思い返すように語り始めた。




「その学童も、最初は保護者からすごく喜ばれたそうですよぉ」


 森もせんせーは、聞いた話を思い出すように目を細めた。

「『朝、お弁当を作らなくて済む』『本当に助かる』ってぇ」

 匠も頷く。

 それは今日、自分が聞いた言葉とほとんど同じだった。

「先生達も最初は思ったそうです。『注文も支払いも保護者がやるなら、そんなに負担はないのかなぁ』って」

 森もせんせーはそこで小さく笑う。

「でも、現実は違いましたねぇ」



 夏休み。午前10時。

 まだ昼食には2時間も早い時間だった。


 玄関のドアが開き、配達員が大きな台車を押して入ってくる。

「お弁当、お届けでーす」

 積まれていたのは、大きな段ボール箱。

 1箱ではない。

 2箱、3箱・・・全部で4箱。

「全部で62食になります」

「ありがとうございます」

 受け取った職員は、その瞬間、小さく息を飲んだ。・・・重い。

 日替わり弁当がぎっしり詰まった段ボールは、大人でも両腕でしっかり抱えなければ持ち上がらない重さだった。腰がやられそうだ・・・。


「先生ー!」

「ドッジボールまだー?」

 園庭では遊びの続きを待つ子供達が大声で呼んでいる。


 しかし、その声に応える暇はない。

「ごめん、ちょっと待って!」

 職員は遊びを中断し、2人がかりで段ボールを抱え上げた。

「よいしょ・・・!」

 汗が額を流れる。

 夏の湿った空気の中、重たい箱を抱えて事務室まで何度か往復する。ひっくりかえしたら大変なので、殊更ゆっくりになる。そこへ更に子供達が纏わりつく。段ボールで自分の足元もよく見えない。


「先生ー!」

「まだ遊ぼうよー!」

「すぐ戻るから!」

 それでも子供は待ってくれない。

「えーっ!」

「なんでー!」

 不満そうな声が、廊下中に響いていた。


 ようやく運び終えた頃には、事務室の景色が一変していた。

 弁当は冷房が効いた室内に置く必要がある。食中毒は絶対にダメだ。子供がさわらない、冷房が効いている・・・いろいろな条件を突けると、結局は事務室しか残らなかった。

 そのエアコンの真下には、段ボール箱が2箱ずつ積み上げられている。全部積み上げて、つぶれたり、倒れたりしたら大変だ。


 ただでさえ狭い事務室は、更に人がすれ違えないほど窮屈になっていた。

 コピー機へ行くにも横歩き。

 書類棚も開けづらい。

「ちょっと、ごめん」

「すみません」

 職員同士が身体を避け合いながら歩く。


 その時だった。

「先生ー!」

 一人の女の子が事務室へ飛び込んできた。

「あっ!」

「入ってこないの!」

 慌てて声を上げる。

 しかし勢いは止まらない。

 ゴンッ。

 デスクの角に肩をぶつける音が響いた。

「あいたっ」

「だから危ないって言ったでしょ」

 職員がしゃがみ込み、ぶつけた場所を確認する。

 泣き出すほどではない。

 それでも、積み上がった段ボールのせいで事務室には逃げ場がなく、子供1人でも入り込めば危険だった。



 そして正午。

 昼食の時間。

 職員の1人が段ボールを開け、中から名簿を取り出す。

「じゃあ、名前呼ぶね」

 周囲には、100人近い子供達。

 全員がお腹を空かせている。

「はーい!」

 元気な返事が一斉に返ってきた。

「相川あいこちゃん」

「はーい!」

「伊藤いつきくん。」

「はーい!」

 名前を呼ばれるたび、一人ずつ前へ出て弁当を受け取っていく。


 だが、受け取った子供達は席へ向かわない。

「まだー?」

「早くー!」

「お腹すいたー!」

「先生、まだ?」

「あと何人ー?」


 まだ呼ばれていない子供達まで集まり始め、事務室の前はあっという間に人だかりになった。

 職員は苦笑しながらも、名簿を目で追う。

「加藤かいとくん。」

「はい!」

「久保田くるみちゃん」

「はーい!」


 すると、その列の横から甲高い声が飛んだ。

「きらら、名前呼ばれてない!」

 職員は名簿を見直す。

 一行ずつ確認する。

 もう一度。

 ・・・ない。

「ごめんね。きららちゃんの名前は載ってないよ」

「えっ?」

 少女の顔が曇る。

「だって!」

 唇を尖らせながら叫んだ。

「きらら、お弁当持ってきてないもん!」


 周囲が一瞬静まり返る。

「え?」

「どういう事?」

 職員同士が顔を見合わせる。

 保護者の注文漏れなのか。

 システムの入力ミスなのか。

 配達ミスなのか。

 誰にも分からない。

「ちょっと待ってね」


「いやだ! きららのお弁当~っ」

 少女の目に涙が浮かぶ。

「みんなあるのに!」

「きららだけない!」

 泣き声につられて、周囲の子供達までざわつき始めた。

「どうしたの?」

「お弁当ないの?」

「かわいそう・・・」

「注文忘れた?」

「ママは忘れないもんっ」

 昼食前の静かな時間は、ほんの数分で騒然とした空気へ変わってしまった。


 ようやく全員が食べ終わる頃には、時計の針は1時を回っていた。

 職員は深く息を吐く。

 しかし、仕事は終わらない。

「・・・さて」

 目の前には、食べ終えた弁当容器が山のように積み上がっていた。

 透明なプラスチック容器。

 割り箸。

 輪ゴム。

 醤油の小袋。

 食べ残し。

 それらをまとめるだけで、45リットルのごみ袋が一つ、また一つと膨らんでいく。

 結局・・・3袋。


「すごい量・・・」

 誰かが思わず漏らした。

 しかも夏。

 容器には、ご飯粒やソース、煮物の汁が残っている。

 時間が経つほど、生ぬるい臭いが食事室中に漂い始める。


 以前、一度だけ。

「洗ってから捨てた方がいいんじゃない?」

 そう考え、職員2人で容器を水洗いした事もあった。

 けれど、結果は散々だった。


 洗っている間、子供を見る職員が減る。

 蛇口は何度も流しっぱなしになる。

 気づけば、休憩時間まで削られていた。

「・・・無理だね」

 誰かがぽつりと呟いた。

 それ以来、洗う事はやめた。

 袋いっぱいになったごみは口を固く縛り、駐輪場の脇へ運ぶ。

 昨日のごみ袋の隣に積み上げるしかない。


 真夏の日差しを浴びたごみ袋からは、むっとするような臭気が立ち上っていた。

 1週間後のごみ収集日まで、それはそこに置かれ続ける。およそ15個のごみ袋が。



 森もせんせーは、そこで一旦話を切った。


 匠は無意識に、机の上のボールペンを指先で転がしていた。

 弁当を運ぶ・・・これは毎日自分の仕事になるだろう。

 配る。食べ終わった容器を片づける。それだけでも十分大変そうなのに、まだ何があるのか。聞いているだけで、これ以外にも、まだ他にも細々とした仕事が出てきそうだ。そんな気持ちが、胸の奥にじわりと広がっていく。


 すると、森もせんせーが少し嫌そうに口を開いた。

「・・・更に、その話には続きがあります」

「まだあるの?」

 悠子せんせーが思わず声を漏らす。

 森もせんせーは答えず、ゆっくりと全員を見渡した。


 その視線が、匠のところで一瞬止まる。

「たまたま、その日、お弁当を注文していた子が一人、風邪でお休みだったそうです」

「ああ・・・」

 京子せんせーが小さく頷いた。

「じゃあ、一つ余ったのね」

「そうです」

 森もせんせーは頷いた。

「お弁当が、一つ余る」

 そこで、ほんの少し間を置いた。


「さて。どうしたと思います?」


 匠は考えた。

 余った弁当。食べる予定だった子は休み。そして、昼食を用意できていない子が一人いる。

 ・・・きららちゃん。

 さっき森もせんせーが話していた、注文漏れの子の顔が頭に浮かんだ。


 すると、悠子せんせーがすぐに答えた。

「その、きららちゃんに食べさせてあげれば・・・」

 言葉の途中だった。


 森もせんせーの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。

 匠はそれを見逃さなかった。

 目が、冷えた。

 森もせんせーのいつもののんびりとした雰囲気が一瞬消えた。唇の端が、ごく僅かに上がった。

 笑ったようにも見えた。

 けれど、笑顔ではない。


「・・・わたしなら、反対します」

 静かな声だった。

「え?」

 悠子せんせーが目を瞬かせる。

 森もせんせーは、今度ははっきりと言った。

「悠子せんせーが、その現場で『余っているから食べてもいいよ』と言った瞬間に、問題が発生します。わたしなら絶対に、食べさせません」

 匠の指が止まる。

「絶対?」

「はい」

 森もせんせーは頷いた。


「実際、その学童でも揉めたそうです」


 事務室の空気が、更に重くなる。

「でも、だって・・・」

 悠子せんせーが困ったように眉を寄せる。

「お弁当、一つ余っているんでしょう? だったら、食べるものがない子に・・・」

「その気持ちは分かります」

 森もせんせーは遮らなかった。

「私だって、目の前でお腹を空かせている子がいたら、何とかしてあげたいと思います」

 そこで一度、言葉を切る。


「でも、そのお弁当代は誰が払うんですか?」


 悠子せんせーが何か言いたげに口を開いて、でも悔しそうに一度口を閉じた。

「それは・・・当然、きららちゃんの親御さんが・・・」


「児童館の職員が勝手に食べさせたので、払いません」

 森もせんせーはそう言って、首を傾げた。視線が、ふっと明後日の方向へ向く。まるで、実際に言われた言葉を思い出しているようだった。

「・・・だそうです」


 匠は思わず息を吐いた。

 そういう事か。

 弁当が余っている。

 食べていない子がいる。

 なら、食べさせればいい。

 一見すれば、それで丸く収まる。


 けれど・・・誰が注文したものなのか。誰が代金を払うのか。

 職員が勝手に別の子へ渡していいのか。

 善意で動いた瞬間に、別の問題が生まれる。


 森もせんせーは、淡々と続けた。

「食べられた方の親御さんも、『うちが休んで食べなかったのなら代金を払うのは仕方ないけれど、食べたのなら、その人が払ってください』と」

 そして、ほんの少し肩をすくめる。

「・・・まあ、当然でしょうね」


 誰も反論できなかった。

 匠は机の上へ視線を落とした。

 さっきまで自分の中にあった「余った一個くらい、誰かに食べてもらえばいいじゃないか」という感覚が、音もなく崩れていく。

 弁当一つ。

 たった一つ。

 それだけなのに。

 その一つを誰に渡すかだけで、保護者、子供、職員、業者・・・幾つもの立場が絡んでくる。

 ・・・難しいな。

 匠は小さく息を吐いた。


 子供のために良かれと思ってした事が、必ずしも正解になるとは限らない。

 むしろ、子供を守ろうとしているからこそ、職員は勝手に判断できない。

 森もせんせーが先ほど口にした「本当に大丈夫なら」という言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。


 宅配弁当は、弁当を届けてもらえば終わりではない。

 届いた瞬間から、現場の仕事が始まる。そしてその仕事には、マニュアルには書かれていない判断まで含まれている。・・・これ、本当に先生の手は煩わせないのかな。

 答えは、もう見えているような気がした。



 事務室で、しばらく誰も口を開かなかった。

 匠は、保護者から聞いた「先生の手は煩わせません」という言葉を思い返す。

 その言葉と、今聞いた光景とが、どうしても重ならなかった。



 壁掛け時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。

 匠も何も言えなかった。

 保護者から聞いた話では、「注文も支払いも各家庭で済ませるから、先生は何もしなくていい」という説明だった。

 その言葉自体に嘘はないのかもしれない。

 確かに、注文を入力するのも、お金を払うのも保護者だ。


 けれど・・・届いた後は、誰がやるんだ。


 頭の中には、森もせんせーが語った光景が次々と浮かんでくる。

 段ボールを運ぶ職員。匠は自分がやるしかないだろうなと思う。京子せんせーは正直もうお歳だ。悠子せんせーなら可能だろう。森もせんせーは実は腰痛持ち。バイトの子達の何人かは大丈夫だろう。

 遊びを中断させられる子供達。ブーブー文句を言う姿が目に浮かぶ。

 狭くなった事務室。

 名前を呼ばれるまで待ちきれない子供達。

 注文漏れで泣き出す子。

 そして、山のようなごみ袋。夏ならすぐに臭いも出てくる。


 どれ一つとして、宅配弁当のデメリットとして流れない話だろう。それくらいしてくれてもいいのに・・・そう言われて終わる仕事の類だった。本当に名もない家事と同じだ。一つ一つは大した事のないように見える。だが、それらが集まって・・・立派な一つの仕事になる。

 違うシステムの宅配弁当の会社もあるかもしれない。だが、多かれ少なかれ、何らかの仕事は増える。


 京子せんせーも腕を組んだまま、小さく息を吐く。

「・・・確かに」

 悠子せんせーも静かに頷く。

「保護者の負担は減る。でも、その分が現場に移るなら、簡単に導入しましょうと言える話じゃないわね」


「そうですねぇ」

 森もせんせーは苦笑した。

「もちろん、100人全員が注文するとは思いませんよぉ」

 そこはあっさり認める。

「半分くらいかもしれませんし、3割くらいかもしれませんよねぇ」


 匠も頷いた。

 利用者全員が宅配弁当を選ぶ事は考えにくい。値段の問題もある。

 家庭のお弁当を持ってくる子もいるだろう。

 だから、50食という数字は現実的なのかもしれない。


 すると森もせんせーが、人差し指を一本立てた。

「じゃあ、質問です」

 匠は自然と顔を上げる。

「その50個のお弁当」

 一呼吸置く。

「段ボールなら、3箱から5箱くらいになりますよねぇ」

 誰も返事をしない。

 森もせんせーは事務室をゆっくり見回した。

 コピー機。

 書類棚。

 冷蔵庫。

 ロッカー。

 職員の机。

 夏祭りの準備物。

 子供達が連絡帳を出しに来るための通路。

 どこを見ても、決して広いとは言えない。


「さてぇ」

 森もせんせーは穏やかに笑った。

「その段ボール、この児童館ならどこに置いておきますぅ?」

 言葉は優しい。

 だが、その問いは鋭かった。


 匠も思わず事務室を見回す。

 入り口横に置けば、子供達がさわって、万が一倒れたりしたら大変だ。職員が動くスペースもなくなる。事務室内には置けない。

 相談室ならまあいいだろうが、面談が入る事もある。真剣な面談中に、すみませんと弁当を取りに入る事にでもなったら厄介だ。

 プレイルームは子供達が遊んでいる。学習スペースも同じく。廊下はそもそもエアコンなんて効いていない。


 ・・・ない。


 頭の中で何度配置を考えても、置き場所が見つからない。

「冷蔵庫には入りませんしねぇ」

 森もせんせーが苦笑する。

「食中毒対策を考えたら、できるだけ涼しい場所に置いておかないとマズいですよねぇ。でも、エアコンが効く部屋で、子供がさわらない場所って、結局ここしかないんですよぉ」

 京子せんせーも苦笑いを浮かべた。

「言われてみれば、その通りね」

 悠子せんせーは机に肘をつき、ゆっくり頷く。

「導入するかどうかじゃなくて、まず運用できるかどうか、なのね」

「そうですねぇ」

 森もせんせーはのんびり答えた。

「便利なサービスって、どうしても『注文するまで』の話になりがちなんですけどぉ」

 その言葉に、匠は胸の奥で小さく頷いた。

 注文する人。

 届ける人。

 そこまでは、きっと仕組みとして完成している。

 けれど、その先・・・届いた弁当を受け取り、保管し、配り、回収し、ごみを処理する。

 その工程が、そっくり現場へ渡される。子供達が自分で受け取って、自分で保管して、自分でゴミ処理する・・・。出来るわけがない。


 先生の手は煩わせません、じゃない。

 匠は心の中で苦笑した。

 注文では煩わせません、なんだ。


 たった一言違うだけで、意味はまるで変わってしまう。


 便利な仕組みは、決して悪いものではない。

 保護者が助かるのも事実だろう。

 だからこそ難しい。

 誰かの負担が減る一方で、その負担は別の誰かにバトンタッチされる。気づかないまま、もしくは気づいていても素知らぬ顔で渡される。それもタダで。


 その、静かな仕事は、外からはなかなか見えない。名前のない家事と同じ構造だ。


 事務室には、再び静かな空気が流れた。

 誰も宅配弁当そのものを否定したいわけではない。

 保護者を助けたい気持ちも、子供達のために何かできないかという思いも、全員同じだろう。

 だからこそ、ただ保護者が楽になる。いい事だ。そんな感情だけでは決められない。


 現場で本当に回るのか。

 子供達の安全は守れるのか。

 その答えを考えるには、便利そうですねの一言では済まない現実が、確かに目の前にあった。


読んでくださってありがとうございます(*_ _)

ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。

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 時司 龍さん、こんにちは。 「児童館のせんせー 先生の手は煩わせません~夏休みの宅配弁当」拝読致しました。  7月上旬になると、新一年生だった子供たちも、馴染んでくるようです。  で、夏休みが…
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