先生の手は煩わせません~夏休みの宅配弁当
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
夏休みを目前に控えた7月上旬。
既に25℃を越える日が毎日のように続き、照り返しの強い日差しが園庭を白く染め、児童館の窓ガラスには青空がまぶしく映っていた。
館内では、宿題を終えた子供達がカードゲームを囲み、廊下では鬼ごっこを始めようとする声が響く。
「匠せんせー! 見て見て!」
「一緒に鬼ごっこする~ぅ?」
「あとでなー。廊下は走るの禁止!」
匠が笑いながら注意すると、子供達は「はーい」と返事だけは元気よく、結局は走って行ってしまう。
毎年、この時期になると児童館の空気が変わる。4月に入ってきた1年生も少しは成長して、馴染んでくるからだ。高学年からは、お兄ちゃんお姉ちゃんらしくなる子も出てくる。
そして夏休みが始まれば、朝8時から、遅い子で夜7時。一日中子供達と過ごす日々になる。更にはフライングで朝7時半頃から来る子達までいる。
楽しい反面、職員の仕事量も一気に増える季節だった。
玄関で帰宅する子供を見送っていると、一人の保護者が少し申し訳なさそうな表情で近づいてきた。
「匠先生、少しいいですか?」
「はい。どうされました?」
保護者は周囲を気にするように視線を巡らせてから、小さく笑った。
「今年の夏休みって、ここって、お弁当の宅配はやらないんですか?」
「宅配ですか?」
思わず聞き返す。
「ええ。最近は学童でも増えてるって聞いて」
保護者はスマホを取り出し、画面を見せながら続けた。
「この前、知り合いのお母さんから教えてもらったんです。スマホで注文して、お昼に届けてもらえるサービスがあるらしくて」
匠は画面をのぞき込んだ。
色鮮やかな弁当の写真が並び、「栄養バランス」「日替わりメニュー」といった文字が目に入る。
便利そうではあるな・・・。
共働き家庭が増えている昨今、朝の弁当作りがどれほど大変かは、少しはわかっているつもりだ。実際、毎朝眠そうな顔で子供を送り届ける保護者を何人も見てきている。
「もし学童で利用できたら、本当に助かる家庭、多いと思うんですよ」
その言葉には切実さがあった。
匠は軽く頷く。
「なるほど・・・」
保護者は更に続けた。
「先生方のお仕事も増えないみたいですよ」
「そうなんですか?」
「はい。注文も支払いも、それぞれの保護者が自分でスマホでやるんです。先生は何もしなくていいって聞きました」
何もしなくていい。その言葉だけが、不思議と耳に残る。本当にそんな事あるのかな。
仕事柄、その手の説明を何度も聞いてきた。
『簡単です』
『負担はありません』
『すぐ終わります』
そう言われて始めた仕事が、本当に簡単だった試しはあまりない。
それでも、目の前のお母さんが悪気なく話している事は伝わってくる。
毎朝のお弁当作りから解放されたい。
その気持ちは、ごく自然な願いなのだろう。
匠は穏やかに笑った。
「ご意見ありがとうございます」
「じゃあ・・・」
「すぐに決められる話ではないので、一度、他の先生達とも相談してみます」
保護者の表情が少し明るくなる。
「本当ですか?」
「はい。導入するかどうかは分かりませんけど、話は共有します」
「ありがとうございます。助かります」
深く頭を下げた保護者は、子供の手を引いて帰っていった。
玄関のドアが静かに閉まる。
匠はその背中を見送りながら、小さく息をついた。
保護者にとっては、本当に助かる話なんだろうな。できれば導入したいけど、どうだろうなあ。
毎朝のお弁当作り。
夏場の食中毒への心配。
仕事に向かう前の慌ただしい時間。
そうした負担が少しでも減るなら、歓迎する人は少なくないはずだ。
だからこそ、簡単に無理ですと切り捨てる気にはなれなかった。
けれど・・・先生は何もしなくていい・・・か。児童館の仕事をしていると、そんな言葉ほど信用できないものはない。
誰かが、手間はありませんと言う仕事ほど、結局は現場に細かな作業が積み重なってくる。見えない家事と同じ構造だ。・・・実体験も含まれる。
子供を相手にする仕事なら、尚更だった。
廊下の向こうから「匠せんせー! UNOやろー!」という元気な声が響く。
「はいはい、今行くー」
笑って返事をしながら歩き出す。
その胸の奥には、小さな引っ掛かりだけが残っていた。
午後7時。
最後の子供を見送り終えた児童館は、昼間とは別の静けさに包まれていた。
さっきまで館内を満たしていた笑い声は消え、聞こえるのはエアコンの低い唸りと、事務室に響くパソコンの打鍵音だけ。窓の外では、夕暮れ色だった空がゆっくりと夜へ変わり始めている。
匠は今日の利用記録を入力し終えると、ふと思い出したように顔を上げた。
「そういえば、今日、保護者の方から相談がありました」
パソコンに向かっていた京子せんせーが視線を上げる。
「相談?」
「はい。夏休み中のお弁当宅配を導入しないのか、って」
その一言で、部屋の空気が少しだけ変わった。
悠子せんせーが書類から顔を上げる。
「ああ、その話」
「知ってるんですか?」
「最近、少しずつ増えてるみたいね。ニュースにもなっているわ」
穏やかな口調で頷きながら、カップに口をつける。
「共働きの家庭も多いし、朝のお弁当作りって本当に大変だから」
匠も頷いた。
今日話しかけてきた保護者の表情を思い出す。
決して無理を押しつけようとしていたわけではない。助かる家庭が多いと思うんです。
その一言には、生活の切実さが滲んでいた。
悠子せんせーは静かに続ける。
「保護者からそういう要望があるなら、児童クラブとして一度検討してみてもいいんじゃないかしら」
「確かに」
匠も素直にそう思った。
保護者の負担を軽くする事も、児童クラブの役割の一つではある。
すると、京子せんせーが腕を組んだ。
「私もね」
少し考えるような間を置いてから話し始める。
「近くの学童が、去年から導入したって聞いた事があるの」
「そうなんですか?」
「ええ」
京子せんせーは頷いた。
「保護者からの評判は悪くないらしいわ」
そこまで言ってから、京子せんせーは小さく首を傾げる。
「ただ・・・」
事務室が少し静かになる。
「毎日、宅配弁当って、本当に栄養面でいいのかしらとは思うのよ」
匠は少し意外だった。
運営や費用の話ではなく、最初に出てきたのは子供の健康だった。京子せんせーらしい、と心の中で苦笑する。
「家庭のお弁当なら、それぞれ工夫もできるでしょう?」
「はい」
「宅配弁当も栄養士さんが考えているとは思うけど、それでも毎日頼る前提になるのは少し気になるわね」
悠子せんせーもゆっくり頷いた。
「その心配は分かるわね」
匠は2人の話を聞きながら、今日保護者から聞いた説明を思い出した。
「あ、そういえば、」
3人の視線が集まる。
「保護者の方が言ってたんですけど」
「うん」
「注文も支払いも、それぞれの保護者がスマホからやるそうです」
「スマホ?」
京子せんせーが聞き返す。
「はい。だから先生たちの手は煩わせないから大丈夫ですよ、って」
匠がその言葉を口にした瞬間だった。
「ふふっ」
事務室の隅から、小さな笑い声が聞こえた。
森もせんせーだった。帳簿を閉じながら、肩を揺らしている。
「森もせんせー?」
匠が首を傾げると、森もせんせーは笑いをこらえながら言った。
「いやぁ・・・」
一度息を整え、いつもののんびりとした笑顔を浮かべる。
「本当に職員の手を煩わせないなら、導入してもいいと思いますよぉ」
少しだけ言葉を区切る。
「本当に、大丈夫ならねぇ」
最後の一言だけが、不思議なくらい強調されていた。
その声音には皮肉も怒りもない。けれど、何かを知っている人間だけが持つ確信が滲んでいる。
匠は思わず聞き返した。
「・・・何かあったんですか?」
森もせんせーは苦笑する。
「昨年や一昨年から、」
視線を机の上に落としたまま、静かに話し始めた。
「近くの学童で、実際に宅配弁当を導入したところは、わたしも幾つか知っていますよぉ」
京子せんせーと悠子せんせーも、自然と森もせんせーへ視線を向ける。
事務室には再び静寂が訪れた。
そして森もせんせーは、当時その学童で働いていた知人から聞いた話を、一つ一つ思い返すように語り始めた。
「その学童も、最初は保護者からすごく喜ばれたそうですよぉ」
森もせんせーは、聞いた話を思い出すように目を細めた。
「『朝、お弁当を作らなくて済む』『本当に助かる』ってぇ」
匠も頷く。
それは今日、自分が聞いた言葉とほとんど同じだった。
「先生達も最初は思ったそうです。『注文も支払いも保護者がやるなら、そんなに負担はないのかなぁ』って」
森もせんせーはそこで小さく笑う。
「でも、現実は違いましたねぇ」
夏休み。午前10時。
まだ昼食には2時間も早い時間だった。
玄関のドアが開き、配達員が大きな台車を押して入ってくる。
「お弁当、お届けでーす」
積まれていたのは、大きな段ボール箱。
1箱ではない。
2箱、3箱・・・全部で4箱。
「全部で62食になります」
「ありがとうございます」
受け取った職員は、その瞬間、小さく息を飲んだ。・・・重い。
日替わり弁当がぎっしり詰まった段ボールは、大人でも両腕でしっかり抱えなければ持ち上がらない重さだった。腰がやられそうだ・・・。
「先生ー!」
「ドッジボールまだー?」
園庭では遊びの続きを待つ子供達が大声で呼んでいる。
しかし、その声に応える暇はない。
「ごめん、ちょっと待って!」
職員は遊びを中断し、2人がかりで段ボールを抱え上げた。
「よいしょ・・・!」
汗が額を流れる。
夏の湿った空気の中、重たい箱を抱えて事務室まで何度か往復する。ひっくりかえしたら大変なので、殊更ゆっくりになる。そこへ更に子供達が纏わりつく。段ボールで自分の足元もよく見えない。
「先生ー!」
「まだ遊ぼうよー!」
「すぐ戻るから!」
それでも子供は待ってくれない。
「えーっ!」
「なんでー!」
不満そうな声が、廊下中に響いていた。
ようやく運び終えた頃には、事務室の景色が一変していた。
弁当は冷房が効いた室内に置く必要がある。食中毒は絶対にダメだ。子供がさわらない、冷房が効いている・・・いろいろな条件を突けると、結局は事務室しか残らなかった。
そのエアコンの真下には、段ボール箱が2箱ずつ積み上げられている。全部積み上げて、つぶれたり、倒れたりしたら大変だ。
ただでさえ狭い事務室は、更に人がすれ違えないほど窮屈になっていた。
コピー機へ行くにも横歩き。
書類棚も開けづらい。
「ちょっと、ごめん」
「すみません」
職員同士が身体を避け合いながら歩く。
その時だった。
「先生ー!」
一人の女の子が事務室へ飛び込んできた。
「あっ!」
「入ってこないの!」
慌てて声を上げる。
しかし勢いは止まらない。
ゴンッ。
デスクの角に肩をぶつける音が響いた。
「あいたっ」
「だから危ないって言ったでしょ」
職員がしゃがみ込み、ぶつけた場所を確認する。
泣き出すほどではない。
それでも、積み上がった段ボールのせいで事務室には逃げ場がなく、子供1人でも入り込めば危険だった。
そして正午。
昼食の時間。
職員の1人が段ボールを開け、中から名簿を取り出す。
「じゃあ、名前呼ぶね」
周囲には、100人近い子供達。
全員がお腹を空かせている。
「はーい!」
元気な返事が一斉に返ってきた。
「相川あいこちゃん」
「はーい!」
「伊藤いつきくん。」
「はーい!」
名前を呼ばれるたび、一人ずつ前へ出て弁当を受け取っていく。
だが、受け取った子供達は席へ向かわない。
「まだー?」
「早くー!」
「お腹すいたー!」
「先生、まだ?」
「あと何人ー?」
まだ呼ばれていない子供達まで集まり始め、事務室の前はあっという間に人だかりになった。
職員は苦笑しながらも、名簿を目で追う。
「加藤かいとくん。」
「はい!」
「久保田くるみちゃん」
「はーい!」
すると、その列の横から甲高い声が飛んだ。
「きらら、名前呼ばれてない!」
職員は名簿を見直す。
一行ずつ確認する。
もう一度。
・・・ない。
「ごめんね。きららちゃんの名前は載ってないよ」
「えっ?」
少女の顔が曇る。
「だって!」
唇を尖らせながら叫んだ。
「きらら、お弁当持ってきてないもん!」
周囲が一瞬静まり返る。
「え?」
「どういう事?」
職員同士が顔を見合わせる。
保護者の注文漏れなのか。
システムの入力ミスなのか。
配達ミスなのか。
誰にも分からない。
「ちょっと待ってね」
「いやだ! きららのお弁当~っ」
少女の目に涙が浮かぶ。
「みんなあるのに!」
「きららだけない!」
泣き声につられて、周囲の子供達までざわつき始めた。
「どうしたの?」
「お弁当ないの?」
「かわいそう・・・」
「注文忘れた?」
「ママは忘れないもんっ」
昼食前の静かな時間は、ほんの数分で騒然とした空気へ変わってしまった。
ようやく全員が食べ終わる頃には、時計の針は1時を回っていた。
職員は深く息を吐く。
しかし、仕事は終わらない。
「・・・さて」
目の前には、食べ終えた弁当容器が山のように積み上がっていた。
透明なプラスチック容器。
割り箸。
輪ゴム。
醤油の小袋。
食べ残し。
それらをまとめるだけで、45リットルのごみ袋が一つ、また一つと膨らんでいく。
結局・・・3袋。
「すごい量・・・」
誰かが思わず漏らした。
しかも夏。
容器には、ご飯粒やソース、煮物の汁が残っている。
時間が経つほど、生ぬるい臭いが食事室中に漂い始める。
以前、一度だけ。
「洗ってから捨てた方がいいんじゃない?」
そう考え、職員2人で容器を水洗いした事もあった。
けれど、結果は散々だった。
洗っている間、子供を見る職員が減る。
蛇口は何度も流しっぱなしになる。
気づけば、休憩時間まで削られていた。
「・・・無理だね」
誰かがぽつりと呟いた。
それ以来、洗う事はやめた。
袋いっぱいになったごみは口を固く縛り、駐輪場の脇へ運ぶ。
昨日のごみ袋の隣に積み上げるしかない。
真夏の日差しを浴びたごみ袋からは、むっとするような臭気が立ち上っていた。
1週間後のごみ収集日まで、それはそこに置かれ続ける。およそ15個のごみ袋が。
森もせんせーは、そこで一旦話を切った。
匠は無意識に、机の上のボールペンを指先で転がしていた。
弁当を運ぶ・・・これは毎日自分の仕事になるだろう。
配る。食べ終わった容器を片づける。それだけでも十分大変そうなのに、まだ何があるのか。聞いているだけで、これ以外にも、まだ他にも細々とした仕事が出てきそうだ。そんな気持ちが、胸の奥にじわりと広がっていく。
すると、森もせんせーが少し嫌そうに口を開いた。
「・・・更に、その話には続きがあります」
「まだあるの?」
悠子せんせーが思わず声を漏らす。
森もせんせーは答えず、ゆっくりと全員を見渡した。
その視線が、匠のところで一瞬止まる。
「たまたま、その日、お弁当を注文していた子が一人、風邪でお休みだったそうです」
「ああ・・・」
京子せんせーが小さく頷いた。
「じゃあ、一つ余ったのね」
「そうです」
森もせんせーは頷いた。
「お弁当が、一つ余る」
そこで、ほんの少し間を置いた。
「さて。どうしたと思います?」
匠は考えた。
余った弁当。食べる予定だった子は休み。そして、昼食を用意できていない子が一人いる。
・・・きららちゃん。
さっき森もせんせーが話していた、注文漏れの子の顔が頭に浮かんだ。
すると、悠子せんせーがすぐに答えた。
「その、きららちゃんに食べさせてあげれば・・・」
言葉の途中だった。
森もせんせーの表情が、ほんの一瞬だけ変わった。
匠はそれを見逃さなかった。
目が、冷えた。
森もせんせーのいつもののんびりとした雰囲気が一瞬消えた。唇の端が、ごく僅かに上がった。
笑ったようにも見えた。
けれど、笑顔ではない。
「・・・わたしなら、反対します」
静かな声だった。
「え?」
悠子せんせーが目を瞬かせる。
森もせんせーは、今度ははっきりと言った。
「悠子せんせーが、その現場で『余っているから食べてもいいよ』と言った瞬間に、問題が発生します。わたしなら絶対に、食べさせません」
匠の指が止まる。
「絶対?」
「はい」
森もせんせーは頷いた。
「実際、その学童でも揉めたそうです」
事務室の空気が、更に重くなる。
「でも、だって・・・」
悠子せんせーが困ったように眉を寄せる。
「お弁当、一つ余っているんでしょう? だったら、食べるものがない子に・・・」
「その気持ちは分かります」
森もせんせーは遮らなかった。
「私だって、目の前でお腹を空かせている子がいたら、何とかしてあげたいと思います」
そこで一度、言葉を切る。
「でも、そのお弁当代は誰が払うんですか?」
悠子せんせーが何か言いたげに口を開いて、でも悔しそうに一度口を閉じた。
「それは・・・当然、きららちゃんの親御さんが・・・」
「児童館の職員が勝手に食べさせたので、払いません」
森もせんせーはそう言って、首を傾げた。視線が、ふっと明後日の方向へ向く。まるで、実際に言われた言葉を思い出しているようだった。
「・・・だそうです」
匠は思わず息を吐いた。
そういう事か。
弁当が余っている。
食べていない子がいる。
なら、食べさせればいい。
一見すれば、それで丸く収まる。
けれど・・・誰が注文したものなのか。誰が代金を払うのか。
職員が勝手に別の子へ渡していいのか。
善意で動いた瞬間に、別の問題が生まれる。
森もせんせーは、淡々と続けた。
「食べられた方の親御さんも、『うちが休んで食べなかったのなら代金を払うのは仕方ないけれど、食べたのなら、その人が払ってください』と」
そして、ほんの少し肩をすくめる。
「・・・まあ、当然でしょうね」
誰も反論できなかった。
匠は机の上へ視線を落とした。
さっきまで自分の中にあった「余った一個くらい、誰かに食べてもらえばいいじゃないか」という感覚が、音もなく崩れていく。
弁当一つ。
たった一つ。
それだけなのに。
その一つを誰に渡すかだけで、保護者、子供、職員、業者・・・幾つもの立場が絡んでくる。
・・・難しいな。
匠は小さく息を吐いた。
子供のために良かれと思ってした事が、必ずしも正解になるとは限らない。
むしろ、子供を守ろうとしているからこそ、職員は勝手に判断できない。
森もせんせーが先ほど口にした「本当に大丈夫なら」という言葉の意味が、少しだけ分かった気がした。
宅配弁当は、弁当を届けてもらえば終わりではない。
届いた瞬間から、現場の仕事が始まる。そしてその仕事には、マニュアルには書かれていない判断まで含まれている。・・・これ、本当に先生の手は煩わせないのかな。
答えは、もう見えているような気がした。
事務室で、しばらく誰も口を開かなかった。
匠は、保護者から聞いた「先生の手は煩わせません」という言葉を思い返す。
その言葉と、今聞いた光景とが、どうしても重ならなかった。
壁掛け時計の秒針だけが、規則正しく時を刻んでいる。
匠も何も言えなかった。
保護者から聞いた話では、「注文も支払いも各家庭で済ませるから、先生は何もしなくていい」という説明だった。
その言葉自体に嘘はないのかもしれない。
確かに、注文を入力するのも、お金を払うのも保護者だ。
けれど・・・届いた後は、誰がやるんだ。
頭の中には、森もせんせーが語った光景が次々と浮かんでくる。
段ボールを運ぶ職員。匠は自分がやるしかないだろうなと思う。京子せんせーは正直もうお歳だ。悠子せんせーなら可能だろう。森もせんせーは実は腰痛持ち。バイトの子達の何人かは大丈夫だろう。
遊びを中断させられる子供達。ブーブー文句を言う姿が目に浮かぶ。
狭くなった事務室。
名前を呼ばれるまで待ちきれない子供達。
注文漏れで泣き出す子。
そして、山のようなごみ袋。夏ならすぐに臭いも出てくる。
どれ一つとして、宅配弁当のデメリットとして流れない話だろう。それくらいしてくれてもいいのに・・・そう言われて終わる仕事の類だった。本当に名もない家事と同じだ。一つ一つは大した事のないように見える。だが、それらが集まって・・・立派な一つの仕事になる。
違うシステムの宅配弁当の会社もあるかもしれない。だが、多かれ少なかれ、何らかの仕事は増える。
京子せんせーも腕を組んだまま、小さく息を吐く。
「・・・確かに」
悠子せんせーも静かに頷く。
「保護者の負担は減る。でも、その分が現場に移るなら、簡単に導入しましょうと言える話じゃないわね」
「そうですねぇ」
森もせんせーは苦笑した。
「もちろん、100人全員が注文するとは思いませんよぉ」
そこはあっさり認める。
「半分くらいかもしれませんし、3割くらいかもしれませんよねぇ」
匠も頷いた。
利用者全員が宅配弁当を選ぶ事は考えにくい。値段の問題もある。
家庭のお弁当を持ってくる子もいるだろう。
だから、50食という数字は現実的なのかもしれない。
すると森もせんせーが、人差し指を一本立てた。
「じゃあ、質問です」
匠は自然と顔を上げる。
「その50個のお弁当」
一呼吸置く。
「段ボールなら、3箱から5箱くらいになりますよねぇ」
誰も返事をしない。
森もせんせーは事務室をゆっくり見回した。
コピー機。
書類棚。
冷蔵庫。
ロッカー。
職員の机。
夏祭りの準備物。
子供達が連絡帳を出しに来るための通路。
どこを見ても、決して広いとは言えない。
「さてぇ」
森もせんせーは穏やかに笑った。
「その段ボール、この児童館ならどこに置いておきますぅ?」
言葉は優しい。
だが、その問いは鋭かった。
匠も思わず事務室を見回す。
入り口横に置けば、子供達がさわって、万が一倒れたりしたら大変だ。職員が動くスペースもなくなる。事務室内には置けない。
相談室ならまあいいだろうが、面談が入る事もある。真剣な面談中に、すみませんと弁当を取りに入る事にでもなったら厄介だ。
プレイルームは子供達が遊んでいる。学習スペースも同じく。廊下はそもそもエアコンなんて効いていない。
・・・ない。
頭の中で何度配置を考えても、置き場所が見つからない。
「冷蔵庫には入りませんしねぇ」
森もせんせーが苦笑する。
「食中毒対策を考えたら、できるだけ涼しい場所に置いておかないとマズいですよねぇ。でも、エアコンが効く部屋で、子供がさわらない場所って、結局ここしかないんですよぉ」
京子せんせーも苦笑いを浮かべた。
「言われてみれば、その通りね」
悠子せんせーは机に肘をつき、ゆっくり頷く。
「導入するかどうかじゃなくて、まず運用できるかどうか、なのね」
「そうですねぇ」
森もせんせーはのんびり答えた。
「便利なサービスって、どうしても『注文するまで』の話になりがちなんですけどぉ」
その言葉に、匠は胸の奥で小さく頷いた。
注文する人。
届ける人。
そこまでは、きっと仕組みとして完成している。
けれど、その先・・・届いた弁当を受け取り、保管し、配り、回収し、ごみを処理する。
その工程が、そっくり現場へ渡される。子供達が自分で受け取って、自分で保管して、自分でゴミ処理する・・・。出来るわけがない。
先生の手は煩わせません、じゃない。
匠は心の中で苦笑した。
注文では煩わせません、なんだ。
たった一言違うだけで、意味はまるで変わってしまう。
便利な仕組みは、決して悪いものではない。
保護者が助かるのも事実だろう。
だからこそ難しい。
誰かの負担が減る一方で、その負担は別の誰かにバトンタッチされる。気づかないまま、もしくは気づいていても素知らぬ顔で渡される。それもタダで。
その、静かな仕事は、外からはなかなか見えない。名前のない家事と同じ構造だ。
事務室には、再び静かな空気が流れた。
誰も宅配弁当そのものを否定したいわけではない。
保護者を助けたい気持ちも、子供達のために何かできないかという思いも、全員同じだろう。
だからこそ、ただ保護者が楽になる。いい事だ。そんな感情だけでは決められない。
現場で本当に回るのか。
子供達の安全は守れるのか。
その答えを考えるには、便利そうですねの一言では済まない現実が、確かに目の前にあった。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
ポイントを入れてもらえると、嬉しいです。




