大丈夫は禁止
このシリーズは、いずれも扱う題材の性質上、いわゆる問題作と受け取られる可能性のあるものばかりです。なかでも本作は、正直、炎上してもおかしくない題材です。
現在のところ、大きな反響もなく、静かなままに置かれていますが、それは内容が穏当だからではなく、まだ多くの人の目にふれられていないだけの事だと思っています。
勿論、物語として構成している以上、誇張は含まれています。
それでも描いているものが完全な虚構であるとは言い切れず、どこかの遠い話ではなく、程度の差こそあれ現実の中に確かに存在しています。
その違和感が、どこかに引っかかるものであれば。
あるいは、読み終えた後に、何か残り続けるものであれば、と思っております。
児童館とは、児童福祉法第40条に基づき、18歳未満の子供が自由に利用できる児童福祉施設である。
専門の職員・・・児童厚生員が配置され、遊びを通じて子供達の健やかな成長を支えている。
また、施設によっては学童保育(放課後児童クラブ)が併設されている事もある。
これは、そんな場所でのある日の出来事である。
太陽の光が、遊戯室の床を柔らかく照らしている。マットの色は少しくすんで、何度も洗われた跡が残っている。壁際には積み木やままごと道具。中央では、数人の子供達が追いかけっこをして、足音と笑い声が混ざり合う。
京子は、その入り口に立っていた。扉の脇、全体を見渡せる位置。視線だけで、誰がどこにいるかを追える場所。
背後の廊下からは、別室の気配も伝わってくる。絵本の読み聞かせの声。小さな泣き声。それぞれに、別の職員がついている。
ここもあちらも、手は足りていない。人数の問題じゃない、と京子は思う。一人分の手が、そのまま一人に取られる現実がある以上、幾らいても足りないままだ。
視線を、室内の一角に滑らせる。
マットの上。
小学5年の陽葵は、匠のすぐそばに座り込んでいた。
「・・・あー、あんぱんまん、・・・来週もまた見てくださいね。じゃんけん ふふふふ・・・」
意味の繋がらない言葉を繰り返す。同じ調子で、同じ高さで、途切れる事なく。
匠は、その隣に膝をついている。顔の高さを合わせ、少しだけ身体を傾けて、短く整えられた髪の下、まっすぐな視線を外さない。
「うん」
短く返す。
「じゃんけん、あー・・・あ、」
「うん、いるよ」
意味のある会話にはならない。それでも、匠は相槌を続ける。
そのやり取りに、一人の子が近づいてきた。
「匠せんせー、ねえ、一緒に・・・」
声をかけかけた、その瞬間。
陽葵の手がすっと前に出る。払うでも叩くでもない。ただ近づくなと示すような、拒絶の形。
匠の手が、すぐにそれを止めた。反射に近い速さだった。けれど動き自体は鋭すぎず、陽葵の手首に触れる直前で僅かに力を抜き、そのまま包むようにして動きを止める。引き戻すのではなく、行き先だけを静かに変えるような手つき。
「大丈夫」
陽葵の手首を軽く押さえ、動きを遮る。
同時に、声をかけた子の方へ視線を向ける。
「ごめんね、ちょっと今、ここで一緒にいるから」
柔らかく、でもはっきりとした拒絶。
「あとでね」
子供は少しだけ不満そうにしながらも、別の遊びへと戻っていく。
陽葵は、また同じ音を繰り返し始める。
「あ・・・あんぱんまん、」
ふいに、その身体が前に傾いた。
次の瞬間、陽葵は立ち上がり、そのまま遊戯室の外、玄関の方へ向かおうとする。
匠の手が、すぐに動いた。肩に触れるより早く、腕の動きを読んで一歩だけ前に出る。進路を塞ぐように、自然に間に入る。
「ちょっと待とうか」
低く、落ち着いた声。強く止めるのではなく、身体の向きをそっと変えるようにして、外へ向かう流れを切る。
陽葵の動きが、そこで一度止まる。
「来週の・・・」
匠は、そのまま目線を合わせる位置まで腰を落とした。
「うん、大丈夫。ここにいよう」
陽葵の手がわずかに揺れる。
匠はその動きを見ながら、距離を崩さず、逃がさない位置を保つ。
それを、京子は入口から見ている。
ずっと、見ている。
あの位置はもう、『その子の担当』だ。他の子と関わる余地は、ない。
一人、固定される。
視線を外さないまま、胸の奥で小さく引っかかる。
本来は見守るはずの場所で、一人が一人を抱え込む形になっている。その歪みを、誰も言葉にしないまま受け入れている。
仕方がない、と片づけるには重すぎる。
けれど、止める理由も手段も用意されていない。
だから今日も同じ配置が繰り返される。誰かがそこに立ち続ける事で、何とか保たれているだけの均衡。
視線を少しだけ動かす。
遊戯室の反対側、ままごとコーナーでは絵本を読み終わった職員が移動してきて子供達に囲まれている。廊下の向こうでは泣きやんだ子がそのまま職員から離れない。第一弾の休憩時間は過ぎている。このまま次に食い込めば、誰かの休憩、昼食はなしだ。もしくは本当に立って食べるだけしかできない。
「先生はゴハンの時間です」
京子は声をかける。
子供がちらっとこちらを見る。涙は出ているが、呼吸はもう落ち着いている。
ああ、これ・・・
「ごめんね、ちょっとだけ離れててくれる? ごはん休憩が終わったら戻ってくるから」
職員もそう言って休憩に入ろうとするが、子供は職員の足にしがみつく。涙の跡がズボンにつく。
「やだぁ・・・」
さっきとは違う泣き方。手はしっかり服を掴んだまま。
「先生はゴハン抜きになるけど?」
京子はもう一度声をかける。子供は黙る。さすがに職員のゴハン抜きはまずいと認識はしているのだろう。だが、手は離れない。
京子は小さく息を吐いた。
人はいる。
足りていないだけで。
誰か一人が抜ければ、こうやってどこかが詰まる。
回しているつもりで、綱渡りのまま。
「京子さん、」
背後から、悠子の声。
振り返らなくてもわかる。落ち着いた声の調子。足音もほとんど立てずに隣に立つ気配。視界の端に入る横顔は、無駄のない輪郭に整えられていて、表情は大きく動かないのに、僅かな目の細め方や口元の緩みで感情をにじませる。現場に長くいる人間特有の、力を抜いた立ち方。
別室の方から視線を外さない。
「また、ね。今朝もちょっとだけお願いしますって」
「ちょっとが、何時間になるんですかね」
軽口みたいに言いながら、悠子の視線も一瞬、陽葵へと流れる。その目には驚きも苛立ちももう強くは出ない。ただ見慣れてしまった現実をなぞるような静けさだけが残っている。
放置だ、と言葉が浮かぶ。どんな言い方を選んでも、取り繕っても、結局そこに行き着く。
児童館は、誰でも利用できる場所だ。
基本、無料。
出入りも自由。利用時間の制限もない。
それは制度として、間違っていない。
けれど。
制度上は利用できても、その子の状態を考えれば、職員に全てを任せきりにしていい話ではないはずだ。
「例の件、また来てる」
「・・・どの件」
「急に近寄ってきて、アンパンマンの玩具を取って、離さなかったって件」
京子は、ゆっくりと瞬きをした。
視線の先。陽葵の手の中に、そのアンパンマン。指が白くなるほど、握りしめている。
離さないのではない。離せない。
「怖かったって?」
「そう。ちゃんと見ててくださいって」
京子は、小さく息を吐いた。
「見てるわよね」
「ずっとね」
悠子の声には、苦笑が混じる。
京子は、遊戯室を見渡したまま言う。
「行政から特別に人件費も来ない。学童保育と違って、いつ来るかわからない子のために人はつけられないって理屈」
「ええ」
「対応できる設備費も来ない」
「ええ」
「来るのはクレームだけ」
「出入り自由。好きな時に来て、好きな時間遊んで、好きな時に帰れるのが児童館のいい所なんですから、出ていくのを止めなくてもちゃんと運用できています、って事になりますよ」
言い終えた後、悠子はわずかに口角を上げた。声には出さない、息だけの笑い。目元は笑っていない。感情を削ぎ落としたように静かで、現実だけをなぞる冷たさが残る。正しさをなぞった言葉と、そのずれを自覚している顔。
どこにも向けられない皮肉が、そこに滲んでいた。
短い沈黙。
遠くで、また笑い声が上がる。
何も知らないまま、遊びは続いている。
悠子が、壁にもたれるようにして呟く。
「ねえ、これさ」
「なに」
「善意で回してるだけよね、完全に。なくなったら終わるやつ」
「そうね」
「そのうち、誰かが潰れる」
京子は答えなかった。
視線は、匠の背中に向いたまま。
陽葵の声は、途切れない。
「じゃんけん、あー・・・あんぱんまん」
それに対して、
「うん」
と返す声も、途切れない。ああいうのが一番危ない。真面目で、優しくて、断れない。せっかく入ってくれた20代の若手。それも数少ない男性。
限界まで、そのまま行く。
「・・・匠くん」
少しだけ声を張る。
「はい」
顔だけが、こちらを向く。
「ゴハン休憩の後、交代入るわ」
「いえ、大丈夫です」
間髪入れずに返ってくる。
やっぱり、と思う。
「大丈夫は禁止」
ぴたりと、言葉を落とす。
「それ、現場で一番信用できないやつだから」
匠は、ほんの少しだけ言葉を詰まらせた。
「・・・はい」
それでも、視線はすぐに陽葵へ戻る。
陽葵の手が、またわずかに動く。誰かが近づけば、同じ仕草を繰り返す準備のように。
匠の手は、そのすぐ近くにある。止めるための距離。
京子は、それを見ながら息を吐いた。
制度は整っている。
場所もある。人もいる。
それでも、現場は偏る。
一人に、現場に、重さが集まる。
うまくできている、と思う。紙の上では。
誰も間違っていない形に整えられて、そのしわ寄せだけが、こうして目の前に落ちてくる。
視線を、遊戯室全体へ戻す。
笑い声と、泣き声と、足音。
その中に、あの単調な声だけが、ずっと続いている。
「あんぱんまん、…じゃんけん・・・ふふふふ・・・・」
切れない。終わらない。
京子は、入口に立ったまま、目を逸らさない。ここから全部を見るのが、自分の役目だから。
・・・まだ、見ていられる。
本当に崩れる時は、誰も見ていないところで音もなく崩れる。
目の届かないところで、一つが崩れて、気づいた時には幾つも絡んでいる。
拾いきれなくなって、ようやく問題になる。
その後で、どうして報告しなかったのかと問われる。あれだけ予算の話をしていたにも関わらず、なかった事として。
それでも。
問題が届いていない限りは、ないものとして扱われる。
その前提で今日も回っている。
都合のいい沈黙だ。
誰も責任を引き受けないまま、誰かの負担だけが増えていく仕組み。
その誰かが、今日はあそこにいる。
視線の先、匠の背中。
真面目な人間ほど、こういう場所に綺麗に嵌まる。そして、外れなくなる。
京子は、もう一度だけ息を吐いた。
このまま見ているだけでいいのかと、どこかで引っかかり続けながら。
読んでくださってありがとうございます(*_ _)
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