第三巻 第九章 (勇気などの美徳は生まれつきの差は有るが学習と実践で成長可能)(正義などの美徳は知恵であると言える)
第三巻 第九章 (勇気などの美徳は生まれつきの差は有るが学習と実践で成長可能)(知恵と節制、自制は一体化している)(正義などの美徳は知恵であると言える)(狂気について)(嫉妬について)(暇について)(統治者の役割について)(善行について)
また、ソクラテスは、ある人に「勇気を教える事は可能でしょうか? それとも、勇気は生まれつき生じた(ままである物な)のでしょうか?」と質問された。
(また、ある人が、ソクラテスに「勇気を教える事は可能でしょうか?」と質問して反論した時に、※別の版)
次のようにソクラテスは答えた。
「次のように、私ソクラテスは考えています」
「ちょうど、別の人の肉体よりも、ある人の肉体が、生まれつき、労苦に立ち向かえるほど、より強い事が有るように、」
「同様に、別の人の魂よりも、ある人の魂は、生まれつき、危険を物ともせずに、より強く成長する」
「『法律や慣習が同じ条件下で育った人々が、勇気という点では、大きく異なる』のを確かに私ソクラテスは留意しています」
「それでもなお、『学習と実践は、生まれつきの素質を、勇気へと、常に強化できる』と私ソクラテスは確信しています」
「例えば、スキタイ人やトラキア人が、盾と槍を取って、ラケダイモン人と自称しているスパルタ人と、あえて戦うつもりが無いのは、明らかである」
「また、同様に、もし軽装の軽い盾と投げ槍だけに制限されたらラケダイモン人と自称しているスパルタ人がトラキア人と戦うのをためらうのは明らかであるし、弓矢に精通しているスキタイ人よりも、より精通している何らかの武器無しにはスパルタ人がスキタイ人と戦うのをためらうのは明らかである」
(「また、同様に、ラケダイモン人と自称しているスパルタ人が、軽装の軽い盾と投げ槍でトラキア人と戦うのをためらうのは明らかであるし、弓矢でスキタイ人と戦うのをためらうのは明らかである」※別の版)
「そして、私ソクラテスが理解している限りでは、『ある人と別の人の生まれつきの違いは、配慮の結果である人為的な向上によって、補う事ができる』という原理が一般的に有効である」
「前述の全てが、『自然が(他人よりも、)より鋭敏さ、聡明さを人に与えても、(他人よりも、)より愚鈍さを人に与えても、全ての人に等しく求められている義務は、それによって人が自発的に超越性(、超人性)へ到達できる物事を、学んで実践する事なのである』と明らかに示している」
ソクラテスは、知恵と、節制、自制、魂の落ち着きを区別しなかった。
一方では、ある人は、美しい善い事を実践するために、美しい善い物事を十分に認識できているか?
他方では、その人は、劣悪な事を(しないように)警戒するために、「劣悪」についての知識が有るか?
もし、そうであれば、ソクラテスは、そうしている人を「賢者である」と同時に「健全な人である」(または「節制、自制している人である」)と判断した。
また、さらに、ソクラテスは、「正しい行動についての知識は有るが、その知識を適用しない(、その知識を行動に移さない)者どもを『賢い節制、自制している人である』とソクラテスは見なしますか?」と質問されると、
次のようにソクラテスは答えた。
「私ソクラテスは、その者どもを『愚かな節制、自制していない人である』と見なします」
「私ソクラテスが思うに、全ての人は、自分に可能な範囲内で、最も自分の利益になると思う物事を意識的に選んで、その選択に応じた行動をする」
「そのため、『法則に反した不正な行動をする者どもは賢くないし(、愚かであるし)、節制、自制していない』と私ソクラテスは見なすしかない」
さらに、ソクラテスは、「正義と、正義以外の他の全ての美徳(、心の力)とは、知恵である」と話した。(「正義とは、知恵である」「正義以外の美徳も、知恵である」「正義などの心の力は、知恵である」)
「正義と、正義以外の他の美徳(、心の力)によって行われる全ての事は、『美しいし、善い』と言える」(「正義は、『美しいし、善い』と言える」、「正義以外の心の力によって行われる事も、『美しいし、善い』と言える」)
「そして、正義を知っている人達は、正義以外の他の何かを正義の代わりとして意識的に選ぶつもりは無い」
「また、正義についての特別な知識が欠如している者どもは、正義を選ぶ事ができないし、たとえ正義を選ぼうと試みても、的外れで失敗してしまう」
「そのため、賢者だけが、『美しいし、善い』事を行う事ができる」
「愚者どもは、『美しいし、善い』事を行う事ができないし、たとえ試みても、失敗してしまう」
「そのため、『全ての正義と、一般的に全ての美しいし善い事は、美徳(、心の力)によって行われる』ので、『正義と、正義以外の他の全ての美徳とは、知恵である』のは、明らかである」
(同時に、次のようにソクラテスは主張した。)
「狂気は、知恵とは正反対の物なのである」
ソクラテスは、単なる無知を狂気と見なした訳ではなく、次のように狂気について話した。
「人が、自身について無知である事、知らない事について知っていると思い込んでしまって前提としてしまう事は、狂気その物ではなかったとしても、狂気に、とても似ている何物かである」
「しかし、疑い無く、人々の大半は、(狂気についてのソクラテスの考えとは、)異なる考えを抱いてしまっている」
「人々の大半が知らない何かについて、ある人が全く的外れで誤っていても、人々の大半は、その人が『狂っている』とは言わない」
「しかし、ありふれた知識の範疇の事についてだけ、人々の大半は、人の同様の逸脱を『狂気』と呼んでしまいます」
「例えば、」
「人々の大半によると、『高い壁の(高い)門の下をかがまないで通過するには自身は高身長過ぎる』と思い込んでしまっている誰かは、狂人なのである」
「また、人々の大半によると、『とても力が有るので、家を持ち上げられないか試してみよう』と思ってしまっている誰かは、狂人なのである」
「また、人々の大半によると、その他の明らかに不可能な全ての事を試みるのは、狂人なのである」
「ただし、大衆の感性では、その人の逸脱が些細なら、その人は狂っていない事に成ってしまう」
「事実、ちょうど、強い欲望は、大衆の用語では『熱狂』という名前で知られているように、」
「同様に、考えの大規模な逸脱は、『狂気』と呼ばれてしまう」
また、「嫉妬とは、どういった物であるのか?」という質問に対して答える際に、ソクラテスは、「嫉妬とは、ある種の苦悩である」と気づいた。
「友人が逆境で、また、敵が幸運で、嘆きを感じるのは、確実に、嫉妬ではない」
次のようにソクラテスが話したように、「友人の成功に苦悩する人だけが嫉妬を感じる」。
そして、ある人、他の人が「友人への親しみを感じている人の誰が、友人の成功に苦悩するだろうか?」と驚いて見せると、人々に共通する傾向を思い出させるように、次のように、ソクラテスは話した。
「誰かが逆境であると、人々は、同情して、逆境を助けに急行する」
「しかし、他人が幸運であると、どういう訳か、人々は苦悩してしまう」
次のようにソクラテスは言い加えた。
「私ソクラテスは(誤って)『思いやり深い人が他人の幸運に嫉妬する』なんて言うつもりはありません」
(「私ソクラテスは誤って『良識が有る人が他人の幸運に嫉妬する』なんて言うつもりはありません」※別の版)
「しかし、他人の幸運に嫉妬するのは、愚者には、珍しくない(、ありふれた)心理状態である」
また、「(悪い意味で)暇とは、どういった事か?」という質問に対して答える際に、次のようにソクラテスは話した。
「『ほとんどの人が、何かをしている』と私ソクラテスは気づきました」
「例えば、サイコロで遊ぶ者、賭博師、道化師は、何かをしています」
「しかし、サイコロで遊ぶ者、賭博師、道化師は、暇が有る事に成るのです(。なぜなら、)」
「サイコロで遊ぶ者、賭博師、道化師は、望めば、より善い何かに向かって向きを変えて、より善い何かをする事ができる(からです)」
「実に、より善い物事から、より悪い物事へ向かって向きを変えている暇が有る人は誰もいないのです」
「そんな暇は人には無いにもかかわらず、もし、より善い物事から、より悪い物事へ向かって向きを変えたら、実に、その分野で悪い事をしているだけなのです」
(別の定義へ移ると、次のようにソクラテスは話した。)
「王笏を持っているだけの者どもや、同胞の市民達が市民の中から選んだ人達や、くじ引きで任命された人達や、暴力や詐欺で統治者という公職に入り込んだ者どもは、王者でも統治者でもない」
「実に、統治方法についての特別な知識が有る人達が、王者であるし、統治者である」
ソクラテスは、「統治者の役割は、行うべき(義務が有る)事を命じる事である」、また、「統治される国民達の役割は、(統治者に)命じられた事に従う事である」という承認を勝ち取ると、次のように、例えによって指摘を続けた。
「船では、(行うべき事についての)特別な知識を持つ人が、統治者または船長に成る」
「船主自らと、船長以外の他の全ての乗船者は、熟練者としての統治者または船長に従う」
「同様に、」
「農業では、農場の所有者が、(行うべき事についての知識が有る)統治者に成る」
「病気では、(病気の肉体の所有者である)病人が、(行うべき事についての知識が有る)統治者に成る」
「肉体の物質的な鍛錬では、走路を走る、(肉体の所有者である)若い競技選手が、(行うべき事についての知識が有る)統治者に成る」
「そして、一般的に、配慮を必要とする何かに直接的に関係している全ての人は、」
「『自分には(行うべき事についての)特別な知識が有る』と思うなら、個人的に何らかの配慮をするであろう」
「また、自分の学、知識に自信が持てないなら、」
「現場の、熟練者である誰かに熱心に従うであろう」
「または、使者を派遣して遠くから熟練者を連れてきて、熟練者の指導に従って、熟練者の指導で行うべき事を行うであろう」
このため、ソクラテスは、次のように指摘するのを好んでいた。
「羊毛の紡績のわざでは、女性達が、男性達の統治者である」
「なぜか?」
「なぜなら、羊毛の紡績の女性達には羊毛の紡績のわざの知識が有るが、男性達には無いからである」
また、誰かが「暴君は、権力、軍事力によって、善い正しい助言に従わない」という異議を唱えたら、次のように、ソクラテスは応えた。
「知恵による諸々の言葉に従わない者に残存する報い、罰、不利益を考慮すると、従わないという選択肢が、どうして暴君に有るだろうか? いいえ! 知恵の言葉に従わないという選択肢は無い! なぜなら、多分、暴君が善い助言に従わない問題が何であれ、暴君は誤りに陥るであろうし、誤りに陥ったために処罰されて懲らしめられるであろう、ひどい目に遭うであろう」
また、「暴君は、望めば、賢者の首を斬る事ができる」という示唆に対して、次のように、ソクラテスは答えた。
「『最善の味方を殺す者は、罰を免れる』と(誤って)思うのですか? また、『最善の味方を殺す者は、些細な大した事が無い一時的な損失を被るだけである』と(誤って)思うのですか? 『そんな事をしておいても、自身の救いを確実な物に、より、しそうである』と(誤って)思うのですか? それとも、『自身の速やかな破滅をより達成しそうである』と考えますか?(『そんな事をしておいても、安全な道を選ぶ事ができている』と誤って思うのですか? むしろ、自分への死刑執行令状に署名していませんか? ※別の版)」
また、ある人が「ソクラテスが、人にとって最善の追求、最善の務めと見なしているものは何ですか?」とソクラテスに質問した時に、
(ある人が「ソクラテスが、人にとって最も気高い研究と見なしているものは何ですか?」とソクラテスに質問した時に、※別の版)
次のようにソクラテスは答えた。
「(最善の追求、最善の務めは、)行動の成功である」
そして、ある人の「では、ソクラテスは、幸運を、追求するべき目的の一つと見なしますか?」という第二番目の質問に対して、次のようにソクラテスは答えた。
「逆に、」
「私ソクラテスとしては、『幸運と、行動は、正反対である』と考えています。例えば、『そうしようと努力しなくても、行動の望ましい成り行きが成功するためには、幸運が、優れている』と私ソクラテスは考えています。しかし、私ソクラテスの確信では、『学習と実践によって善く行う事が、行動の成功なのである』。そして、『善く行う事ができる人達とは、学習と実践によって善く行う事を、人生での真剣な務めとしている人達である』と私ソクラテスには見受けられるのです」
(次のようにソクラテスは話を続けた。)
「例えば、『農場で農業を善く行う人達や、医療業で医療を善く行う人達や、国政で国政を善く行う人達は、最善である、と同時に、最も愛すべきである大事な者達である』と神は見てくれる」
(「例えば、『農場で農業を善く行う人達や、医療業で医療を善く行う人達や、国政で国政を善く行う人達は、最善である、と同時に、最も神聖に愛すべきである者達である』と神は見てくれる」※別の版)
(次のようにソクラテスは言い加えた。)
「一方、善い事を何も行わない人(、怠惰な悪人)、または、何かを善く行わない人(、悪く行う人、悪事を行う悪人)は、役に立たない人であるし、神にとっては、愛すべきではない(憎悪するべきである)無価値な人である」




