侯爵の真実
「アール、すまなかった。大丈夫か? ここに来て、リエに顔を見せてやってくれ」
侯爵に導かれるまま、寝台に近づいた。
体中が痛い。
階段から落ちたからかしら?
そこは、間違いなさそう。
「リエはおまえのことを心配していたぞ。だが、彼女は、彼女は……」
侯爵は、声を詰まらせた。
またドキリとした。
彼が涙を流している。
そっと寝台をのぞきこんでみた。
「彼女は、目を覚まさない」
寝台の上には、わたしが横たわっていた。
まるで死んでいるかのような表情と雰囲気で。
わたしは、死んではいない。いまのところは。
だけど、目を覚まさない。意識は、アールに移っているのだから。ということは、アールは? アールの意識はどこへ?
小説やお話のような筋書きだけど、実際に起こっているのだから仕方がない。とはいえ、アールの意識がどこへ行っているのかが心配でならない。
もしもわたしと入れ替わっているのだとすれば、どうして目覚めないの?
ウロウロと行ったり来たりしながら、アールの意識のことをあれこれ考えてしまう。
その間にも、アールの記憶が見せてくれる。
侯爵の真実を。彼のほんとうの姿を。
アールが屋敷にやって来てから、侯爵はわたしの見ていないところで彼を可愛がっていた。そして、わたしの様子がどうだったのかなど、アールにいろいろ尋ねていた。
アールは答えようがないのだけれど、それでも侯爵は尋ねていた。
わたしが王立公園に行くようになってからは、侯爵はそっとわたしのあとをつけていたみたい。
って、つけていた? つけられていたの、わたし?
まったく気がつかなかったわ。というか、そこまで心配されていたの?
驚きの連続である。
アールの記憶は、どんどん溢れてくる。
そのどれもが侯爵に関することで、その侯爵はいつもわたしのことを話したり悩んだりしている。
彼はずっと年長で強面で不愛想なことを気にしていて、わたしとはまったく釣り合わず、わたしが彼のことを嫌っていると思い込んでいる。
「わが身可愛さだった。自分が傷つくのが怖くて、あんな態度をとってしまった。いくらおれのことを嫌っていても、あんな態度をとられたら彼女が傷つくのはわかっている。それでもあんな態度を……」
侯爵はわたしに、というよりかはアールに涙をボタボタと流しつつ何度もつぶやいた。
その強面をじっと見つめると、年齢の割にはハリがあってきれいな肌だと思った。睫毛は長いし、夏の空と同じ色の蒼い瞳は吸い込まれそうなほど美しい。眉毛の形もキリリとしているし、鼻筋も通っている。口の形もよく、唇はぷっくりしていて可愛らしい。眉間に縦皺が刻まれている以外は、強面どころか美貌といえる。
このとき初めて、彼の顔を一度たりともじっくり見つめたことがなかったことに気がついた。
彼が怖かったというのもある。だけど、それ以上にその気がまったくなかった。
わたしもまた、自分が傷つくのを怖れていた。だから、彼と向き合うことを避けていた。
彼が宣言したからとか、彼には他に好きな女性や付き合っている女性がいるからだとか、そんな言い訳を連ねるだけで、自分から真剣に向き合おうとしなかった。
おたがいがおたがいを誤解していた。
「どこにも存在しないレディと付き合うふりをして外出し、日がな一日馬車で郊外を駆けまわったり、彼女の様子を窺っているだなどとは。王立公園で見られた女は、詐欺グループの一員だ。リエをひっかけたノーマンの女だ。まずノーマンがターゲットの奥方を誘惑し、それから女のほうが旦那を誘惑する。おたがいに浮気をさせ、おたがいから口止め料や示談金をせしめる。ノーマンの女をやっと見つけだし、その女からノーマンの居所をききだそうとしていた。リエは、ノーマンのところに行くだろうと推測したから」
苦笑とともにつぶやかれたその内容は、さらにわたしを驚かせた。
じゃあ、侯爵には好きだったり付き合ったりしているレディはいないわけ?
そうよね。彼は、はっきりレディに会ってくると言ったことは一度もなかった。
わたしが勝手にそう思い込んでいた。
それに、ノーマンは詐欺グループの一員だったのね。
わたしは、お間抜けにもまんまとひっかっかったというわけね。
「こんなことなら、もっとはやくに彼女に出て行ってもらうのだった。だが、彼女も嫁いできてすぐに離縁されると王宮に戻りにくいだろうと、いらぬことを考えてしまった。それがアダになるとは……。いや、いっそほんとうの気持ちを伝え、あっさりフラれてしまえばよかった。年甲斐もなく以前王宮で一度だけ見かけた彼女に一目惚れをし、今回の話が舞い込んできたときに躊躇せずに受けたということを告白すればよかった。彼女にとっては政略結婚だが、おれにとってはなにものにもかえようのない真実の結婚だったということもだ。いずれにせよ、彼女が知ったらよりいっそう失望するだろうな。だが、彼女が目を覚ましたら伝えるつもりだ。すべてをな。そして、いさぎよくフラれるのだ。だから、アール。おまえも彼女がすぐにでも目を覚ますよう、祈ってくれ」
彼の言葉のすべてが終った瞬間、頭と胸の中の何かが弾けた。すると、体中になにかが広がった。熱くてやさしくて愛おしくて尊いなにかが。
気がついたら、全身でよろこびをあらわしていた。具体的には、モフモフ尻尾を盛大に縦に横に振っていた。
すごいわ、わたし。尻尾を振っている。
感心したけれど、いまは犬なのだから当たり前よね。
一瞬だけ冷静になってしまった。
「アール、慰めてくれるのか?」
わたしの全力の「うれしいアピール」が彼に伝わったみたい。まあ、ちょっと解釈は違うみたいだけど。
その侯爵の泣き笑いの表情を目の当たりにした瞬間、つぎはまた先程とは違うなにかが溢れてきた。
「おいおい、そんなに慰めてくれなくても」
気がついたら、彼に飛びついていた。その反動で彼が尻もちをついたけれど、それでもかまわず彼のごつい肩に両前脚をのせ、彼の顔をペロペロなめていた。
キャーッ!
わたし、はしたないわ。
男性の顔をなめるだなんて、レディのすることではないわ。
だけど、犬だからいいわよね?
ということにしておきましょう。
とにかく、わたしだってわたしの気持ちをきいてもらいたい。
だけど、どうがんばっても尻尾を振ったりペロペロなめるくらいしか表現が出来ない。
驚くべきことに、それが唐突にやってきた。というよりかは、唐突に切れた。あるいは消えた。
まるで燃料がなくなったランプのように、ふっと意識が遠のき、ついには真っ暗になった。
「おい、アール。どうした? アール、アール」
彼の呼ぶ声を遠くでききながら最後に思ったのは、彼の涙は塩辛いということだった。




