【3】
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「やあ、そろそろ、君の時間が止まる頃かと思って」
含み笑いをしたまま彼がそう言うと、彼女は黙って目を閉じた。
「そうかい。もう、喋るのも辛いのか」
「………」
「だったら、そのままで聞いてくれよ」
彼は近くの椅子に腰を下ろすと、ゆっくりと息を吐いた。しばらくどこに視点を定めるべきか迷っていたが、結局のところ彼女を見つめるのであった。
「これが、本来あるべき人の姿か」
幾つもの管を纏った彼女の姿は、まるで醜い化物のようだ。ヒュー、ヒューと酸素マスク越しに聞こえる音は、正しく飢えた獣の呼吸そのものだった。
「生きることに、そんなに執着しちゃいけないね」
「………」
「いや、いやいや、別にバカにしているわけじゃないのさ。僕はね、むしろ感動している」
そっと手を伸ばして、彼女の髪の毛を梳いてやる。触るたびに抜け落ちて、はらりはらりとベッドに散る。
「そうかい。もう、落葉の季節か」
「………」
「なあに、気にすることはない。抜けたところで、またいずれ生えてくるさ」
「………」
「まあ、君の場合はどうか知らないけれどね」
「………」
まったく返答がないことに、彼は不思議な気持ちを覚えた。生きているのに自分の意思を伝えられないのなら、果たしてそれは生きていると言えるのだろうか。
仮に生きているとしても、それでは植物となにも変わりはない。
「ああ、そうか。だから、植物人間という言葉があるのか」
「………」
次第に彼は、話をしているというより独り言を呟いている気分になった。そう思うと、今の彼女になら何を話しても問題ないのではないだろうか。
「そうだね。この際、言ってみようか」
「………」
「君、自分が何者なのか、知りたいとは思わないかな」
「………」
薄らとではあるが、彼女の瞳が開かれた。
「だろうね。知りたくないはずが、ないだろうね」
「………」
「僕はね、実は君のことを色々と知っているんだよ。たとえば、君の生まれ故郷とか、どこの小学校を卒業したかとか、色々とね」
「………」
「まあ、知っていると言っても、知ったのはつい最近。いや、最近ではないか。ちょうど一年前ぐらいかな」
弱々しくも、見開かれた両目。彼女はほんの少しだけ首を動かした。
「僕と君が出会ったのも、ちょうど一年ぐらい前だったかな」
彼はちらっと、設置されているモニター心電図を見る。けれど、何も変化はない。
「僕はね、確かに君のことを愛しているし、大切に思っている。でも、僕らの間に芽生えたこの感情は、少しだけ血の匂いがする――なんて、ね」
「………」
彼女は再び、ゆっくりと目を閉じた。表情は変わらず、苦しそうである。
「まっ、分かっていると思うけれど、僕は冗談が好きだからね。それもとびっきり、つまらない冗談。だから、あとは君に任せるよ」
「………」
「さてと、もう決まったかい。君は、僕とのキスにどんな想いを馳せるのだろうかね」
馳せる――こればかりは失言だったと思いながら、彼は彼女の額に手を添える。
「………」
「じゃあ、約束通り」
「………」
彼女の身体に覆いかぶさるようにして、彼はゆっくりと口づけを施した。最期の接吻は少しだけ甘く、苦く、切なく、儚く、愛おしかった。
「やっぱりね。僕はどうにも、勘が鋭いらしい」
顔を離すと同時にアラームが鳴り響き、彼女の腕から力が抜ける。
彼はもう一度だけキスをして、静かに立ち去るのであった。
「ごめんね。最期のキスは、さ――」