【1】
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「お母さんのお見舞いは、もういいの?」
そう聞かれると、彼は決まり悪そうに目を逸らした。
「ああ、いいんだ」
「どうして」
「親子関係は冷え切っていたし、いまさらね」
深いため息をついて、彼はぐるりと病室を見まわした。どこに視線を送っても、目に入るのは白色ばかり。ここまで単調な部屋に閉じ込められたら、気が狂ってしまいそう。彼はそんなことを考えてから、再び彼女を見やる。
「君、いつからここにいるの」
「さあ、いつからかしらね」
「じゃあ、忘れてしまうぐらい、入院生活を続けているわけか」
おどけた調子で言ってみると、彼女はゆっくりと瞼を下ろした。その様は、まるでシャッターを切るようだ。
「あなたには、きっと分からない」
「僕には、分からない? 何がさ」
目を閉じたままでいる彼女を見ていると、彼はふと、こんなことを思った。もしかしたら、目を瞑っている今の状態のまま、二度と目覚めないのではないだろうか。
そんな彼の心配をよそに、彼女はやはり目を閉じたまま喋っている。
「入院している時間がね、長ければ長いほど、現実から切り離されてしまうのよ」
「と、言うと?」
「この場所には、時の流れというものがない」
言って、彼女は目を開ける。彼には視線を送らずに、窓の外へと顔を向けている。
「ここにいる人はみんな、死を受け入れる覚悟をしているのよ。明日死のうが、今日死のうが、私たちにとっては同じこと。だから、もうここは時が止まっているの」
「みんな、というと君も?」
「ええ、そうよ」
彼は、彼女の視線の先を辿っていった。そこにあるのは、昼下がりの空に何本もの縦線が入った景色である。
「鉄格子――自殺防止、か」
呟くように彼が言うと、クスッとした笑い声が聞こえてくる。
「こんなものなくても、死にやしないのに」
「どうだかね。人間、絶望の淵に立たされると、何をするか分からない」
「それは、絶望していたらの話でしょう」
微笑みながらもどこか嫌味っぽいその表情に、彼は肩を竦める。
「君は、絶望していないのか」
「さあ、どうでしょうね」
「さっき君は、この場所は時間が止まっていると言っていたけれど」
「それがどうかしたの」
「いや、それって結局、止まっているんじゃなくて、止めているんじゃないかと思ってさ」
「あら、あら」
唇を尖らせて、彼女はそっぽを向いた。それでもかまわずに、彼は言葉を紡ぐ。
「時間っていうのは、勝手に止まることはないんだよ。たとえ君が死のうとも、時は止まることなく流れ続ける。そうだろう?」
いじけたように、彼女は頭まで布団を被った。そのまま寝返りを打って、モゴモゴとなにかを喋っている。
「聞こえないよ、それじゃあ」
彼は、布団に手をかけてゆっくりと剥がした。
「あなた、意地悪なのね」
「さあ、どうだか」
「なによ、それ」
顔を半分だけ出している彼女の姿は、子供のようであった。彼は静かに手を伸ばすと、彼女の頬を愛撫する。まだ乾燥するような時期ではないが、肌は潤いを失っていた。
「一つ、言ってもいいかい」
「どうぞ」
「僕はね、止まってしまったらしい君の時計を、なおしてあげようと思う」
顔に薄らとした朱色が浮かんだ。彼女はそれを自覚したのか、両手で隠そうとする。
「ねえ、季節外れの紅葉って、どうかしら」
「さあ、どうだろうね。悪くはないと思うよ」
そう言ってやると彼女は、両手を顔から離した。いくぶん血色が良くなっている。しかし、上気した顔を見ていると、痩せこけた頬がより目立つ。
「それで」
と、彼女は唇をペロリと舐めてから言う。
「どうやって私の時計を、なおしてくれるのかしら」
「デジタル式のものなら、電池を換えてやればいい」
「旧式のものだったら?」
「ネジを巻き直してやればいい」
おどけた調子で言ってやると、彼女はわずかに微笑んだ。
「それぐらいじゃ、なおらないわよ」
「でも、君の時計はとてもシンプル。だから――」
そっと唇を重ねると、口の中に血の味が広がった。彼は唾を飲みこんで、少しだけ目を細める。しばらくの間を置いてから、彼女の胸にそっと手を添える。
「ほら、動き出した」
「そうね。今にも飛び出してしまいそうよ」
指先を通して伝わってくる鼓動。それはとても小さいけれど、確かに彼には感じ取ることができた。
「どうやらまた、時が流れはじめたようだね。それで、これからどうするんだい」
「そんなこと、決まっているじゃない」
そう言って彼女は、彼の手を強く握りしめる。
「また止まってしまうその時まで、あなたのことを待ち続けるわ」
彼女の笑顔に対して、彼は微笑みで返した。
「じゃあ、止まった頃に、また来るよ」
彼女の手を優しく解いて、彼は背を向ける。
「ねえ」
「どうしたのさ」
「次来るときは、嘘、つかないでいいわよ」
頭を小指で掻きながら、彼は何も言わずに歩みを進める。扉に手をかけ、ゆっくり開く。大きく一歩を踏み出すと、彼は少しだけ振り返った。
「そうだね。次は、君だけで済みそうだ」
彼は、それだけ言い残して立ち去るのであった。