甘い罠・後編
フィーナは困っていた。
ダグラス=ニルバ魔術部門総督によって仕掛けられたハニートラップにころっと引っかかってしまったために、なんとかノクトのご機嫌とりなるものをしようとは思っているのだが、なかなかうまくいかない。
まず、フィーナの前ではノクトは基本的に不機嫌ではないのだ。いくらダグラスにあいつは最近機嫌が悪いと言われても、フィーナにはその片鱗すら見えない。
やっぱりアレじゃないのか。不機嫌とかそういう問題じゃなくて、単純にダグラスの怠慢ぶりに腹が立って自立を促すために愛の鞭という名の放置プレイをしているだけなのではないかと頭の片隅でちらりと思ったりもしているのだが、如何せんそんなことは言えない。無くなったものは戻らない……食べてしまったケーキたちは返ってこないのだ。今朝、侍女のお仕着せのウエスト部分が妙にキツかったのが証拠だ。でも泣かない。食べた後に後悔するなんてケーキたちに失礼だ。うう……。
「どうしようかなぁ……」
「何がですか」
うわあ!! 突然かけられた声に本気で驚いて思わず悲鳴を上げてしまった。慌てて振り返ると、目を丸くしたノクトがこちらを見下ろしていた。
悩みの種の張本人の登場にフィーナは内心慌てる。ノクトは定例会議に出ていたはずだが、いつの間に戻ってきたのだろう。フィーナの混乱などつゆ知らず、ノクトが驚かせてしまいましたかと申し訳なさそうに謝罪する。それにぶんぶんと首を振って答えーーハッとした。
直接聞いてみたらいいんじゃないか。いま、ここで。
「せっ先生!」
ぴしっ、と挙手する。
「先生がイライラするときってどんなときですか!」
ノクトが瞠目して固まる。フィーナもまた挙手の姿勢のまま固まっていた。
ーー唐突すぎたか。そりゃそうだ。しかし、不機嫌の原因を知らなければ対策は練れないじゃないか。
「イライラ、するとき……?」
ノクトが神妙な顔つきになり、思案するように口元に手を寄せ、そして徐々に眉間に皺が寄ってくる。
「フィーナ、誰に何を言われたんですか」
何故だろう。いつもの師と変わらぬ優しい口調のはずなのに「どこのどいつに余計なこと吹き込まれやがった」と聞こえたような気がした。
ーーあ、やばい。逃げよう。そう思った。しかし、ノクトの追及の手からそう簡単に逃れられるはずもなく。
「フィーナ」
「う、うう……」
ノクトが再びフィーナの名を呼ぶ。ただ名前を呼ばれただけなのにこの強制力は何だ。あえなくフィーナは白旗をあげる。
「あの……ダグラスさん、が」
ぴく、師のこめかみがわずかに動いた。
壮絶な笑みだった。「ダグラスさん、ね」と低く呟く師の顔はいつも通り笑っているはずなのになんだこの温度差は。やっぱり不機嫌の原因はダグラスじゃないか。こんなの、フィーナが何を言ったってご機嫌とりなんか出来るはずがない。頼んだぜー、とすっとぼけた顔でひらひら手を振りながら去っていったダグラスに今なら言える気がする。やっぱりあんたの怠慢癖が原因みたいだよ! と。
「大方、閣下に私の機嫌を取ってこいとでも言われたんでしょう」
ーーどうしよう。おまけに全部バレちゃってるみたいだよ、ダグラスさん!!
どうしようどうしよう、フィーナの頭の中はそればかりが巡る。とりあえず謝っておくべきか。それが得策か。
「す、すみません先生。わたし、ダグラスさんの勤務、態度? が、そんなに悪いとは思わなくて……」
「……」
悪事の片棒を担いじゃいましたーーと言いたいが、あいにくフィーナはそんな小難しい言い回しは知らない。ハニートラップが! と力説したところで事実は変わらないし、実際、ノクトの眉間の皺は消えない。それどころか、先ほどよりも濃くなった気さえする。
ーーど、どうしよう。あきれられてしまっただろうか。どうしようもない人間だと思われただろうか。
顔色をなくしたフィーナが何も言えずにいると、ノクトがため息を吐いた。
「別に、閣下の勤務態度が悪いだとか事務仕事を極度に嫌がるだとか、嫌な仕事を人に押しつけるだとか、そんなことはどうでもいいのです」
「え?」
うそ、どうでもいいの? かなり問題ある気がするけれど。
「今更、そんなことで驚いていられません。何年あの人と一緒に働いていると思っているのですか。だいたい、あの人に書類一枚書かせている内に私は五倍の量の仕事がこなせます。閣下に事務処理をさせるくらいなら私がやった方が早い」
適材適所ですよ、とノクトは言う。なんかその台詞、前にも聞いたような。
ふとフィーナは首を傾げる。それでは、ノクトの不機嫌の原因ていったい何なんだ。それを聞くと、師がうっ、と言葉に詰まった。
「……」
「だって、いつもはダグラスさんの仕事、手伝ってあげていたんですよね? なのに、なんで……」
「……」
「先生?」
ノクトの目線が泳いでいる。唇を引き結んでしばらくむっつりと黙り込んでいたが、ややあって諦めたように口を開いた。
「……私はあの人が気に入らない」
「ダグラスさんですか?」
「それです」
フィーナが瞬く。それ? ……どれ?
「ダグラスさん、と。あなたは閣下を名前で呼ぶ。出会ったのは私の方がずっと早いのに、妙に親しげだし」
ぼそぼそと、たまらなく言いにくそうにノクトが告げる。意味が分からなくて一瞬固まってーーやがてその意味に思い至るとフィーナは今度こそこぼれんばかりに目を見開いた。
「やきもちですか!?」
フィーナの驚愕の叫びに、ノクトはこの上なく不本意げに顔を背けた。
□□□
フィーナがダグラスを名前で呼ぶのは、本人からそうしてくれと頼まれたからだ。妙に親しげなのは、父親に対するそれに似た親しみを感じているからだ。そして、ダグラスもきっと同じなのだろう。彼の、フィーナに対する態度はどこか娘や妹分に対するそれのようで優しくてあたたかい。嬢ちゃん、と呼ぶその声にはいつもそういった類の気安さがこもっている。そして、それはノクトに対しても同じだ。ダグラスのノクトに対する態度は、どこか弟に対するような親しみに満ちている。少なくとも、フィーナにはそう見える。
「ええとだから、つまりですね……呼び方に深い意味はないんですよ」
現在、フィーナは必死の弁解をはかっていた。どうやらやきもちを指摘したことが師の心の複雑な部分を刺激してしまったらしく、すっかり拗ねてしまったのだ。
「…………」
「せ、せんせーい……」
とりつく島もない。あううどうしよう。
「呼んでください」
「はい?」
「名前。深い意味がないのなら、私の名前も呼べるでしょう」
え。フィーナが声を上げる。その声が意外なほどに嫌そうな響きを持っていたからか、ノクトの目に傷ついたような色が浮かんだ。
フィーナがあわてて否定する。嫌なわけではないのだと。ただ、フィーナにとって「先生」という単語はノクトを指す言葉に他ならないので、いま改めて名前で呼ぶという意識がなかっただけだ。しかも、よく考えてみたらノクトの名を口にするのはほぼ三年ぶりかも知れない。公の場では姓の方を口にするし、普段はずっと先生と呼んでいる。
「よ、呼びます。よび、よ、呼び、ますよ?」
師がこちらを見つめている。何で名前を呼ぶだけでこんなに緊張しなければならないんだとフィーナは内心頭を抱えたが背に腹は代えられない。口の中で何度も師の名前を復唱しながら口を開く。うまく発音できるかーーそれだけが不安だった。
「ーーノクちょ」
ときがとまった。
□□□
フィーナは地に伏せていた。出来ることなら消え去ってしまいたかった。
「フィーナ、ほら、もう大丈夫ですから」
ノクトがフィーナの肩を叩きながらフォローしてくる。しかし騙されない。この人はさっきまで大笑いしていたのだ。そして今もまだ笑いを堪えている。騙されない。
弁解するなら、フィーナはもともと「ノクト」の発音が苦手だったのだ。以前はどうしてもうまく発音出来なくてわざと師の名前を呼ばなかった。ノクトを「先生」と呼ぶようになったのもそのためだ。だから、油断していた。一、二回きちんと口に出して確認してから言うべきだった。何故ぶっつけ本番でやってしまったんだ。「リカルド」だって以前はよくリカルじょ、と言い間違って本人に冷たい視線を向けられていたじゃないか。何故忘れていたんだ。
「う、うう……」
「まあ、いいじゃないですか。私としてはあの発音でもある意味全然問題ありませんが」
「そんなわけないじゃないですか! というか、違います。違うんです。さっきのはちょっとした手違いで、ちゃんと発音できますから!」
顔を真っ赤にしながらフィーナが続ける。
「ノクト。ほら、言えた。ね? 先生」
「……」
「ノクト、ノクト、ノクト。ほら」
得意げに続けるが、何故か師からは返事が返ってこない。不思議に思って顔を上げる。心なしか、師の目元が赤い。
「……ノクト、さん」
「……」
「ノクトさん」
ああもう、解りましたからと続けたノクトが、先ほどよりも濃くなった目元を隠すように顔を背けた。
後日、フィーナは任務を達成できませんでしたとダグラスの元に菓子折りを持って謝罪に行くのだが、今の二人にはあずかり知らない話である。




