16話 血魂の琵琶の導きと変わり果てたミレイ
樹海の生命の氣配を背に、再び石灰質の匂いが鼻腔を刺す地下道へと身を沈めた。
空氣は澱み、舌の上に鉄錆のような味が広がる。
壁面に這う苔が、わずかな燐光を放ち、影を幾重にも歪めていた。苔と岩を伝う水滴が、ぽつり、と闇に落ちる音が鼓膜を打つ。
かつて絶望と共に彷徨った記憶が蘇りそうになるが、今は違う。この道は独立都市ヘルキオスへと続く、勝手知ったる『帰路』。
何より、この闇の先に、ミレイの魂の氣配が待っている。絶望に濡れた重い足取りではない。一歩踏みしめるごとに再会への距離が、鼓動と共に縮まっていく。
……闇が深ければ深いほど〝血魂の琵琶〟が示す魂の光は鮮明になるはずだ――。
足音には迷いはなく、ただ力強く闇の奥へと反響していった。
更に、数千年のハルゼルマ要塞の経験と、数百年を超える逃亡と冒険のおかげで、地下での生存術は骨身に染みている――。
毒を持つ植物と水が豊富な植物。
――茸は数千種類、毒茸と健康をもたらす茸、そのすべてはだいたい覚えている。
吸血鬼には、毒でさえ栄養に変える。
勿論、吸血鬼に効く毒茸は存在する、その場合は体調を崩す。
……水場の場所も覚えている。氣配を殺して危険な縄張りを迂回し、食料が多い地下道を進む、血を得られる地下生物を狩り続けた。
――それ自体はもはや日常の一部。
安全な休息場所を見つける嗅覚も、追手の氣配を察知する感覚も研ぎ澄まされている。
だが、旅はそれだけでは済まない。
地下世界は単に広大で暗いだけではない。
地上以上に多様な勢力が剥き出しの生存競争を繰り広げる混沌の坩堝――。
今も、巨大な地下空洞の先に反応を得た。
視界の隅を黒い影が掠めると、粘液が滴る音が響く。
闇から這い出てきたのは、おびただしい蟲の大柄怪物。
体表に無数の顎を蠢かせ、鎌のような鋭利な刃を突き出している。
魔神帝国から流れ着いた魑魅魍魎の類か。
一体が顎を動かした刹那、酸の混じった粘液が飛来し――。
足元の岩が白煙を上げて溶けた。
回避した直後、別の個体が地を蹴って跳躍してくる。
宙で独楽のように回転し、刃と化した無数の足を全方位に振り撒きながら襲いかかってきた。
右に移動し、複数の刃鎌を避けたが――。
数本の防ぎきれない刃鎌の振り下ろし攻撃を覇王のシックルで受け止めた。
――甲高い金属音と火花を散らしながら強引に払い除けた。
刹那、魔刀鬼丸を突き出しながら<血道第三・開門>、<血液加速>を発動――。
<血魔力>に乗るように加速前進し、魔刀鬼丸の切っ先で、迫る刃鎌を有した足を尽く貫き、がら空きになった懐深くに潜り込む。
零距離から左足の踏み込み、腰を捻りながら右腕ごと闇夜剣になった如くの、白焔が包む闇夜剣を突き出した。
寸分の狂いなく蟲の頭部の複眼を穿ち、頭蓋と脳髄をも貫いた。
その白焔が包む闇夜剣を引く――。
蟲の大柄怪物は絶叫を上げる間もなく、ズッシュゥと白焔に溶かされるような音を響かせながら、沈黙した。
白焔が包む闇夜剣の形状を覇王のシックルの湾曲した刃に戻しながら、
「――蟲の怪物、名の知らぬ地底神の勢力と思うが、覚悟はいいな? 行くぞ――」
迷わず突進。魔刀鬼丸による<血剣・一穿>が、一体の怪物の甲殻を易々と貫く。
間髪入れず、覇王のシックルが白焔を纏う闇夜剣へと変化。その薙ぎ払いは<血剣・枇杷薙ぎ>となって弧を描き、迫る蟲の群れをまとめて両断した。甲高い悲鳴と体液の臭いが立ち込める。
蟲の多足怪物に飛び掛かり袈裟斬りから、飛び蹴りを行い、吹き飛ばし、二つの得物と己を回転させることもある<血剣・双回し>のスキルを用いて、次々に薙ぎ倒していく。
<血魔力>が増幅するほど力を得て強くなるほどの数時間の戦闘後、すべの蟲の多足怪物を倒しきったが――。
他にも、闇の奥からは新たな無数の蠢きが迫っていた。
腐臭を放ち、引きずる足音を響かせるアンデッドの巨人――。
その巨人の足下を潜るように両足を魔刀鬼丸と白焔が包む闇夜剣で斬る。
巨人が倒れかかり、その巨体が影を落とす。だが、その場から一歩も動かない。頭上から迫る後頭部目掛け、白焔が包む闇夜剣を突き上げ、<血剣・白雷遷架>を解き放った――夜気を貫く白雷の十字奔流が、巨人の頭部と背骨を瞬時に蒸発させ、その巨体は衝撃波と共に霧散した。 白雷の奔流が闇夜剣へと収斂していく。柄のかすかな振動が、この覇王のシックルという武器の傑出性を改めて伝えてきた。
余韻はない、アンデッドの巨人は、他にもいる。
無数のアンデッド兵と、更には、空間を歪ませる不定形の影も見えていた。その巨人が、前方から地ならしを行うように前進してきた。
逃げずに突破だ――。
独立都市ヘルキオスとエイハブラ平原地方への道は、この地下通路を通ったほうが近い――。
前に出て数十の巨人の足を切断し、駆けた。
巨人の他のアンデッドの骸骨兵を斬り裂き続けて倒しまくる。
更には、空間そのものを歪ませる不定形の影をも祓い倒して、突き進む。
不定形の影はアンデッドと違い――。
捉えどころのないが、白焔が包む闇夜剣なら切断は可能――。
今も袈裟斬りと逆袈裟で二体連続的に斬り捨て塵と化した。
雷を活かすように、<血文王電>を発動させる。
両手の指先から無数の血雷の刃が迸り、体の造形を歪ませる不定形の影を幾度となく切り裂き、蒸発させるように倒した。
硫黄と銅が燃えたような臭いが鼻を衝く。
だが、狂気と物量に終わりはない。
絶え間なく続く波状攻撃に次第に呼吸が浅くなり、筋肉が軋むような悲鳴を上げ始めた。それでも足を止めることは許されない。突き動かすのは破壊と捕食の衝動か、それとも――。
<影刻加速>を用いた加速と覇王のシックルの白焔が包む闇夜剣を使う――。
様々な勢力との戦いにおいて危機はそれなりあったが、囲まれたら〝血魂の琵琶〟を使うことで、大概は切り抜けられる。
しかし、消耗は避けられない。一体一体は、対処できても――。
圧倒的な物量と狂氣はまともに相手をすれば死を招くだけだ。
両手の武器を消し、両手の指から<血文王電>を伸ばし、十を超える雷状の刀が宙空ごと、数十の不定形の影を斬り裂いた。蒸発させるように倒し退路を得てから、すぐさまその場を離脱する。
独立都市ヘルキオスへの帰還の道は真っ直ぐ行くほうが近いが、仕方ない。
多少の遠回りだが、今は生き延びることが先決で、ミレイの元へ辿り着くことが最優先だ。
またある時は、古代の遺跡が広がる区画で――。
全身を重厚な鋼鉄鎧で固めたドワーフ部隊と遭遇した。
唸るような魔力を帯びた装備類、戦鎚や斧には呪文らしき紋様が刻まれており、尋常ならざる殺氣を放っている。
ドワーフたちは多くの先祖や神々を信奉する種族、神界セウロスの神々や旧神の神々でもないような神意力を帯びているような氣がする。
彼らの多くは神界側の神々を祀るが、中には魔界の旧神や呪神、あるいは亜神を信じる異端の一族、支族もいると聞く。
そんなドワーフ部隊の厳重な警備網に接触しかけた――。
なんとか<血道・隠身>を使用し、氣配を殺して、身を潜めた。
明らかに、俺に美味しい食事を提供してくれた行商のモリモンたちとは大きく異なる。
ソレグレン派と繋がりを持っていた俺の父、そしてハルゼルマ家は、彼らにとっても敵対勢力と見なされかねない。もし見つかれば、無用な争いは避けられないだろう。
再び、前進したが、またもドワーフの軍隊が前方に――。
幸い、彼らの注意を引く前に、素早く気配を殺して別の坑道へと迂回した。
この地下世界は、ただ闇が広がるだけでなく、それぞれの勢力が複雑に絡み合い、決して地上よりも安全ではないことを改めて思い知らされる。
息を潜め、金床を打つような鎧の音や、低い唸り声が遠ざかるのを待つ間、背筋を冷たい汗が伝った。
その時、背中の中央に、またあの疼くような奇妙な熱を感じた。 この長すぎる旅路で時折感じるようになった、内側から何かが脈打つような感覚。今は確かめている暇はない。
首を振り、意識を前方に集中させた。
地下では、力だけでなく、こうした政治的な縄張りや種族間の対立にも常に氣を配らねばならない。
しかし、肌にピリピリとした魔力を感じ、魔刀鬼丸の握りを強める。
一触即発の緊張感が全身を包んだ。
数えきれないほどの分岐路、崩落した通路、古代の罠。
時折、覇王のシックルがわずかに反応し、進むべき方向を示唆してくれる。
それが唯一の救いだったが、それとて確実ではない。
足音だけが、果てしなく続く石の廊下に響く。
踏みしめるたび、靴底が叩く冷たい音――。
それが闇の向こうへ吸い込まれて静寂に呑まれて消える。
昨日と今日の境界さえ曖昧になる――。
また、今日もあした、あした、そして、あしたと、しみったれた足取りで、日々が進む。
天井から垂れ下がる鍾乳石が、千年の時をかけて一滴の雫を落とす。
その音が虚無の空間に吸い込まれ、やがて遠い地底湖の水面を震わせる。
ここでは時間さえも石化し、永遠と一瞬が同じ重さで俺を押し潰そうとしていた。
不意に足を止め、音を見やる。静かで、漆黒の闇、その眼下の虚無の闇へと問いかける。
目を閉じれば、今も隣で凛と佇む彼女の氣配を感じられる氣がした。
だが、目を開ければ、そこにあるのは虚無だけ。
……その落差が、胸を締め付ける。
……この闇は何を映すのだろう。
俺の過去か。未来か。それとも、何もない虚無そのものか。
歩き続ける理由は何だ? ケンダーヴァルへの復讐か?
いや、違う。今の俺を突き動かすのは単純で、もっと切実な願い――ミレイを救うこと。闇の中で、彼女の面影が明滅する。かつて共に在った彼女、再会し温もりを得た彼女の笑顔――それがナイフのように突きつけてくる。
……笑顔、困った顔、凛とした横顔。それらの記憶だけが、この果てしない回廊で唯一の道標だった。
「生きていてくれ、ミレイ」
その願いが、答えだ。
止まれば、この静寂と思考の闇に呑まれてしまう。
だから歩く。過去から未来へと続く一本の糸を渡るように。
覇王のシックルの反応もあるが、不思議と恐怖はない。
彼女への想いが、この身を支えている。
だが、そんな想いとは裏腹に、現実は、モンスターだらけ。
そして、地下のモンスターから襲撃は<血道・隠れ身>が通じない場合もある。
その場合は即座に<影刻加速>を使用し、魔刀鬼丸と腰に下げた覇王のシックルを使い、モンスターを斬り殺し、<吸血>して、血を得て活力を得た。
更に、〝血魂の琵琶〟を奏でて……。
ミレイへの想いをかねて歌い弾く。
すると、〝血魂の琵琶〟が体内の血と共鳴するように脈打ち、<血魔力>と魔力が放出された。
<血魔力>は特定の方向を示す。
撥と化している覇王のシックルからも<血魔力>が伸び、特定の方向を示す。
それは以前、ミレイと別れた後に感じたものと同じ、魂に響くような共鳴――。
分泌吸の匂手とは異なる、俺とミレイだけの血の繋がり……。
だが、感覚的にミレイではないモノもあるような氣がする……その血魔力の流れは、俺の意志とは無関係に思考を塗りつぶすほどの強い『引力』を伴っている。そして、俺の魂そのものが、そちらへ引きずり込まれるかのようだ。
ケンダーヴァルや古代狼族の追手の氣配は、幸いにもこの深部までは届いていないようだ。
あるいは、この複雑な地下経路で撒いたか。
一縷の望みを託し、覇王のシックルの振動よりも〝血魂の琵琶〟の反応が強い、その〝血魂の琵琶〟から放出され、俺を誘導するように先へ先へと伸びゆく<血魔力>の魔線を掴むように進む。魔線を進むたび、〝血魂の琵琶〟から自然と音が響く――。
ミレイの顔が浮かんで見えたような氣がした。
――これは、罠かもしれない。危険な香りがする。
だが、この血と魂に響く導きに抗うことはできない。
従う以外に道はないように思えた。
〝血魂の琵琶〟の導きに従い、複雑な地下道を駆け抜ける。
やがて頭上からわずかな風を感じ、土の匂いが変わった。地上だ。
地上へ這い出た瞬間、肺腑を灼くような濃密な瘴気が襲った。
山脈の麓の霧と緑地帯が前方に見えている。目の前は森か。
ここはエイハブラ平原の東にあるゼルビア山脈の前に広がっている【竜と雲の毒森】だろうか。――その名の通り、樹々の梢から紫煙が立ち昇り、低く垂れ込めた雲と混じり合っている。それは巨大な竜が吐く毒息のように渦巻いて見えた。
樹皮は黒く変色し、触れた葉が瞬時に灰と化すのを目の当たりにした。
森の奥、山のほうへと〝血魂の琵琶〟から出ている魔線は伸びていた。
魔力は続いて……ミレイに歌い奏でた曲が自然と響く。
――数日後、森を抜けて、山の麓の巨大な洞窟の出入り口にたどり着いた。
周囲には、最近まで激しい戦闘があったような痕跡が生々しく残っている。
〝血魂の琵琶〟が奏でる切ない音、その導きを示す<血魔力>の魔線、そして掌で激しく振動する覇王のシックル。
そのすべてがあの洞窟の闇を指し示していた。ミレイがあの中にいる。もはや疑いようのない確信が、心を焦がした。
警戒しつつ、洞窟の出入り口の開けた場所に移動した。
青蜜胃無とは異なるモンスターがぴょんぴょん跳ねながら、洞窟の中に入っていく。
結界のような魔力を感じたが、構わず、その洞窟の内部へと足を踏み入れる。
結界を越えた瞬間、空間の質感が一変した。
壁面の右と天井の一部が生きているかのように脈動し、床は柔らかく俺の足跡を飲み込んでいく。
天井からは見えない何かが滴り、それが床に触れると小さな泡となって消えた。
この迷宮そのものが、巨大な生き物の体内にいるような錯覚を覚える。
既視感のある魔力の氣配と、そして……かつてのミレイのものと酷似した、しかし決定的に異質な血の氣配が強まっていく。
〝血魂の琵琶〟が響きは弱まるが、<血魔力>の魔線は強まる。
覇王のシックルの振動が更に強まった。
……本当にミレイがいる! 魔素が至る所に感じる、スライムのような姿のモンスターが洞窟の左右に出現したが、無視――。
背後から、
「何者! ここはアケミ様の迷宮です!」
「あなたは、魔人帝国ハザーンの侵略者ですか!」
奇妙な声が耳に届いた。スライムもどきが共通語を喋る?
驚きだが、平静を装って半身になり、
「この洞窟は迷宮か、俺はハルゼルマ家、ソーニャ・ラヴァレ・ハルゼルマ・ルグナドの<筆頭従者>。地底神の連中ではない」
「え! 吸血鬼! あ、では……」
一匹のスライムの発言に続いて、もう一匹のスライムが、
「そして、魔神帝国ではなく、まじんていこく、はざーん。という名の勢力です。地底神たちの獄界ゴドローンの魔神帝国ではありません!」
と、発言していた。
そのスライムたちが元氣に必死に訴えかけるように言い募る。頷いて、
「了解したが、俺は侵略者ではないミレイの反応があるからここに来た、そのアケミとやらには関係ない、ミレイに会いに行く――」
そう告げると迷宮の奥へ体の向きを変えて、迷宮の奥へと歩き始めた。
逸る心を抑え、罠などスライムの騎士などが出現したが、<血道第三・開門>――。
体内で血が沸騰するような感覚。
<血魔力>が血管を駆け巡り、限界を超えた加速が可能になる<血液加速>を解放――視界が歪むほどの速度で迷宮の奥へ突進する。
更に、<影刻加速>をも使い加速を強め、影を蹴り纏うように跳ぶ――。
両足が壁に吸着したような印象のまま駆け上がり、天井に両足を突き立ててはドッと重低音を響かせ、空間を跳躍し、奥へと向かった。
最深部へ踏み込んだ瞬間――。
それまでの有機的な迷宮とは異質な空間となる。
水晶のように透明な床の下には、無数の魔法陣が幾何学的に配置され、青白い光を明滅させている。
壁面には、血管のような赤い筋が走り、それが巨大な鏡へと収束していく。
ここは、膨大な魔力の質からして、迷宮の心臓部だろう――。
生と死、有機と無機が混在する境界に思えた。
そして、右の奥にいたのは、巨大な鏡と薄い鋼板の魔道具を操作する黒髪の少女。
若い娘、魔術師だと思うが見慣れない衣装を身に着けていた。
その若い娘は、
「『騎士スラ』が突破された、え、もう……」
と、呟いた。
太く整えられた眉毛と細長い目が大人しそうな印象を持つ。
小さな鼻とアヒル口が子狐のような可愛らしさを醸し出していた。
その傍らに控える異形の者たち。
腕と脳だけの怪物、スライム状の変わった格好の剣士と、可愛らしいスライムたちと、ずんぐりとした大兜の兵士、その中で、一体の存在から目が離せなくなった
それは、血を固めたかのような深紅に染まった骨で構成された鎧。
深淵のような黒マントを羽織る。
胸の中心に、墨色の心臓のような紋章があり、それが蠢いて、魔力を放っていた。四本の骨の腕には、それぞれ血のように濡れた骨剣が握られており、その切っ先は虚空を裂くかのように揺らめいている。
覇王のシックルがブレて、自然と撥を化した。
〝夜帯華紐〟のアイテムボックスが自然と動く。
自然と〝血魂の琵琶〟を出した。
〝夜帯華紐〟から自然と魔力の紐が伸びて〝血魂の琵琶〟と繋がり、振動が起きて、血の『弦』から音波が出ていた。
音波に反応したようにミレイだと思われる骨騎士が動く。
ミレイの反応が強いが、知っているはずの面影はどこにもない……俺が知る、美しく、しかし儚かったミレイとは似ても似つかない姿。
だが、その魂の氣配、纏う<血魔力>の根源的な部分に間違いなくミレイを感じた。
……ミレイ……。
疑問が声になるより先に、魂が歓喜に震え、肯定していた。この魂の響き、この<血魔力>の懐かしい温もりは、紛れもなく彼女のものだ。
魂が歓喜に震え、肯定している。この魂の響きは、紛れもなく彼女のものだ。
だが、視界に映る光景を、脳が、全身が、理解することを拒絶した。血で塗り固められた骨の鎧。虚無を宿す眼窩。四本の腕に握られた禍々しい剣。
記憶の中のミレイ――月光のように白い肌も、夜空よりも深い瞳も、誇り高い彼女の姿が、目の前の悪夢と重なった瞬間、思考が焼き切れた。息が、できない。
「誰だ? ここは迷宮主アケミ様の領域だ。不法侵入者は排除する」
冷たく、抑揚のない声――。
だが、確かにミレイの声だ。
その無機質な響きが先ほどまでの葛藤を吹き飛ばし、心臓を氷の刃で貫いた。
込み上げるのは絶望か、怒りか。いや、そのどちらでもない。ただ、胸を抉るような途方もない哀しみが、思考を麻痺させた。
愛する者を守れなかった、無力な<筆頭従者>への。
だが、どれほど姿が変わろうとも――この魂の響きは、間違いなくミレイのものだ。
胸で<血魔力>が激しく波打つ。
愛しい人への想いと彼女をこのような姿にしてしまった自分への憎悪が、血管を駆け巡る。
俺は……。
すると、隣にいた黒髪の少女、魔術師が驚いたようにこちらを見て、
「あなたは……!? 何者ですか? あっさりと侵入を!」
アケミは警戒を露わにしている。
だがミレイが先だ、たとえミレイが俺を忘れていても、たとえこの姿が永遠に続こうとも。
俺は彼女を取り戻す。どのような代償を払ってでも――。
「――ミレイ! 俺だ、ウタジだ!」
声が裏返る。この異形に向かって必死に呼びかける自分の姿が、どこか哀れに思えた。だが構わない。たとえ無様でも、彼女に届くまで叫び続ける。
「分からないのか! なぜこんな姿になっている。ミレイ、お前に一体何が起きたんだ!」
ミレイに向かって叫び、撥の覇王のシックルを向けると撥が再び強く脈打ち、覇王のシックルの形に戻る。<血魔力>と共鳴しているように淡い白と黒の光を放った。
胸のベルトの〝夜帯華紐〟と繋がる〝血魂の琵琶〟も弦を響かせる。
その光と音に呼応するかのように、ミレイの血骨騎士の胸の墨色の心臓紋章が激しく明滅し、彼女は苦悶の声を漏らして頭を押さえた。
「ぐっ……あぁ……この光と音……頭が……」
断片的な記憶の奔流が、ミレイを襲っているようだった。
「ミレイ!」
一歩踏み出した。
黒髪の女魔術師と他の者たちが警戒するが、今はミレイしか映っていなかった。
ミレイを救わなければならない。だが、どうして、この変わり果てた姿に!
「待ちなさい! あなた、ミレイの知り合いなの!? 彼女に何をする氣!?」
黒髪の魔術師が杖を構え、俺とミレイの間に割って入ろうとする。
その時、迷宮の入り口方向から、聞き覚えのある咆哮が響き渡った。
「アケミ、いるかい、声が響いているが、騒がしいねぇ」
人族風の赤髪の女が小形のドラゴンを連れて、こちらに歩み寄ってきた。
「サジハリさんとバルミント!」
サジハリとバルミント?
だれか知らないが、苦しむミレイが先だ。
黒髪の魔術師と腕と脳だけの怪物、スライム状の騎士や変わった格好の剣士を見やる。
そして、
「アケミが名かな。ミレイはどうしてこのような姿になってしまったんだ」
「ミレイを知る……ハルゼルマ家の吸血鬼なの? でも、ミレイが苦しむなんて、おかしい……あ、もしかして……」
アケミもミレイこと血骨の騎士を心配している。
「その通り、俺はハルゼルマ家、<筆頭従者>だった、名はウタジ。このミレイも<筆頭従者>だった。昔は……」
「……ああアァッァ――」
突然ミレイの血骨騎士が異形の叫び、骨剣をガシャン、と床に叩き落とす。
骨剣の柄は〝愛華〟だった。と、想像もつかない獣のような速度で突っ込んできた。
四本の骨の腕で俺の胸を掴み、締め付けてくる。
指は硬く、冷たい感触だ……しかし、その奥に、かつてのミレイのわずかな温もり……。
あるいは魂の震えを感じた氣がした。
頭蓋骨が顔のすぐそばにまで近づけられ、赤く燃えたような瞳が激しく揺れている。
その眼窩に灯る光には感情が読み取れない。
刹那、俺の〝血魂の琵琶〟に触れたミレイの影響で、〝血魂の琵琶〟から自然と音が響く。
『血』と『月』と『魂』の弦が連続して響く。『月』と『魂』の弦が緩やかに……『月魂の調べ』と呼ばれるこの奏法――聴く者の魂に直接語りかけるような効果を持つ。
ミレイを見ながら、
――壊れた月の光に誓おう
――覇王のシックルと魔刀鬼丸よ
――血の旭影共に戦わん
――明日の夜明け信じて進む
最後の節を歌った。
……ミレイ、お前の眼で、俺を見てくれ……俺の声が聞こえるか?
お前を守れなかった俺を、許してくれとは言わない……。
だが……どうか、思い出してくれ。俺たちが共に過ごした日々を……。
四つすべての弦が連動し、自然と音を発した――。
音色は低く厳かで時に激しく、時に悲哀を帯びて洞窟内に響き渡った。
ミレイの心臓部に亀裂が走る。ミレイは腕を放した。床に落ちた〝愛華〟の柄が振動し、骨剣に亀裂が走り、〝愛華〟の柄から流れた<血魔力>が溢れ骨が削れ落ち、〝血ノ旭影〟だった剣身が現れ始めていた。
ミレイは、
「お、お前……私……の何か……あぁぁ……熱い……」
頭蓋骨の眼窩に揺れる炎のような瞳に俺を映す。
それはミレイの目だ。間違いない。彼女は、俺に反応している。
あの異形の中で、ミレイの魂が悲鳴を上げていた。
「ミレイ! 俺を見ろ、ミレイ……俺はここにいる……」
「アァァァァ……」
ミレイ……。
「ミレイ、どうしたの、え!!」
アケミという名の黒髪の魔術師が叫ぶ。
少女の背後にあった巨大な鏡、おそらく迷宮核と繋がっているのだろう表面が、血を吐いたように赤黒く閃き、不安定な波動を放った。
「迷宮核が共鳴している!?」
すると、剥き出しの脳髄とそれを支えている片腕怪物ソジュが、
「ハルゼルマ家の生き残りが、まだ居たとは驚きです。しかし、アケミ様、ミレイの心が、どういうことか、迷宮核から離れようとして……未知の現象です」
と粘つくような声で発言した。
その言葉を聞いた瞬間――旅路で常に感じていた背中の疼きが思考を焼き切るほどの激情に変わり、
「――ッアアアアアアアッ!!」
灼熱の激痛を感じながら喉から炎が放出される勢いで叫ぶ。
魂の奥底から制御不能の力が噴き上がった。
覇王のシックルが悲鳴を上げたように甲高い音を響かせ、制御不能の<血魔力>が白銀の稲妻となって周囲に迸った。
体と空間そのものが軋むような音が響く。
刹那、背から血の塊状の内臓の欠片のような物が出現した。
それが蠢き、輝きを発しながら、俺とミレイを守るように無数の繊維を周囲に展開させ、ドッと衝撃波をも放った。
これは、俺の力なのか――?
理解を超えた現象に呆然となった。
「きゃぁ――」
「うげぁ――」
「「えっ――」」
アケミたちが吹き飛ぶ。
内臓の欠片のような物は……母が研究していた……。
すると、サジハリと呼ばれた女が、小形のドラゴンを伴い、吹っ飛ばされたアケミたちを避け、余裕の態度で俺たちの近くまで来ていた。
赤み掛かった長い髪が風もないのに背中で静かに揺れている。
赤い冠のような額当てを身に着け、皺はあるものの美しさと威厳を兼ね備えた顔立ちが印象的だ。
興味深そうに俺の体から出た内臓のような物を見つめながら、口元に微かな笑みを浮かべ、
「――ほぉ、アケミ、そいつは吸血神ルグナドの一部、しかも、相当に変質している一部の内臓、腸か? しかもだ、神界の生命の神アロトシュの氣配も感じるよ、どういうことさ」
「ガォォ」
サジハリが語る横で、小形ドラゴンが低く唸る。
そういうことか……。
「え!?」
「なんと!?」
アケミたちが驚く。
母の研究、〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟の一部か……ケンダーヴァルにすべては奪われていなかった。
その血妙魔らしい不思議な神々しい器官、内臓の一部から、またも衝撃波が発生し、それが波紋のように広がった。神々しい内臓から無数のチューブ状の太い血管と蠢く内臓の一部が意志を持つかのように四方八方に伸びていく――。
それらが逃げ惑うアケミたちや、迷宮の奥から飛来する塊を弾き、牽制しながら、ミレイの血骨騎士と俺の体に絡みつき、付着していくと連続的に衝撃波を発生させていく。衝撃波には魔法の文字のような物も含まれていた。
血管と器官が絡みついた内臓のような物は、俺とミレイの血骨騎士を文字通り「引き合わせ」てくる。
血骨、いや、血骨重騎士と喩えたほうが良い異形。
しかし、近づけば近づくほど、その体から懐かしいミレイの匂いがした――。
その匂いに応えるように、<分泌吸の匂手>を行うと、
「……血、血……<血魔力>……う、うた……」
ミレイは己の声を取り戻すように震えた声で俺の名を呼ぼうとしてくれた。
途端に、足下に落ちていた〝愛華〟の柄からも<血魔力>が放たれ、〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟と俺の体と繋がった。
柄の〝愛華〟の表面と剣身に付いていた骨がすべて落ちる。続いて〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟から出ている血管が〝愛華〟の柄とも繋がった。<血魔力>が太くなり、剣身の骨は完全に取り除かれる。
昔の〝血ノ旭影〟の魔剣の姿を取り戻していた。
それが自然とミレイの血骨騎士の眼前に浮かぶ。
頭蓋骨の一部は崩れていた。
「……あぁ、これは〝血ノ旭影〟……わたしとウタジの……」
「ミレイ!!! そうだ、俺だ! ウタジだぞ!」
「あぁぁ……」
血骨騎士の眼窩から血の涙が流れていく。
ミレイだ――!
胸の奥で何かが弾けた。凍りついていた希望が一氣に溶けて全身を駆け巡る。彼女の心は、あの異形の奥で確かに生きていた。
血妙魔から伸びる血管と器官が、迷宮核と融合したミレイの心臓部へと、するりと入り込む。
「あぁぁぁ――」
ミレイが叫ぶ。そのミレイの血骨騎士の体に亀裂が入り、骨腕が左右の上腕だけを残して崩れ落ちた。
ミレイの体を構成している重厚な骨と血肉が、ミレイの体の内にめり込み、心臓部が露出した。
ミレイと融合している、赤黒く脈打つ迷宮核の一部が完全に露出した。
その瞬間、俺とミレイの血が深く共鳴し始めた――。
互いの魂が直接繋がり、一つに溶け合うような、新たな感覚。これが、血と魂の共鳴――。
ピコーン※<血魂共鳴>※スキル獲得※
そこに、血妙魔から出ている無数の繊維と血管と内臓が積極的に干渉し始めていた。
それは癌細胞を切り離すかのように、徐々に迷宮核とミレイの血骨騎士の内臓を分離していく。
血妙魔が、迷宮核の魔力を吸い取っている?
失われた体内組織を修復するかのような、異様な光景だ。
俺の血管を通して、大量の<血魔力>がミレイの体へと入り込んでいく。
更に、血妙魔から柔らかい血肉と無数の血管、繊維状の物がドッと増殖し、それらが崩れ落ちていくミレイの血骨騎士を優しく包み込んでいくと、血色の繭のような物を瞬く間に宙空に形成された。
迷宮が振動し、奥のほうから複数の塊が飛来してきた。
アケミたちは〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟から放出されている衝撃波の影響か、なんらかの干渉によって動けていない。
ミレイを守るべく前に躍り出た。
魔刀鬼丸が空を裂くように飛来する塊と衝突――金属音が響いた。
硬いが弾けた――。
更に、〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟の欠片から衝撃波がまたも発生した。
衝撃波は俺たちを守るように迷宮の奥から飛来した複数の塊を連続的に弾く。
新たに、血肉と繊維のようなモノで防御膜を生成してくれた。
すると、浮いていた〝血魂の琵琶〟が俺に近づいてきた。
それを掴んで――直に右手の爪を『月』の弦に深く食い込ませ低く弾く――。
その音の振動を、即座に『魂』の弦へと伝えた。
またも『月』の弦を連続で爪弾く――『魂』の弦を左手で押さえながら緩やかに揺らす。続けて『月』の弦を、指先で転がすように連続して繊細に爪弾く。
それに合わせ左手で『魂』の弦を、心の震えを映すかのように細やかに揺らした。
音色は、夜空の月光のように儚い――。
そして、魂の奥底に直接染み渡るかのような、切ない響きを持つ。
『月魂の調べ』と呼ばれるこの奏法は、聴く者の魂に直接語りかけるような効果を持つ――。
その曲に反応したようにミレイがいる巨大な繭が鳴動したように伸縮を繰り返す。
心臓の鼓動音も響いてきた。
すると、〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟から血の繊維がまた広がった。
盾のような内臓にも見える物も生成される。
必死に琵琶を奏でると、〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟の蜘蛛の巣のような盾が、縦横無尽に動き、迷宮の奥から飛来してきた塊を次々に弾いていった。
俺たちを迷宮から守っている?
「これは――」
アケミと呼ばれた魔術師が狼狽したように俺たちを見ていた。
そのアケミは、背後の巨大な鏡へと、魔力を込めている。
そこに、脳髄を片腕で支えている怪物ソジュ、その脳髄が脈打つように蠢き、脳の表面の無数の血管が青白く浮き上がると、複数の魔法陣を周囲に生成し、
「――ぐぬぁ」
と奇怪に叫びながら、魔法陣によって、〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟の衝撃波に干渉を試みては、失敗していた。
そのソジュは、
「アケミ様、これは迷宮核に干渉です――神話級の代物、これほどの――」
アケミは己の胸に片手を当て、
「……私の迷宮核も熱い、ミレイが……でも、あ、ミレイの心が……これは、私が、ミレイを迷宮核に繋ぎ止めること自体が……ミレイを苦しめているようです」
すると、サジハリが、
「驚きだねぇ、どうする、介入してもいいが、そこの<筆頭従者>は、ミレイの大切な存在なのは確定だ。そして、どう見てもこっちの兄ちゃんと再会できたことの方が幸せそうじゃないか。あんたが繋ぎ止めるのは、もう野暮ってもんじゃないのかい?」
サジハリの声を聞いて安堵感を覚える。
アケミは、俺と繭に包まれたミレイを見て、
「はい、それは分かっています」
と小声をつぶやき、
「サジハリ様、大丈夫です、手出しは無用、そして、うん――」
と何かを悟ったように深く頷くと彼女の切れ長の目に決意の光が宿る。
子狐を思わせる顔に浮かぶのは、憂い、いや、優しさに溢れた微笑みだ。それは俺とミレイを未来へ送り出すための祝福の色に見えた。
アケミは、胸元が開いたローブを左右に広げると右腕の篭手のようなアイテムボックスから薄い鋼板の魔道具を取り出し、それに細い指を当てた。
爪はミステリアスカラーに染まり、その指先が端末を操作する。
子狐を連想させる可愛らしい顔に決意の表情が浮かび、
「ミレイ、今までありがとう、そして、ごめんなさい。やったことはなかったけど、解放を試みます――」
「「え!」」
「主……」
スライムたちと主が驚いている。
刹那、迷宮の奥から飛来してきた塊が止まる。
血妙魔の繭が、呼吸するかのようにゆっくりと伸縮を繰り返すと、繭の表面に無数の光の筋が走ると、それがゆっくりと裂け始める、それは蝶が羽化するように見えた。
最初に現れたのは、濡れ羽色の黒髪。
月光を吸い込んだような艶やかさで、一筋また一筋と繭から解き放たれていく。
続いて白磁のような額が、閉じられた瞼が、そして――繭が完全に開いた瞬間、そこには確かにミレイがいた。
血妙魔の残滓が彼女の肌の上で真珠のように輝き、それが徐々に吸収されていく様は朝露が朝日に溶けていくようだった。
あぁぁ、裸となっているが、紛れもないミレイ――。
彼女は血妙魔の繭の素材の一部を自らの体に取り込んでいく。
すべてを取り込み終え、力なく床に落ちようとしたミレイを駆け寄って抱きしめた。
背に温かい衝撃が走る。俺から出ていた〝血妙魔・十二指血始祖剛臓〟の欠片が、役目を終えて、俺の体に戻ったのだと即座に理解した。
それよりもミレイだ。彼女の瞼が微かに震え、ゆっくりと開いていく。そこには――あの夜空のような深い瞳が、確かに俺を見つめていた。
「ウタジ……助けてくれたのね――」
と無事な両手を俺の背に回して顔を寄せてくれた。
腕の中に、失ったはずの温もりと確かな重みが還ってくる。
「あぁ、ミレイ……」
それ以上の言葉は出なかった……。
ただ強く、壊れ物を抱くように彼女を抱きしめた。
その温もりが二度と失われることのない現実であることを確かめる。
長い旅路の終わりに、安息の光に包まれた。




