13話 追撃、青髪の女と南マハハイム地方十二樹海
左前と右後方、幾つかの高い岩場が正面と右前方に岩が並ぶ。
崩れた岩壁が織りなす影の迷宮に見えた。岩が、巨人の墓標のように乱雑と並んでいる。
その一つの岩壁の陰に右肩を預け、冷たい石の感触を確かめた。
血の匂い――それは意図的に撒いた誘いの香り。空氣に溶け込んだ鉄錆の甘さが、獣たちの本能を呼び覚ます。
追跡者たちの気配が、闇の向こうから重く迫ってくる。
目に魔力を溜めながら、周囲に魔力の触手を伸ばした。
それは蜘蛛が糸で獲物の動きを感じ取るように、敵の魔素の位置を浮かび上がらせる。
壁からそっと頭部だけを横に傾け、追跡者たちの姿を盗み見る――いた。ミレイを攻撃していた連中の憎むべき顔が。
良し……<分泌吸の匂手>は成功だ。彼らは仕掛けた罠に、見事に足を踏み入れた。
ケンダーヴァルの眷属ども。単純な数の暴力で押し潰そうと、小声に指先の暗号で連携を取っている。
その浅はかさこそが、彼らの墓穴となる。
迷路のような地形も天の配剤――青髪の女が不敵な笑みを浮かべながら言い放つ。
「ハッ! 隠れているつもりか。見つけたヨ、ウタジぃ~。しかし、濃厚な血のフェロモンをわざと寄越して、舐めているねぇ……」
その声には、獲物を弄ぶ猫の残酷さが滲んでいた。
青髪の女は魔剣を振るう。魔剣から放たれた魔刃が、死神の鎌のように横から回り込んできた。
ハルゼルマ要塞襲撃の悪夢が、記憶の底から蘇る。間違いなく、ケンダーヴァルの眷族――。
飛来した魔刃が岩壁に衝突する。連続的な衝撃音が、まるで巨大な心臓の鼓動のように闇に響いた。
隠れていた岩壁から飛び出し、魔刀鬼丸を振るいながら横に出る。
飛来してきた魔刃を、刃で潰すように叩き落とした。金属の悲鳴が空気を裂く。
刹那、「動きは見えているよ――」青髪の女の周囲の空間が歪んだ。現実が折れ曲がり、そこから無数の黒い魔刃が空間を切り裂くように飛来してくる。
右横から左前へと移動を繰り返し、連続的に避けた。
だが――左前方の空間が歪み、斜めに折り畳まれつつ、そこから新たな黒い魔刃が。
覇王のシックルと魔刀鬼丸、二つの刃で黒い魔刃を弾く。
しかし散った破片は避けきれず――降りかかった黒い欠片が体に刺さり、異質な魔力が血管を蝕んでいく。
闇属性なら効かないはずなのに、この痛みは何だ。歯を食いしばり、耐えた。
「ヴァラキア様にお前を捧げてやろう――」
青髪の女の叫び声が、戦場に響く。間合いを詰めて、黒い魔剣を振るってきた。
<血文王電>――体から無数の雷刃が展開され、袈裟掛けの黒い魔剣と衝突――雷刃が火花のように散った。
右腕の覇王のシックルを上下に突き出す。青髪の女の胸と腹を狙ったが、黒い魔剣に躱された。
体を横に回転させながら斜め右前方を駆け、湾曲した刃で彼女の魔剣を引っかけるように攻撃を凌ぐ――。
そこで、意図的に覇王のシックルに<血魔力>を送り、白焔が包む闇夜剣に変化させず、敢えて失敗したように白雷を発生させた。足元を滑らせ、倒れ込むような演技を見せる。
演技に氣付かぬ青髪の女の口元が醜く吊り上がった。
確実な勝利を掴んだと信じきった油断しきった愉悦の表情。 その一歩が奈落への入り口とも知らずに踏み出した、その瞬間――<影刻加速>で地を蹴る。身を低くしたハルゼルマ流『隼の型』のまま直進し、懐に飛び込みつつ片腕ごと魔刀になるように魔刀鬼丸を突き出した。青髪の女は驚愕に目を見開いたが、もう遅い。
「げぇぁぁ――」
鋭い魔刀鬼丸の切っ先が胸元を貫く。
刹那、<血剣・枇杷薙ぎ>を繰り出した。袈裟懸けの白焔が包む闇夜剣が、彼女の肩口に決まる。胸ごと背骨を斬り、上半身がズレ落ちる前に返す刃の逆袈裟を繰り出す。
青髪の女の体がバラバラと床に転がると、その体の部位から闇色の液体が宙空に噴出し、中心に黄金の魔印が生まれた。反撃かと身構えたが、黄金の魔印は闇に溶けるように不気味な色合いを発し、燃えながら消滅した。
バラバラに落ちた体はくっつき始めたが、斬られて露出した心臓が明滅すると、すべて燃焼し塵と化して消えた。
今の黄金の魔印はケンダーヴァルとの契約の証しか?
そこに、右から光の魔刃が飛来し、背後から新たな魔素の気配を感じ取った。
咄嗟に右前へと前進し避けたが、そこにも光輝く刃が待っていた。
その光輝く刃に白焔が包む闇夜剣を衝突させ弾くと、雷光のような閃光が弾けた。
眩い光を避けるように体を横へと捻り跳び、着地する。光輝く刃を放った敵から距離を取った。
俺のいた地面に光輝く刃が衝突し、爆ぜた。
その光輝く刃を放った存在――白衣に両手に聖剣を持つ者。教皇庁八課、魔族殲滅機関の技術を悪用した処刑人だろう。
「黒の貴公子、噂以上の速さ――」
白衣の処刑人の声は、人族とは思えない機械的な響きを持っていた。
光属性が強すぎて、目が焼かれるような痛みを伴う。白衣の処刑人は光の刃を雨霰と降らせ、廃墟の奥へと追い詰めてくる。
意図的に瓦礫の山に身を隠し、白衣の処刑人の視界から姿を消した。
吸血鬼を追跡できるスキル持ちなら、それを逆手に取る。<血道第一・開門>を意識し、体からわざと血を放出させた。周囲に血を撒き、濃度を薄めて偽の人型を模った<血魔力>を造る。暗闇を利用し、白衣の処刑人を釣る動きに出た。
「そこかぁ!」
白衣の処刑人は見事に引っかかった。瓦礫の隙間へと踏み込んだその瞬間――。
魔刀鬼丸で光の刃を破壊しつつ<血道第三・開門>を発動。<血液加速>で加速し前進し、覇王のシックルを振るい、白い装束ごと脇腹を裂き、背後へと回り込んだ。
「げぇぁ――」
白衣の処刑人は叫び、光の刃を振りながら咄嗟に振り返ったが、時すでに遅し。<血文王電>で放たれた雷光をまともに喰らい、覇王のシックルが心臓を貫く。奴は声もなく倒れ、光の粒子となって霧散した。
最後に追ってきたのは、頭上から数十の細い魔刃が渦を巻く、あの金仮面の屠殺者。一瞬、その中心に黄金の何かが光ったのを魔察眼で捉えた。
恐らくは『千の魔刃を持つ者』……。
ドワーフとノームの情報屋コンビから聞いた『金仮面の屠殺者』のスキルの一端だろう。奴はパイロン家か、ケンダーヴァルか、どちらかの勢力が用意した吸血鬼殺しの専門家。
奴は廃墟の上空から全方位の魔刃の嵐を放ち、包囲した。
敢えて廃墟の最も奥深く、行き止まりに近い場所へと誘い込む――。
「予想外だ、黒い貴公子。逃げるだけの男が真実とは――」
金仮面の屠殺者が獲物を捕らえたと確信したように語り、魔刃の渦を収束させたその瞬間――。
足元の崩れた床を蹴り割り、地下通路へと飛び込んだ。
「なっ!?」
金仮面の屠殺者は虚を突かれ、追い地下に降りてきた。
その瞬間――<影刻加速>と<血道・隠身>。
暗闇に溶け込み、奴の死角から一撃を放つ。
「どこだ!?」
金仮面の屠殺者が焦りの声を上げた刹那、背後から覇王のシックルを横一閃。金仮面は砕け散り、金仮面の屠殺者は言葉を発する間もなく、血の泡を吹いて絶命した。
追跡者を逆に嵌めて殺すことはできた。
しかし――ミレイは見当たらない。
血の匂いも、魔力の残滓も、何も残されていない。
まるで最初から存在しなかったかのように。
胸の奥で、不吉な予感が鎌首をもたげる。
追跡者はすべて、俺に集中していたはず。
ミレイを襲った呪詛の傷跡、そして最後の言葉……。ミレイ、無事でいてくれ。
あの時の言葉は、魂に深く刻まれている。だが、ミレイの行方は杳として知れない。
ミレイはどこに……あの呪詛の傷を負って、奴らに捕まったのか?
いや、そんなはずはない。同じ<筆頭従者>、高祖吸血鬼なのだから。
しかし、分泌吸の匂手の気配もない……地下の大動脈は広すぎる。
独立都市ヘルキオスに戻ったが、そこにミレイの姿はなかった。
エイサたちも任務で不在。期待していた情報も得られない。
情報屋のドワーフもいない。
ただ、南への道だけが、かすかな希望として残されていた。
ミレイと別れた場所から近い地下都市なのに……。
サルジンとスゥンの情報も得られず、追跡者の情報だけがかろうじて得られただけだ。南マハハイム地方への地下道の情報を得ようとしたが、大動脈層は迷宮のように入り組み、ドワーフとノームとダークエルフの領域もある。安全な通り道はあるが、それが保証されているわけではない。
そんな地下道の案内人などいるはずもなく。
吸血神ルグナド様の魔宝樹にお祈りを捧げてから、孤児院に移動し、エレイザにさよならを告げた。
エレイザは吸血鬼だと気付いている。彼女には大人となり婆になるまで生きてほしい。
「ウタジ兄ちゃん、助けてくれてありがとう。私……私、生きるから!」
「あぁ……然らば」
背に抱きついてきたエレイザ。
その小さな手が、俺の服をきゅっと掴む。
振り返れない。振り返れば、この子の前で涙を見せてしまう。
「エレイザ、元気で――」
「うん! 約束だよ、また会いに来てね!」
その無邪気な声が、胸を抉る。
ミレイも、きっとこんな風に笑って送り出してくれたのだろうか。
まずは南、南東の方角に向かうとしよう――また地下動脈層行きの巨大な扉を押し開く。
地下道を進み始めた。迷宮のように幾重にも洞窟が繋がっている……。
俺がいた東マハハイム地方は、南マハハイム地方よりもずっと遠い東。
その故郷から遠い西マハハイム地方の、このエイハブラ地方まで辿り着いたのだ。南マハハイム地方まで、なんとか行けるだろう。険しいとは思うが……。
ミレイから得た情報を手がかりに、サルジンとスゥンが生きているという情報だけが、心を繋ぎとめる細い糸だった。
南マハハイム地方の地上のどこかでひっそり暮らして……。
ミレイの声がリフレインすると、片目から自然と涙が流れた。
地上の方が安全な道の場合が多いが、<筆頭従者>、高祖吸血鬼にとってはそうではない。吸血鬼を追う専門のスキルを持つ者や、対吸血鬼用の魔道具を扱う専門ハンターが地上には潜んでいる。魔族殲滅機関の一桁なら死の覚悟が必要だ。
そうした経験から敢えて地下を進むことを選んだ。
しかし地下も地下で、様々な勢力がひしめき合っている。地上も地下も、その広がりは途方もない。
今も進む前方の地下道の先では、旧神勢力か地底神勢力か、判別不可能な青白い炎を発している髑髏の集団が漂っていた。かまわず直進すると、髑髏の群れはそれぞれに口を開き、無数の歯牙を晒し――
「『ウボェェァ』」
「『ウボァァァ』」
奇声を発しては襲い掛かってきた。
「ハッ、名の知らぬ旧神の類いか……」
左腕の魔刀鬼丸の切っ先を左斜めに伸ばし、右手の覇王のシックルを正面に向け重心を下げる。しかし、青白い炎を発する髑髏の数があまりに多い。
一瞬の判断で魔刀鬼丸をアイテムボックスに仕舞い、代わりに〝血魂の琵琶〟を取り出した。覇王のシックルを撥に変化させる。
髑髏の群れが奇声を発しながら襲い掛かってくるが――琵琶の『血』と『影』の弦を同時に掻き鳴らした。
血のように赤い波動と影のように黒い波動が交錯しながら広がり、最前列の髑髏を押し返す。足下から<血魔力>が風のように吹き荒れ、低く唸るような旋律を奏でながら前進し、撥を白焔が包む闇夜剣に変化させた。
琵琶の音色が<血魔力>を増幅させると、白焔が包む闇夜剣の切っ先が煌めく。白い焔を纏い放つ漆黒の剣身が淡く輝く。
滅びゆく者に 鎮魂の歌を
黒き風となりて 刃となりて
旧き神の遺物よ 去れ
歌いながら右手の白焔が包む闇夜剣を振るう。更に琵琶から放たれる音波が髑髏の動きを鈍らせると、白焔が包む闇夜剣が次々と髑髏を斬り裂いていく。
戦いは続く。しかし、心の奥底では常にミレイの姿が浮かんでいた。
彼女は今、どこで何を思っているのだろうか。
琵琶の音色が死者の領域に響く。
『血』と『影』の弦が奏でる鎮魂歌は、かつて仲間たちと共に戦った日々への挽歌でもあった。
髑髏たちが次々と崩れ落ちる中、俺は気づいた。
この旧神の遺物たちも、きっと誰かの戦士だったのだろう。
今の俺のように、失ったものを抱えて彷徨い続けて――。
血と骨の破片が舞い散る中で、〝血魂の琵琶〟の音色だけが、この死者の領域に生者の歌を響かせていた。
二百日目、地下水脈で小さな魚を見つけた。
生命がここにもある。俺だけが死んでいるわけじゃない。
――地下大動脈、彷徨三百日目――
血と土とカビの匂いが、呼吸と共に肺を満たし、もはや体臭の一部となっていた。絶えず耳の奥で響くのは、遠いどこかから滴る水の音か、それとも自身の心臓の鼓動か。指先は常に冷たく、岩肌のざらついた感触だけが自分がまだ存在していることを教えてくれる。最初の百日は、ミレイの言葉が希望の灯火だった。次の百日は、唇を噛み締め、執念だけで足を前に運んだ。そして今は――。ただ惰性で動く体と、時折胸をよぎる鈍い痛みだけが、そこにあった。
ミレイから聞いた、サルジンたちがいたかもしれない場所に関する古い噂……それだけを頼りに、この地下大動脈を南、東へと一年は彷徨い続けている。しかし、当たり前だが痕跡は掴めない。土砂崩れの跡に道が塞がっていたり、地下に穴があったり、あるいは無数のモンスターの巣窟ばかり――。
何度希望を抱き、打ち砕かれてきたか。
足元に転がる石ころ一つ一つが虚しく過ぎ去った時間の嘲りのように見える。瞼の裏にミレイの顔が浮かぶ。生きているのか? その疑問が、鉛のように心を重くする。それでも、足を止めるわけにはいかない。
疲労が限界に達した夜、暗闇の中でアイテムボックスから〝血魂の琵琶〟を取り出した。かつてハルゼルマ家で祝宴の折に響いた音色が、今は地下の闇に閉ざされている。
『血』の弦に触れると、あの日の記憶が蘇る。ミレイと最後に過ごした三日間、彼女が演奏を聴いてくれた時の表情。静かに『魂』の弦を爪弾く。低く響く音が空洞に反響する。
失われし絆を 闇夜に求めて
血の海を渡り 時の果てまで
サルジン、スゥン その名を呼べば
胸に灯る 消えぬ希望の光
琵琶の音色が心を癒す。一時の休息。明日もまた歩き続けるための力を与えてくれる。
四百日目、崩れた坑道に人族の落書きを発見。
『愛してる』の文字。誰かがここで、誰かを想っていた。
五百日目、壁に刻まれた吸血鬼の古い紋章を発見。
俺たちより前にも、誰かがこの道を通ったのだ。
孤独は俺だけのものではなかった。
六百日目、夜も昼もない、終わりの見えない迷宮。
ついに南への抜け道を発見。
手が震えた。希望というものを、久しぶりに感じた。
ようやくの、出口を見出した。
外に出た瞬間――瞼の裏まで焼き尽くすような光が、思考を白く染め上げた。一年ぶり……いや、もっと永い間忘れていた太陽の温かさ。カビと腐臭ではない、むせ返るほどの緑の匂いが肺を満たす。耳を打つのは反響音ではなく、木々の葉が擦れ合う優しい音と、生命を謳歌する鳥の声。足元は固い岩肌ではなく、命を育む柔らかい腐葉土。血と土とカビの牢獄から、ようやく解放された。
膝が震え、その場に崩れ落ちそうになるのを、〝血魂の琵琶〟を杖代わりにして堪える。その螺鈿が、木漏れ日を浴びて虹色に輝いた。俺は、まだ生きている。
――そう実感できた。耳慣れた反響音は消え、代わりに遠くで鳥の声が響き、風が木々を揺らす音が届く。
ケンダーヴァルへの復讐? それは後でいい。
今は、家族を見つけることだけを考えよう。
新たな戦場へと歩み出す。
だが今度は、守るためではなく、取り戻すための戦いだ。
希望という名の剣を携えて。
い。
なんとか、マハハイム山脈やゴルディクス大砂漠の地下を抜けただろう。
ここはラドフォード帝国が支配する地域か、フロルセイルと呼ばれる地域かもしれないが……。
草木の青い香りが突き抜ける。
地上で暮らすのも、一瞬だが、ありだと思った。
足元に地下の岩肌ではなく、柔らかい腐葉土の感触を確かめながら深呼吸をする。十二樹海特有の森の香りが濃厚。やはり、ここは南マハハイム地方で間違いないだろう。
とはいえ地図はない。地図系スキルもない。まずは情報を得たいところだが、この樹の世界を探索していこう。
森が繁る静寂の中、夜になると木々の間から漏れる月明かりが眩しく感じた。
そこでアイテムボックスから〝血魂の琵琶〟を取り出した。〝血魂の琵琶〟の螺鈿細工を淡く照らす。
サルジンとスゥンを探す手がかりを見つけられない日々、この琵琶だけが心の支えだった。
『月』の弦を静かに鳴らす――。その音色は森の生き物たちをも静かにさせる魔力を持つ。
かつてハルゼルマ家では、この琵琶の音色で囲まれていたのに。今はただ一人樹海の中だ。
父とも母とも、メイラスとも離れ、ミレイとも離ればなれになった。
『魂』の弦に指をやれば、過ぎ去った日々が蘇る――。ミレイのあの言葉が、今も耳に残っている――。
「南マハハイム地方の地上のどこかでひっそり暮らして……」
指先から血を少し滲ませ、琵琶に触れると、その血が弦に吸い込まれていく。
ハルゼルマ家の血を持つ者の血が、この琵琶に力を与える。それは、どこか父のソレグレン技術にも通じるものがあった。
〝血魂の琵琶〟を利用しつつ歩む。
無数の緑が目に飛び込み、頭上で枝葉がざわめく音が聞こえた。
ここは、南マハハイム地方の十二樹海だろうと判断し、地上の樹海の中で活動を続けていく。
<影刻加速>を発動。体にかかる負担は、もう慣れたものだ――。
視界を流れる景色が鈍化する中で、迫る低級モンスターの動きを捉える。
覇王のシックルの形状を、歩行のリズムに合わせて瞬時に鎌から白焔が包む闇夜剣の直剣へ、そして盾へと切り替える。
――突き出した剣がモンスターを両断し、盾で別の攻撃を受け流す。
――流れるような動作。
それは、数百年かけて体に染み込ませた血と鉄と加速の定型だ。
そこに特別な感情はない。
しかし、樹海も広い……サルジンとスゥンの痕跡は中々得られない。
冒険者たちもここでは活動していると思うが――。
砂浜の砂粒から光の違う砂粒を探すような気分となった。
この際だ、迷宮都市ペルネーテに向かうか?
いや、南マハハイム地方の樹海はここ、惑星セラの十二個存在する一つが、ここだ。
複数の人の魔素が前方に――森を駆け抜けると、人族や旅商人たちが行き交う街道に出た。
久しぶりに人族を見た。馬車も通る。かなり幅広い土の道幅だ。この導線を辿り街路の先を進むか……。
幸い、吸血鬼ハンターらしき存在は少ないようだ。
追跡してくる人族はいなかった。人族の冒険者に紛れるように街道を進んだ。
通りを行き交うエルフとドワーフと人族の商人の会話が耳に入った。
商人たちの会話から、この辺りのゴブリンは種類が様々だという。そういえば先ほど森で斬り捨てた個体も、東で見てきたゴブリンどもとは体格や装備が微妙に異なっていた。
些細な違いだが、この地の環境が魔物に与える影響か、あるいは――何か別の要因があるのか。
皆、ペルネーテとベンラック村に向かう流れか。樹海側にベンラック村があることを知る。ベンラック村を暫くの拠点にしようか……暫く潜伏する場所には使えるか?
その考えの元、冒険者のふりをしてベンラック村に入った。迷宮都市ペルネーテで消費される物資を運ぶ馬車と、その馬車置き場などが異常に多い。
酒場に移動し、近隣の情報を得た。冒険者になるつもりはないが、ここでゴブリンとオークを狩りながら十二樹海にいるとされるサルジンとスゥンの情報を得るとしようか。
とある宿屋に入り、宿屋の親父に話しかける。
「よう、暫く世話になるが、幾らだ」
「金貨五百枚だ」
周囲からひそひそと嗤い声が響く。
「冗談だ、食事抜きで銀貨一枚、食事付きで銀貨三枚だ」
「それでいい」
宿賃を払う。
宿屋の二階から見下ろす村の朝は、平和そのものだった。
パン屋から漂う焼きたての香り、子供たちの笑い声。
こんな日常が、俺にもあったはずだった。
そうして何回かベンラック村の宿屋を利用し、樹海に出た。
十二樹海には死蝶人が棲まう場合があると、ハルゼルマ要塞でも噂は聞き及んでいた。
東マハハイム地方の地上、古都市バビロンの〝血月エルデンの宿〟でも、その噂は数度聞いたことがあった。
しかし、二眼二腕の魔族、黒髪の吸血鬼で良かった。
太陽の陽も弱点だが、高祖級と呼ばれる<筆頭従者>には自然と陽に対する抵抗力が付く。吸血神ルグナド様の恩恵だ。
すると、森の奥に不気味な洋館が姿を現した。
何かがあるような気がする。
周囲だけ不自然に人の気配が途絶え、濃厚なモンスターの存在感に混じり、甘ったるい花の香りと腐臭が風に乗って鼻をつく。まさか、と噂を思い出す。十二樹海に棲むという死蝶人。洋館の窓ガラスの一枚が、一瞬、虹色に光ったような氣がした。
危険な雰囲気が漂う場所は、身を隠すには都合が良かったが……。
求める情報――ケンダーヴァルの動向、ミレイの痕跡、そして父が遺したソレグレン技術の手がかりを得るには、あまりにも混沌としすぎていた。
その日、樹海の奥深くで複数の強力な魔力の波動が衝突するのを感じ取った。膨大な魔素が生まれ、激しくせめぎ合い、そして消えていく。空をモンスターと人型の魔素が乱れ飛ぶ……まさに戦場だ。
新たな戦いか。しかし決して諦めない。ミレイと、サルジンと、スゥンとの再会を信じて――。
地上に降り注ぐ木漏れ日が、〝血魂の琵琶〟の螺鈿を虹色に輝かせた。ミレイ、サルジン、スゥン――必ず、もう一度その手に触れる。その想いだけを道標に、新たな戦場へと歩み出した。孤独ではあるが、絶望は遥か地下に捨ててきた。
記憶の中で響く仲間たちの声が、心を支える唯一の鎮魂歌なのだから。
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