もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 90 天正十一年春 4
鉢形城。
小田原城が難攻不落の城として有名なだが、規模こそ小さいものの、この鉢型城も天然の要害も利用し攻めにくい城であった。
史実では北条氏邦と三千の兵が三万五千の包囲を耐えたものの、一か月後に降伏開城している。
だが、この降伏については非難が多く氏邦は腰抜けと罵られる。
つまり、まだまだやれたなかでの降伏であり、縛り付けた敵三万五千を開放させてしまった罪は重いということだ。
この三万五千がどうなろうが大勢は変わらない。
それは事実。
そのなかで城兵を救った。
現在の価値観からいえば、氏邦は避難されないのかもしれない。
だが、職務放棄は武人として許されないというところなのだろう。
第二次世界大戦時の日本に当てはめれば、沖縄の守備隊が敵軍上陸直後に降伏したら日本人がどう思うかというところなのだろうか。
早期に降伏していれば軍に徴用された多くの民間人は死なずに済んだ。
だが、沖縄にあった飛行場はもっと早く利用でき、沖縄に張りついていた海軍も他に転用できた。
これをどう考える?
八王子城。
史実では一日落とされたものの、難攻と呼ばれていた山城である。
実はこの八王子城の攻略に関わった上杉景勝や前田利家、真田昌幸らは鉢形城から転進してきたものたち。
つまり、鉢形城の北条氏邦の降伏に影響を受けたということになる。
そして、秀吉による小田原征伐の戦いのなか凄惨さはこの八王子城攻めは一、二を争う。
城の陥落に際し、城内にいた多くの女性や老人は自刃、身投げをした。
サイパン島のバンザイクリフを思い出す光景である。
もしかしたら、氏邦への批判はこの八王子城の戦いにあるのかもしれないと思える出来事である。
忍城。
この城の戦いについては映画にもなっているから知っている者も多いだろう。
城を取り巻く湿地帯のため力攻めが難しい。
それを逆用した水攻めをおこなったものの失敗し、小田原城陥落まで持ちこたえた。
映画だけ推測すると偶然が重なった結果に見えるが、上杉謙信の攻撃からも耐えていることからやはり難攻の城だったといえるだろう。
実をいえば、史実では城主成田氏は上野にやってきた滝川一益に服従している。
だから、本来ここではこの城の攻防戦は起きないのだが、せっかくの名城。
少しだけ史実を変えて戦ってもらうことにする。
ということで、ここからはこれらの城の攻防ということになる。




