もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 85 天正十一年冬 9
では、天正年間に起きた上杉景勝による最上領侵攻を見ておこう。
まずは係争地。
ここは庄内地域となる。
米が採れ、良港もある。
誰もが押さえたい場所といえる。
そして、長い間のこの地域を根城にしていたのは大宝寺氏。
その大宝寺氏が領地の南で接していたのは本庄氏、さらに本庄氏の南には上杉氏となる。
この三者の関係は簡単に説明するのは難しい。
とりあえず天正十四年には上杉氏に対抗するため、本庄氏と手を結んだ大宝寺義興は本条家当主本庄繁長の子を養子として義勝と名乗らせ跡継ぎに据える。
だが、国衆がそれに反発し、それに乗じて最上氏が大宝領寺をそっくり手に入れる。
その際に大宝寺義興は死亡したが、義勝は実家である本庄氏のもとに逃げ帰る。
そして、その地に復帰を狙っていた義勝と実父本庄繁長にそのチャンスがやってきたのは天正十六年。
最上氏は東の伊達氏と戦いを始めたところで、その背後を狙って旧領へ侵入する。
慌てた最上氏は軍を派遣するものの、主力は伊達との戦いのために動けず奪還を許す。
その後、本庄繁長は上杉景勝の配下になり、秀吉の差配によって大宝寺氏は潰され、その領地もすべて上杉領となる。
庄内地方が最上氏から上杉氏のものになるまでの概要となるのだが、実際のところ、奪還に上杉氏は直接的には手を貸しておらず、それに関わらず庄内地域を手に入れたということになる。
なお、ここではその上杉氏は滅び、上杉氏に滅ぼされるはずだった新発田重家が生き残っていることになっている。
そのため、新発田氏と根拠地が重なる本庄繁長は信長に下り、信長配下ということで話を始めることにする。




