もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 47 北国編
六月十日。
そこに織田信孝率いる一万数千が四国に乗り込んだのに続き、明智光秀の軍とともに信長、信忠親子が中国に向かったと情報が入る。
つまり、恐れていた織田本隊どころか、増援もしばらく来ない。
森長可らは自領の火消が忙しくは信濃を離れられない。
上野との国境付近で滝川一益の軍を抑え込めば、春日山までやってくるのは柴田軍のみ。
春日山城では直江兼続を中心に軍議を重ねる。
羽柴秀吉に加え明智光秀が加わるのだから当然優勢にはなるが、毛利も必死に戦うので簡単には決着はつかない。
四国にいたっては長曾我部相手では一万程度の兵で圧倒するはずがない。
つまり、織田主力は中国と四国の戦場に張りつかざるを得ない。
そうなれば信長は徳川に援軍を要請するだろう。
時を同じくしてやってきた情報にある浜松に兵が集まっていることもそれを裏付けたもの。
当然軍は西に向かう。
徳川は越後にやってくることはない。
この機を逃してはならない。
まずは目障りな柴田軍を葬る。
圧倒的な地の利がある春日山に柴田軍を引き込み徹底的に叩く。
そして、逃げ出した柴田軍を追撃し、前線を押し戻すと同時に織田軍敗退を触れ周る。
当然越中や加賀に残る反織田の勢力が立ち上がる。
越後から敗走する織田軍はさらに叩かれる。
その間、我々は軍を転じ、信濃と上野に侵攻する。
これが上杉軍の基本戦略であった。




