表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
本能寺の変~もし、明智光秀が京都ではなく秀吉の後詰めに向かっていたら(パイロット版)  作者: 田丸 彬禰


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

43/118

もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 43 北国編

史実どおり六月三日に魚津城を落とした柴田軍は続いて松倉城、天神山城を落とし、越中を制圧すると、そのまま越後に攻め入る。

抵抗がなければ三日後、抵抗があっても十日後には春日山城近くに姿を現すことになるだろう。


さらに、一度は失敗した上野からの越後侵攻も六月十日滝川軍本隊のほか真田勢なども加えて兵を整えると、三国峠と清水峠を越え二方向から樺沢城への攻撃に向かう。


一方、最初に越後侵攻を果たした森長可は春日山城を籠る上杉軍のにらみ合いを続けていた。

後世の者には、いわゆる「戦闘狂」、「突撃馬鹿」のイメージの強い長可であるが、その強さは攻めだけはないことを示すよう動かない。

同数の上杉勢相手に城攻めをおこなう危険を知っていたのだ。

しかも、春日山城は山城。

手持ちの数だけでは如何ともしがたい。


敵が攻撃を仕掛けてきたのならそれに乗ずるがそうでなければ動かない。


これが長可の基本方針だった。

むろんただ陣を張っていただけではない。

彼は信濃からやってくる援軍を待っていたのだ。

そして、海津城から二千、さらに木曽義昌の千五百の増援がやってきた。

ちなみに、史実では義昌は本能寺の変を知り美濃に戻ろうとする長可の命を奪おうとして失敗している。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ