もし、明智光秀が秀吉の援軍に向かったら? 43 北国編
史実どおり六月三日に魚津城を落とした柴田軍は続いて松倉城、天神山城を落とし、越中を制圧すると、そのまま越後に攻め入る。
抵抗がなければ三日後、抵抗があっても十日後には春日山城近くに姿を現すことになるだろう。
さらに、一度は失敗した上野からの越後侵攻も六月十日滝川軍本隊のほか真田勢なども加えて兵を整えると、三国峠と清水峠を越え二方向から樺沢城への攻撃に向かう。
一方、最初に越後侵攻を果たした森長可は春日山城を籠る上杉軍のにらみ合いを続けていた。
後世の者には、いわゆる「戦闘狂」、「突撃馬鹿」のイメージの強い長可であるが、その強さは攻めだけはないことを示すよう動かない。
同数の上杉勢相手に城攻めをおこなう危険を知っていたのだ。
しかも、春日山城は山城。
手持ちの数だけでは如何ともしがたい。
敵が攻撃を仕掛けてきたのならそれに乗ずるがそうでなければ動かない。
これが長可の基本方針だった。
むろんただ陣を張っていただけではない。
彼は信濃からやってくる援軍を待っていたのだ。
そして、海津城から二千、さらに木曽義昌の千五百の増援がやってきた。
ちなみに、史実では義昌は本能寺の変を知り美濃に戻ろうとする長可の命を奪おうとして失敗している。




