13
岩でできた強大な渓谷にたどり着いた男は、顎に手をあてて思案にふけっていた。
崖、谷、崖、谷。視界の果てまでその繰り返しである。
端まで近寄って下を覗き込む。
はるか下方の地面に立っているのは、おそらくそれなりに大きな木なのだろう。しかし、彼の立つ場所からは指でつまみあげられるほど小さく見えた。
崖はほとんど垂直だ。一度落ちようものなら、這い上がることなど、とてもではないが不可能である。
そんな地形がいくつも連続して目の前にある。到底先に進むことはできそうになかった。
とにかく動かなくては進展しない。廻り込めば何かしらとっかかりが見つかるだろう。そう考えた男は崖に沿って歩き始めた。
太陽が容赦なく照りつける。灼熱の光線を浴び続ける男の額には、玉のような汗がいくつも浮かんでいた。
彼は目じりに垂れてきた汗を手の甲で拭うと、腰に下げた水筒の中身を少し口に含んだ。
かれこれ半日は歩いているが、渓谷の終わりが見える気配はない。
いっそ下に降りてしまおうか。案外そっちのほうが早く抜けられるかもしれない。
安易な考えを浮かべた彼は、足元に転がっていた握りこぶし大の石を拾い上げた。それを谷底に向かって放り投げる。
しばしの無音。数秒後、ようやく石が地面に到達したことを知らせる破砕音が聞こえた。それも耳を澄まさないと聞こえないほどのかすかなものである。
男は谷底に降りることを諦めると、再び歩き始めようと頭を上げた。
その時、彼の耳が風を切るような音を拾った。
見上げると、頭上にタカが飛んでいる。しかしその羽の音がここまで聞こえてくることなどあり得ない。
羽ばたきの音は徐々に近づいてくる。男はそれが下から上昇してしてきていることに気付く。
彼はこれから訪れる何かに対して身構えた。
暴風が吹き、大量の砂が巻き上がる。
砂嵐が晴れて男の視界が開けた時、彼の目に飛び込んできたのは翼だった。
現れたのは巨大な鳥である。
広げれば三メートルはあろうかという翼全体に、砂埃にまみれた灰色の羽毛が生えていた。
太く、強靭な足は堅い角質に覆われ、その先端にはナイフのように鋭いかぎ爪がついている。
顔のパーツに彩はないが、唯一くちばしだけが薄いピンク色だ。表皮は乾燥してひび割れている。
「探し物がこうも早く見つかるとは、素晴らしく運がいいな私は」
男はそうひとりごちると、怪鳥の白く濁った眼を睨みつけた。
「死にたいのならばかかってこい」
その一言が発された瞬間、怪鳥は上へと舞い上がり始めた。
男にそれを止めるすべはない。その場を動かず、相手の動きを見守る。
怪鳥が遥か上空で羽ばたくのをやめる。男からは、もはや小さな点にしか見えない高さだ。
重力に逆らい、上昇し続けていた巨体が、その方向を反転させた。
風を切りながら急降下する。怪鳥の体はあっという間に地表へと到達した。
男は自らを襲うであろう攻撃を予測して、神経を集中させる。
怪鳥は地面すれすれのところで体を回転させ、足を下に向けた。
自由落下に、羽ばたきによる加速まで加えた圧倒的なスピード。その勢いをそのままのせて放たれる一撃。
間一髪で男はそれをかわした。怪鳥の頑強な足は砕けることなく、逆に岩でできた地面を粉砕する。
激しい爆風とともに大量の石礫が飛び散り、男は思わず顔を両手でかばった。
突然彼が体をぐらつかせ、膝をつく。足元の岩盤には無数の亀裂が走っていた。
自らが置かれた状況を理解するが、時すでに遅し。立っていた足場は無数の岩となって崩れ去り、男は奈落へと落ちて行った。
男は落下しながら、手足を崖に押しつけて減速しようと試みた。
ごつごつとした岩肌が彼の肉体を削り取る。崖の表面にくっきりと赤い軌跡が残されていく。
彼は下方に岩棚を見つけた。ちょうど人一人が座れるかどうかというスペースしかない。しかしそれで充分である。
彼は手首から先がなくなった左腕を、岩肌にさらに強く押しつけて急ブレーキをかけた。
左腕のひじから先が消失したが、その甲斐あってわずかな足場に着地することに成功。長くは持たないことを理解している男は、しゃがみこんで削り取られた部位の再生に専念する。
地上までは残り30メートルといったところ。彼なら飛び降りても意識を失うことはないだろうが、動けるようになるには時間がかかる。追撃されるといささかまずい。
両足の再生が終わり、左腕に取り掛かろうという時に、男はタイムリミットを告げる羽ばたきの音を聞いた。
追ってきた怪鳥の蹴りが襲いかかる。男は壁を蹴って空中へと飛び出した。
飛び込む先は、高さ十数メートルの大樹の中。枝葉が折れる衝撃で可能な限り速度を殺し、地面にたどり着く。
全身に無数の生傷を作ったものの、彼はすぐに動ける状態で着地することに成功した。
怪鳥が着地の隙をついて追撃を仕掛けようと試みる。
降下の勢いから繰り出される回し蹴り。
男は右腕から深紅の角を突出させ、居合抜きのように切り払った。
鈍い衝突音とともに火花が飛び散り、両者が互いに後方へと吹き飛ぶ。
思わぬ反撃を受けた怪鳥は、甲高い悲鳴を上げた。鍵爪の一本が根元からへし折れ、赤い血が流れ出ている。
男が攻勢に転じた。前傾姿勢で踏み込み、角で切りつける。
しかし、再び怪鳥が上へと飛び立ち、横薙ぎの一撃は空を切った。
「そう飛んでばかりでは殴れんではないか。つまらんなあ、つまらんなあ。」
怪鳥が上空から蹴りつける。男がそれをかわして切りつける。怪鳥が再び空へと逃げる。
その一連の流れが何度か繰り返され、男はしびれを切らしたようにそう漏らした。
「降りてこないか。そろそろお前も飽いたろう」
当然、怪鳥が耳を貸すことはない。返事代わりに首筋を狙った一撃が放たれる。黒い鉤爪が身をそらした男の頬を掠め、深く切り裂いた。
「そうか……しからば貴様の翼をもいで、地べたへ落としてくれようぞ」
彼は右手の角を上段に構え、攻撃を迎え撃つ体制を整えた。
怪鳥の左のかかとが頭上から襲い来る。男は角を振りおろして、その軌道をななめ下へとそらした。
すかさず彼は左腕で怪鳥の左足首をつかむと、そのまま地面に叩き付けようとした。
もちろん、怪鳥がおとなしくしているはずがない。
怪鳥は右足の鉤爪で男の腕をつかむと、おかえしとばかりに握りつぶす。
三本の爪で挟まれた左腕があらぬ方向へと折れ曲がった。男の握力は失われ、怪鳥の足をつかんでいた手が離される。
怪鳥は男をつかんだまま、天へと舞い上がった。
目的は男を高所から地面に落とすことだろう。落下の衝撃で動けなくなったところに止めを刺すつもりのようだ。
地上10メートルほどの地点。今なら、着地の衝撃を受け身で殺すことができる。
男は怪鳥の足を切断しようと、角で切りつけた。
しかしながら、空中での腕の力ばかりに頼った攻撃では、岩のように硬い表皮を切り裂くことはできない。
抵抗むなしく、彼の体はどんどん地表から離れて行った。
地上50メートル。ここから落下したならば、意識を保つことも危うい。
上昇速度もだんだんと緩やかになる。そろそろ落とそうと考えているのだろう。
ここで怪鳥にとって予想外の出来事が起こった。
男が角で自分の左腕を斬り落としたのだ。
鉤爪の先には、腕だった肉塊のみが残された。重力に引かれて男の体が落ちていく。
とはいえ、怪鳥にとってこれは、さほど大きな問題ではない。自分が落とすか、勝手に落ちたかの違いだ。どの道、この高さから叩きつけられればひとたまりもあるまい。
落ちる男を追いかけるように下へと加速する。
しかし怪鳥は再度、想像だにしなかったものを見ることになる。
男の右腕があり得ない長さに伸びた。
二倍以上の長さになったそれは、届くはずのない岩肌に到達する。角がアンカーのように深々と突き刺さり、男の落下を食い止めた。
急下降をした怪鳥が、すぐに上昇することは適わない。
何が起こったのか理解できないうちに、背中に何者かの重みを感じた。
「捕まえた」
怪鳥の背中にしがみついた男は、翼に腕を回すと、容赦なくへし折った。
耳障りな絶叫が渓谷にこだまする。
二つの影はともに落ちていき、地面にぶつかって赤い花を咲かせた。
どれくらいの時間がたったのだろうか。
意識を取り戻した怪鳥が見たのは、太陽を背に仁王立ちした男の姿だった。
飛んで逃げようとするが、右の翼はまだ治っていない。動かそうとして走った激痛に、弱々しい声を上げる。
「思い出せ」
男は怪鳥に対して諭すような口調でそう告げた。
「思い出すのだ。なぜ飛ぼうとしたのかを」
皆まで言い終わらない内に、怪鳥が彼に襲い掛かった。
充分な威力をもって繰り出される蹴り。リーチも男のそれを上回る。
しかし、それが届くことはなかった。
男の腕が伸びて、衝撃が怪鳥の胸を貫く。
角が引き抜かれ、怪鳥は大量の血を吹き出しながら、地面に崩れ落ちた。
男はどこか寂しげな表情で空を見上げた。
両脇にそびえ立つ岩の壁。雲ひとつない青空はそれを余計に高く見せた。
まるで牢獄のようだ。
彼はそんなことを考えながら、今はもう動かない怪鳥の方を見た。




