5-10
少し前。
ルナは孤児院で、子どもたちの様子を見ていた。
ラバヌイ茶を飲み始めた子どもたちは、少しずつ体調がよくなっている。
そして昨日からは、ケイティにも少量ずつ飲んでもらっていた。
「ケイティ、今日はどう?」
「昨日より楽」
ケイティはそう言って、身体を起こす。
「気持ち悪くなったり、お腹が痛くなったりはしてない?」
「うん。大丈夫」
「朝ごはんは?」
「ちゃんと食べられたよ」
「そっか。よかった」
ルナは手帳に短く書き込む。
昨日から飲み始めたばかりだが、今のところ体調を崩した様子はない。
それだけでも、ルナはほっとしていた。
その隣で、ジャンが嬉しそうに妹を見ている。
「まだ寝てた方がいいんじゃないか?」
「大丈夫だってば」
「でも——」
「お兄ちゃん、心配しすぎ」
少し鬱陶しそうに言われても、ジャンは妹から目を離さない。
その姿を見て、ルナはふと昔のことを思い出した。
幼い頃、自分が熱を隠していた時。
誰より先に異変に気づいたのはリアだった。
『分からない。でも、ルナが苦しい気がしたの』
あの時は、双子だからなのかもしれないと二人で笑った。
(懐かしいな……)
あの頃、リアは自分のことを『ルナ』と呼んでいた。
いつからだっただろう。
『お姉様』と呼ばれるようになったのは。
「ルナ?」
ミアに呼ばれ、ルナは我に返った。
「どうしたの?」
「ううん。ちょっとリアのことを思い出してただけ」
そう答えた、その時だった。
「……あれ?」
胸の奥が、ざわついた。
ルナは無意識に胸元に手を当てる。
「どうしたの?」
「分からない……」
痛いわけでも、具合が悪いわけでもない。
ただ、妙に落ち着かなかった。
そして、さっき思い出した言葉が頭をよぎる。
『ルナが苦しい気がしたの』
「…………」
ルナは立ち上がった。
「リア……?」
「え?」
ミアが目を瞬く。
「リア様がどうかしたの?」
「分からない。でも……気になる」
このまま何もしないでいるのは嫌だった。
「私、教会に行ってくる」
「えっ?」
ミアも立ち上がる。
「ちょっと待って。教会には行かない方がいいって言ってたでしょ?」
「うん」
「リア様と一緒に、フィールズ家の人だっているかもしれない」
「……分かってる」
「見つかったらどうなるか分からないんだよ」
それも分かっていた。
だから今まで教会には近づかなかった。
ここまで来て、フィールズ家に連れ戻されたくはない。
けれど——。
「ごめん、ミア」
ルナはミアの手に自分の手を重ねた。
「それでも、行きたい」
「ルナ……何かあったって決まったわけじゃないよ?」
「うん。勘違いならそれでいいの」
何もなければ、顔を見て帰ってくればいい。
「でも、本当に何かあったなら……行かなかった方が後悔すると思う」
ミアはしばらくルナを見ていたが、やがて小さく息を吐いた。
「……分かった。でも、気をつけてね」
「うん」
院長にも少し出てくることを伝え、ルナは孤児院をあとにした。
◇◇◇
教会が見えてきても、胸のざわつきは消えなかった。
入り口の前まで来たところで、ルナは一度だけ足を止める。
簡素な旅装に、短く切った髪。
(これで、聖女候補の姉ですって言って信じてもらえるかな……)
少し不安になったものの、ここまで来て帰るつもりはなかった。
「……行こう」
小さく呟き、教会の中に入る。
中にはまだ多くの人がいた。
(どうしよう……)
誰に声をかければいいのか迷っていた時だった。
廊下の向こうから、白い法衣を着た少年が歩いてくる。
「……あ」
ルナは目を見開いた。
見覚えがある。
属性判定の日。
神殿で倒れた自分を介抱してくれた、見習い神官。
「ノエルさん!」
呼びかけると、少年が足を止めた。
「はい?」
ルナは急いで近づく。
「あの……私のこと、覚えてますか?」
「え……?」
ノエルはルナの顔をしばらく見つめた。
やがて、その目が大きく見開かれる。
「……ルナ様?」
「はい」
「どうしてここに……?」
「それは、あとで話します」
ルナはまっすぐノエルを見る。
「お願いがあるんです。リアに会わせてもらえませんか?」
「リア様に?」
「はい。どうしても今、会いたいんです」
ノエルは驚いたようだったが、少し考えたあと頷いた。
「分かりました」
「いいんですか?」
「ええ。ご家族ですから」
「…………」
その言葉に、ルナは一瞬だけ返事に詰まった。
自分ではもう、フィールズ家とは関係がないつもりでいた。
それでも今だけは、その言葉に甘えることにする。
「ありがとうございます」
ノエルに案内され、教会の奥へ進む。
やがて一つの扉の前で足を止めた。
「リア様はこちらにいらっしゃいます。私はここで失礼します」
「ありがとうございます」
ノエルが離れてから、ルナは一度だけ小さく息を吸った。
◇◇◇
「……どうして」
泣き腫らした紫色の瞳が、大きく見開かれた。
「……ルナ?」
「会いに来たの」
ルナはそう答え、ベッドのそばまで歩いていく。
「隣、座ってもいい?」
リアは戸惑いながらも、小さく頷いた。
ルナが腰を下ろす。
近くで見ると、リアの顔には疲れが滲んでいた。
「……泣いてたの?」
「…………」
リアは答えず、俯いてしまう。
「何かあった?」
「何も……」
「何もないのに泣かないでしょ」
それでも、リアは黙ったままだった。
ルナは少し迷ってから口を開く。
「私ね、急にリアのことが気になったの」
「私の?」
「うん。昔、私が熱を隠してた時、リアだけ気づいたことあったでしょ」
リアがゆっくり顔を上げる。
「……覚えてる」
「あの時、双子だから分かったのかなって話したよね」
「うん」
「だから今日もそうなのかなって思ったの。それで来たら……本当に泣いてるし」
ルナは少し困ったように笑った。
「何があったの?」
長い沈黙のあと、リアがぽつりと答えた。
「……私じゃ、駄目なの」
「何が?」
「聖女」
リアの手が膝の上で強く握られる。
しばらくして、リアは少しずつ話し始めた。
毎日治療を続けても患者が減らなかったこと。
待っている人を残して部屋に戻るのがつらかったこと。
そして今日、『エリシア様が来てくださっていたら』という声を聞いたこと。
「私じゃなかったらって、考えちゃったの」
リアが小さく言う。
「エリシア様だったら、もっと上手くできたのかなって。もっとたくさんの人を助けられたのかなって」
「リア……」
「それに……」
リアは俯いたまま、消え入りそうな声で続けた。
「ルナだったら、よかったのかなって」
「私?」
思いがけない言葉に、ルナは目を瞬く。
「どうして私なの?」
「だって、ルナは何でもできるから」
「そんなことないよ」
「私にはそう見えてたの」
リアは小さく首を振った。
「勉強も、礼儀作法も。私も頑張ったけど、ルナみたいにはできなかった」
そして、ずっと言えなかったことを吐き出すように続ける。
「だから……ずっと羨ましかった」
ルナはしばらく黙ってリアを見ていた。
やがて。
「……なんだ」
「え?」
「そっか」
ルナの口元に、小さな笑みが浮かぶ。
「何で笑うの?」
「私たち、もっとちゃんと話せばよかったね」
「……どういうこと?」
「だって、私も同じだったから」
「……え?」
「私も、リアが羨ましかったよ」
リアが目を見開く。
「嘘……」
「嘘じゃないよ」
「でも、ルナは何でもできたじゃない」
「できたんじゃなくて、頑張ってたの」
ルナは苦笑した。
「私は、誰とでも笑顔で話せるリアが羨ましかった。私にはできないことだったから、だから他のことを頑張ろうって思ってた」
「でも……」
「リアはいいなって何度も思ってたよ。だから……二人とも同じだったんだね」
リアは何も言わず、呆然とルナを見つめていた。
自分も同じだったと聞いたことが、よほど意外だったらしい。
「……私たち、馬鹿だったね」
ルナが言う。
「え?」
「お互いに羨ましいって思ってたのに、何も言わなかったんだもん」
リアは少し俯いたあと、小さく笑った。
「……本当に、馬鹿みたい」
「ね」
二人で顔を見合わせる。
ほんの少し前まで泣いていたリアの顔に、ようやく笑みが戻った。
こんなふうに二人で笑ったのは、いつ以来だろう。
「……それに」
ルナがふと思い出したように言う。
「久しぶりに、リアが『ルナ』って呼んでくれて嬉しかった」
「え?」
「昔みたいだったから」
リアが目を瞬く。
「ずっと『お姉様』だったでしょ?」
「……うん」
「最初にそう呼ばれた時、ちょっと悲しかったんだ」
「悲しかった?」
「うん。急に距離ができたみたいで」
けれど、リアがそう呼びたいのなら仕方ないと思って、何も言わなかった。
「……違ったの」
リアが小さく言う。
「何が?」
「ルナって呼ぶのが嫌だったんじゃないの」
リアは膝の上の手を見つめた。
「私、ルナみたいにできなくても、妹なら仕方ないって思いたかったの。それに『お姉様』って呼ぶと、みんな褒めてくれたから……」
「そっか」
「ごめんなさい」
「なんで謝るの?」
「だって、ルナは悲しかったんでしょ?」
「ちょっとだけね」
ルナは笑った。
「でも、私も言えばよかったんだよ。前みたいに名前で呼んでって」
「……言ってくれたら、そうしたと思う」
「じゃあ、やっぱり二人とも悪いね」
「……うん」
リアも少し笑う。
「だから、これからはルナでいいよ」
「いいの?」
「もちろん。私もその方が嬉しい」
リアは少し迷ってから、口を開いた。
「……ルナ」
「うん」
たったそれだけのことなのに、懐かしかった。
「リア」
今度はルナが呼ぶ。
二人はまた顔を見合わせ、どちらからともなく笑った。
離れていた時間がなくなるわけではない。
何もかもが昔と同じに戻るわけでもない。
それでも、もう一度話せる気がした。
「それでね、リア」
「何?」
「実は、お願いがあるの」
「お願い?」
リアが不思議そうに首を傾げる。
ルナはまっすぐその目を見る。
「協力してほしいことがあるの」
「私に?」
「うん」
少し前まで泣いていたリアに向かって、ルナは言った。
「この町で病気になってる人たちを助けるために、リアの力を貸してほしいの」
リアが目を見開く。
「……私の?」
「うん」
ルナは迷わず頷いた。
「リアじゃないとできないことがあるの」
少し前まで、自分では駄目なのだと思っていたリアは、何も言えずに姉を見つめた。




