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背番号20  作者: 竹本田重郎


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2/2

いつも通り

翌朝もグラウンドには誰もいなかった。蝉の声だけが一際大きく響いている。水羽市を包み込むは湿った空気だ。夏の始まりを告げている。霧島はいつもと同じ時間に校門をくぐった。


いや、ほんの少しだけ早かった。背中のバッグの中には新しいユニフォームが入っている。彼の背番号は20だ。それを誇るような気持ちはどこにもない。自分がやることは同じだった。


グラウンドに出ると一礼する。誰も見ていないが、見ていない、見られていない、その次元ですらなかった。それから倉庫の鍵を開ける。用具棚を一つずつ確認していった。


ボールの数。

バットの状態。

ラインカーの石灰。

ブラシの毛先。


誰かに言われたわけではない。この約三年間で身体に染みついた習慣だった。ラインを引いていく。真っ直ぐを意識した。ズレがないように慎重にである。白線が引かれていくたびにグラウンドが試合の場所に近づいていった。皆が使うマウンドの土を均す。スパイクで荒れた跡を手で丁寧に整えた。


(ここで…投げる)


そう思うと、ほんの一瞬だけ手が止まった。すぐに動かす。特別なことじゃない。いつも通りだ。


「おはようございます!」


とても元気な声が響いた。まだ未熟な一年生たちである。どこか、ぎこちない動きで荷物を運び込んできた。グラウンドに入る際は必ず一礼する。忘れた奴がポカっと頭を叩かれた。調子のいい連中かもしれない。


「おはよう」


顔を上げて軽く返した。


「き、霧島さん。もう準備終わってるんですか?」


「まだ途中だ。来て早々で悪いが、ボールをこっちに運んでくれるか」


「はい!」


指示を出す声もこれまでと変わらなかった。別に背番号をもらったからといって特別偉くなるわけじゃない。むしろ、やるべきことが増えた。一年生の一人がちらりと背中を見た。


「あの、霧島さんの背番号は20なんですね」


「うん」


「すごいっすね、ベンチ入り……」


どこか羨望の混じった声が聞こえる。霧島は少しだけ考えてから首を振った。


「すごくはないよ。これからだから」


それだけ言って、また作業に戻る。一年生は少し驚いた顔をした。それから強く頷く。まずはやるべきことをやる。霧島の実力はないかもしれない。それでも野球人の一人と敬うべきだ。


「……はい!」


練習が始まる頃にはグラウンドは整いきっていた。選手たちがぞろぞろと集まってキャッチボールが始まる。霧島もその中に混じった。以前と違うのは、ほんの少しだけ、視線が増えたこと。


「おい霧島。ブルペン入るか?」


神谷が声をかけてくる。


「はい」


短く返した。ブルペンに入ると空気が少し変わる。ここは試合に近い場所だ。いわば、選ばれた側の空間である。とは言え、やることは同じだった。指を立てる。あえて縫い目にかけないように。握りは浅くだ。すっと力を抜く。


(回すな)


ぶんと振る。ボールはふらりと揺れた。神谷のミットがわずかに遅れて鳴る。


「いいな」


短い一言。

もう一球。

もう一球。


汗が額を伝う。何度も、何度も、何度も。ナックルは未だ安定しなかった。なかなかに暴れる球も多い。それでも止めなかった。なぜなら、止める理由がどこにもないから。小休憩に入りベンチの隅で水を飲んでいると主将の黒沢が隣に座ってきた。


「相変わらずだな」


「何がだ?」


「朝の準備さ。昨日より早かっただろ」


見事な図星である。


「うん…少しだけ」


「ほんと変わらないな。お前はよ」


そう言って笑った。


「だから、推薦したんだよ」


その言葉に霧島は視線を落とした。何かを返そうとする。言葉が見つからない。


「勘違いするなよ」


主将の声が少しだけ低く変わった。


「情けで入れたんじゃない。必要だから入れた」


ふっと顔を上げる。そこはまっすぐな目だ。


「お前の球は流れ変える力ある」


短い言葉である。それで十分だった。


「わかった」


霧島の胸の奥に静かに火が灯る。その日の練習が終わった後のグラウンドには案の定か霧島だけが残っていた。日が傾いて影が長く伸びる。右手に持ったボールを見つめた。


まだ、完成していない。それでも、三年間を誰にも見られない場所で投げ続けてきた。その延長線に今がある。マウンドに立った。セットポジションだ。息を吐く。腕を振る。ボールは夕焼けの中で揺れた。それこそ不規則にである。しかし、確かに、前へ進んでいった。


「まだまだ……もっとだ」


誰もいないグラウンドに声が落ちる。


背番号20


それは、ゴールじゃない。ここから先に誰かのために投げる資格を得た。だから、やることは一つ。明日もまた誰より早く来るんだ。一年生には押し付けない。自分たちが練習するから自分たちで作る。


その次の日は久方ぶりのオフだった。さすがに息抜きが欲しくなる。しかし、霧島は緩まなかった。身体を休ませるが準備は怠らない。放課後に商店街を歩いた。古い引き戸を開けると、鈴がチリンチリン。


「いらっしゃい」


床屋の空気だった。整髪料の匂いとほんのり混じる石鹸の香り。店主に促されるままに黙って椅子に腰を下ろした。


「今日はどうする」


鏡越しに聞く。ここは子どもの頃から通っている。馴染みの床屋だ。多くを言わなくても分かってくれる。一度だけ自分の髪を見た。少し伸びた前髪である。汗で張りつく夏の髪だ。それを指で軽く押さえる。


「五厘で」


短く言った。店主の手が一瞬だけ止まる。すぐに頷いた。


「そうか」


それ以上は何も聞かない。バリカンの音が静かに響いた。


ジジジ


一定のリズムで髪が落ちていく。肩に触れる感触がやけに軽かった。鏡の中で、自分の輪郭がはっきりしていく。隠れるものがなくなっていった。


『甲子園、連れていってくれよ』


あの声がよぎる。一昨年亡くなった祖父の声だ。あの約束が思い浮かぶ。髪の毛が入ると痛いため目を閉じた。どこにも逃げ場はない。いいや、最初からなかった。バリカンが止まる。


「こんなもんだな」


鏡に映った自分は見慣れたようで違って見えた。余計なものが削ぎ落とされる。そこには覚悟だけが残っていた。これでいい。いいや、これが良くて訪れた。店主は笑う。


「似合ってるな」


ぽつりと言った。わずかに頭を下げた。


「ありがとうございます」



「その胸を張ってこい」


強い日差しが頭皮に直接当たった。


「熱い」


それが妙に心地よい。風が頭上をよく通った。

何も隠さない。ゆっくりと息を吐いた。


「行くか」


オフで頭もさっぱり。

翌日もいつもの時間に校門をくぐった。

何か違うざわめきがあった。


「おい、霧島!」


声が飛ぶ。クラスメイトたちが集まっていた。


「その頭、気合い入ってんな」


「五厘かよ、やるじゃん」


皆は笑いながらも、どこか真剣な目である。その中の一人が腕を組んで言った。


「俺らで応援団やろうと思ってる」


「はぁ…応援団?」


「おう。どうせやるなら、本気でやる」


別のやつが続いた。


「横断幕も作るし、声出しもやる」


「太鼓くらいは用意する。だってさ、あの応援団じゃ足りんら」



次々に言葉が重なる。冗談半分のよう。いいや、大きく本気だった。



「なんで」


口から出ている。自分でも少し驚いた。それは問いというより確認に近い。



「決まってんだろ」


肩を軽く叩いた。


「お前がやってきたの、見てるからだよ」



すぐには出なかった。何かを言おうとする。飲み込んだ。小さく頭を下げる。


「あぁ、どうか頼む」


それが精一杯だった。


「任せろって!」


「絶対盛り上げるからな!」


「打たれても責めねえけど、目一杯に投げろよな!」



笑い声が広がる。友の信頼があった。それからグラウンドに出る。いつも通りの準備を始めた。ラインを引く。ボールを並べる。マウンドを整える。やることは何一つも変わらない。



ただ一つだけ違う。それは背中に少しだけ重みが増えたことだ。背中を押し潰すような重さじゃない。むしろ、己を支えるような重さだ。霧島はボールを一つ手に取る。


「自分のやるべきこと」


五厘の頭に風が通った。そのまま前を向く。最後の夏が始まる。応援の声と約束を背負う。霧島はマウンドへ向かう準備を整えた。

続く

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