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背番号20  作者: 竹本田重郎


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1/2

その背番号は

白球の音だけがグラウンドに乾いた余韻を残していた。



打球は鋭く外野へ抜けていく。歓声が一拍遅れて爆ぜた。ベンチから飛び出した選手たち。土煙を巻き上げながらダイヤモンドを駆ける。その中心で主役は当然のように歓喜の輪に包まれていた。



霧島はフェンスの外から見ていた。



ネット越しの世界はどこか遠くにある。声も、熱も、すべてが一枚の膜を隔てた向こう側にあるようだった。彼の手には使い古されたボールが一つある。縫い目はわずかに擦り減った。指に馴染みすぎるほど馴染んでいる。



歓声はやがて収まって次のプレーへと流れた。グラウンドでは何事もなかったかのように整列が始まる。勝者と敗者が儀礼的な一礼を交わした。そのすべてが霧島にとっては外側の出来事である。



彼はゆっくりと腰を落とした。

転がってきたボールを拾い上げる。

ただ、それだけの役目だった。

三年間、変わらない役目だった。



「球拾い。慣れたな」



打球の行方を追う。誰よりも早く回収して次のプレーへとつないだ。そこに技術は要らない。名前も要らない。求められるのは正確性と速さだ。そして、存在しないことである。



目立たないこと。邪魔をしないこと、 彼に与えられた役割だ。霧島は立ち上がるとボールを軽く握り直す。指先に触れる縫い目の感触を確かめるように。その握りは一般的なものとは少し違っていた。



縫い目に指をかけない。あえて回転を与えない。どこか不自然な持ち方である。




「ナックル。これしかない」



野球という競技において、あまりにも異質な球種だ。回転しない球は空気の流れに翻弄されて予測不能な軌道を描く。打者にとっても、捕手にとっても、そして投げる本人にとってすら制御が難しい。だからこそ、多くの投手はそれを捨てた。



「安定しないものは勝負の場にふさわしくない」



霧島はその不安定さにこそ意味を見出していた。コントロールできないのではない。誰にも読ませないのだ。彼は誰もいない外野の隅で静かに構える。ざわめきも、ベンチの声も、ここまでは届かなかった。あるのは風の流れと自分の呼吸だけ。



一歩踏み出す。腕を振る。白球が空気の中へ放たれる。



ボールは回転しなかった。わずかに揺れながらミットの代わりに設置されたネットへと吸い込まれていく。その軌道は彼が意図したものとは微妙に違っていた。しかし、眉一つも動かさない。きっちりと想定内だった。むしろ、完璧に思い通りにいく方が「失敗」に近いのである。



彼は再びボールを拾い上げる。何度も、何度も。同じ動作を繰り返した。外から見れば単調な作業にしか見えない。それは彼にとっては唯一の練習だった。誰にも許可されていない、誰にも認められていない、ただ一人で積み重ねる時間である。その繰り返しの中で彼は一つの確信を育てた。



「この球は通用する」



根拠はなかった。データもなかった。成功体験すらほとんどなかった。



それでも、彼は信じていた。いや、信じるしかなかった。何も持っていなかったから。



「ボールを持ってきてくれ!」



「はい! いますぐ!」



これが日常だった。



水羽市立浅羽高等学校は歴史ある伝統校である。旧制中学を前身に有し古豪に該当したが最近は県大会のベスト8が最高位だった。甲子園の出場記録は一度もない。決勝すら進んだことがなかった。いわゆる中堅校かもしれない

その中で霧島世一は控えの控えですらなかった。出身中学は公立校であるが推薦ではなく一般入試を利用している。幼少期から野球を続けてきたがお世辞にもうまくなかった。ポジションは言わずもがな投手である。身長は低く腕も短かった。球速は130km/hの前半が精一杯のため昨今の剛腕派からは外れている。



浅羽高校の野球部に入ったものの案の定でベンチには入れなかった。2年に上がっても3年の春になっても変わらない。応援団に混じり声を張り上げた。毎日の練習ではいち早く来て準備を行った。最後にグラウンドを後にするが綺麗に整える。彼なりの敬意を払った。野球が大好き。それだけでよかった。



しかし、どこかで諦めていない。



「いきまーす!」



誰よりも声を張り上げた。ひたすらに投げ込む。下級生がとってくれた。正捕手はエースの球を受けている。春の大会はベスト8で終わった。いつも通りの終わり方である。次は最後の夏の県大会だ。まだ先であるが皆が全力を尽くす。甲子園に行くまでは終われなかった。今度こそは強豪を破る。野球の聖地で戦うんだ。目指すところは一緒である。したがって、霧島は腐らずに愚直に投げ込んだ。準備ばかりじゃない。彼にとって投げ込むことが一番の練習だった。



「霧島か…」



時間はあっと言う間に過ぎていく。やることは同じ、時間の進み方は同じ、それでも加速した。高校生活すら短くなっている。テストは赤点ギリギリだがクリアした。練習には参加できる。頭は良くないが必死に食らいついた。そうして運命のミーティングを迎える。



グラウンドに朝の光が差し込んだ。まだ誰もいない土の上に昨夜の整備の跡が残っている。綺麗に均されたマウンドと丁寧に引かれた白線だ。それを作ったのが誰かを知っている者は少ない。霧島は一番に来て最後に帰った。 それが三年間は変わらない。ロッカールームの扉を開けるとわずかにオイルの匂いが残っていた。昨日の夜にバットを磨いたから。乾いた布を手に取った。今日も同じように当たり前の仕事をする。



「もう…最後か」



小さく呟いた声は自分にしか聞こえなかった。三年生にとって最後の夏が来る。ベンチ入りメンバーの発表はミーティングで行われる。期待なんてしていなかった。そう思い込もうとしてできない。いざグラウンドに出ると朝露に濡れたボールが一つ転がっていた。それを拾い上げて指先で回す。



そっと握った。ひと呼吸。腕を振る。



彼から放たれたボールは空気の中でふらりと揺れた。 風に触れた葉のように不規則である。ナックルボールだ。誰にも教わらない。誰にも評価されない。彼がひたすら磨き上げてきた。別に実戦で使わなくても構わない。何かないと狂いそうだった。



「またそれやってんのか」



背後から声がする。正捕手の神谷がミットを肩にかけて立っていた。



「朝から変な球投げてるな」



「あぁ」



「もう一球投げてみろ」



霧島少しだけ迷ってから頷いた。神谷がずっしりと座ってミットを構えている。さすがの安心感だ。きっと受けてくれる。それだけで胸の奥がわずかに熱くなった。いつも通りに投げてみる。ボールは再び不規則に揺れた。神谷のミットがわずかに遅れてなる。



「やっぱり読めねえな」



「すまん」



「な~に謝るなって。これなぁ。これを打つ方はもっと嫌だぞ」



神谷はそう言って笑った。その笑いが冗談ではない。霧島は知っていた。



「試合じゃ使えない」



言葉にする。現実が重くのしかかった。

暴れる球。捕れない可能性。失点のリスク。

勝つための野球には向いていない。



そう、思われてきた。そう、扱われてきた。



「それを決めるのはお前じゃねえ」



神谷はミットを肩に担ぎ直した。



「俺は受けるぞ」



その言葉に返す言葉が見つからなかった。

さて、ミーティングの時間になる。独特の緊張が漂っていた。三年生から二年生、一年生までの全員が無言で座る。彼らの前に立つ榊監督を見ていた。折り畳み式机の上には一枚の紙がある。ベンチ入りメンバー表だ。霧島は最後列に座っていた。いつも通りの位置にしていつも通りの立場である。それでいい。そう思いながらも視線は紙から離れなかった。



「これから、夏の大会のベンチ入りメンバーを発表する」



監督の声は低くもはっきりしていた。



一人ずつ名前が呼ばれていく。

主力たちだ。

当然のように呼ばれる。

そのたびに、返事が響いた。

霧島の手は膝の上で固く握られていた。



関係ない。

ここまではいつもと同じだった。

絶対に呼ばれない。

それが自分だ。

そう、思っていた。



「次だな。今回から枠が20まで増えたからな」



監督が少しだけ間を置いた。紙から目を上げる。

その視線がまっすぐこちらに向いた気がした。

気のせいか。



「背番号20…霧島世一」



何を言われたのかわからなかった。彼の周囲の空気が確かに揺れる。



「はい!」



自然に声が出た。

背番号は20番だ。

ベンチ入りだ。

自分がだ。



「お前は推薦があった」



監督の言葉が続けられる。



「主将、捕手、それから数名だな。お前の名前を挙げたよ」



視線を感じる。神谷が軽く顎を引いた。主将も何も言わずに頷いている。



「三年間。よくやったな」



監督の声は、いつもと同じはずなのに、少しだけ違って聞こえた。



「見ているやつは見ている」



言葉にできないものが、込み上げてくる。



「ただし!」



監督の声が厳しくなった。



「入っただけで満足するな。背番号は責任を伴う」



「はい!」



はっきりと声が出る。

ミーティングが終わった。ロッカーに戻る。自分のロッカーに小さな紙袋が置かれていた。中を開ける。白いユニフォームだ。 その背中に黒い数字である。



20



指先でなぞった。布の感触がやけに現実味を帯びる。



「似合ってるじゃねえか」



神谷が立っていた。



「まだ、着てない」



「着なくてもわかる」



肩を軽く叩かれる。



「これからだろ」



ようやく実感が追いついてきた。ここがスタートラインだと。ベンチの外から見ていた景色に、 自分が立つことになるのだと。ユニフォームを胸に抱いた。ナックルはまだ不完全である。試合で通用する保証もなかった。それでも高校三年間を積み重ねてきたものがここにある。



「投げる」



誰に言うでもなく呟いた。神谷が笑う。



「当たり前だろ。しっかり、受けてやるよ」



背番号20。



それは、選ばれた証ではない。



ここから戦う資格だった。



続く

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