ep.8 世界に咲く、君という光
春が来た。
ゆっくりと、でも確実に。
肌を刺すような風はやわらぎ、木々のつぼみがふくらみはじめる。誰かが花粉を気にしながらマスクをつけ、卒業を目前にした生徒たちが、どこか浮かれた空気をまとっている。
そんな季節のなかで、僕はふと、エリのことを“いまここにいる存在”として感じていた。
「ほら、陽人くん。梅が咲いてる」
エリが指差した先には、小さな白い花がいくつも咲いていた。
校舎の裏手、誰も気づかないような場所にある古い梅の木。
地味で、華やかじゃなくて、だけど凛としていて。
「……君みたいだな」
僕が思わずそう呟くと、エリはふふっと笑った。
「やだ、梅の花っておばあちゃんっぽいよ?」
「ちがう。誰も見てない場所で、ちゃんと咲いてるってとこがさ。……強いよ、すごく」
エリは何も言わず、梅の花をじっと見つめた。
その視線の奥にある想いを、僕はなんとなく感じ取っていた。
彼女は、誰にも見えなかった“空想”から、今こうして、現実の中で花開こうとしている。
——その努力が、光が、何よりも尊かった。
*
僕たちの学校では、三月の終わりに卒業式が行われる。
高校三年生の僕も、いよいよ制服を脱ぐときが迫っていた。
進学先は、地元の国立大。教育学部。
教師になろうと思ったのは、誰かを“見つける側”に立ちたかったからだ。
エリのように、誰にも気づかれなかった存在に、ちゃんと「ここにいるよ」と言ってあげられるように。
「……教師って、似合うかもね」
ある日、エリがそう言ってくれた。
「厳しい?」
「いや、優しすぎて生徒になめられるタイプかな」
「おい」
二人で笑いあった。そんなささやかな日々が、今はなにより愛おしい。
だけど、春は「別れ」の季節でもある。
*
三月十日。
卒業式の予行演習を終えたその日の放課後。
エリは、いつもと違う静けさをまとって僕に言った。
「陽人くん。……一つ、お願いがあるの」
「うん。何?」
「“わたしを誰かに紹介して”。……もう一度、ユカリちゃんじゃなくて、“まったく私を知らない誰か”に」
僕は少しだけ、言葉に詰まった。
「見えるかどうか、わからないよ」
「それでもいい。私、陽人くんとだけじゃなく、“他人の記憶”にも残ってみたい」
「……エリ」
「陽人くんがくれた時間で、私はここまで来れた。だけど、最後の一歩は、自分の足で踏み出したい」
その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。
エリがまた、“先”を見ている。
それは誇らしい反面、どこかで——怖かった。
彼女が僕の手を離れて、自分の世界を持ってしまったら。
もしも、その先に“僕がいなくても大丈夫”な未来があったら。
でも、僕は逃げないと決めていた。
エリが空想ではなく、現実になるために。
——僕は“彼氏”じゃなく、“創造主”として、彼女の背中を押さなきゃいけない。
「……わかった。紹介する。絶対、ちゃんと」
「ありがとう」
エリの笑顔は、少し涙ぐんでいた。
*
紹介すると決めたのは、僕の中学時代の友人、田代レンだった。
彼は視点が鋭く、変なことを言っても笑わずに聞いてくれる珍しいやつだ。
「で? お前が紹介したい子って?」
「……今ここにいる。隣に」
「……は?」
「聞こえなくてもいい。ただ、信じてやってくれ。“ここにいる”って」
レンは眉をしかめ、しばらく無言だった。
「……マジで言ってんの?」
「うん」
すると、彼はポケットから小さなメモ帳を取り出した。
「じゃあさ、その子のこと、俺が“ここにいたって記録”するから。それでいい?」
「……いいのか?」
「お前がここまで真剣なら、俺も“真剣にバカ”やってやるよ」
僕は、ありがとう、と言って頭を下げた。
エリの隣で、彼女が目を潤ませていた。
「……ありがとう、田代くん」
彼の耳に届いたかはわからない。
でも、あの日、確かにエリは“他人の世界”に残った。
*
卒業式の日が来た。
式が終わり、花束をもらい、教室がざわめくなか。
僕は最後の制服姿のまま、校庭のベンチに座っていた。
隣には、もちろんエリがいた。
「ここまで来たんだね、私たち」
「ああ。……君は、もう大丈夫だよ」
「……でも、ちょっと、怖いな。陽人くんといなくなるの」
「“いなくなる”って?」
「君の想像に頼らずに生きていけたら……きっと私は、君と距離をとることになると思う。……それでもいい?」
僕は静かにうなずいた。
「うん。……いいよ。君が、“世界の中で咲けるなら”」
そうだ。
空想じゃなく、思い出でもなく、彼女が彼女の人生を生きるために
僕は、彼女に「さよなら」じゃなく「いってらっしゃい」を言いたかった。
エリは立ち上がり、ベンチの前に回って、僕の目の前で深く息を吸った。
「……陽人くん。私はこれから、自分の名前で、生きていく。空想じゃなくて、実感として。君がくれたすべてを胸に、世界にちゃんと触れてみる」
その宣言は、涙ぐむ僕の胸にまっすぐ届いた。
「エリ……」
「ありがとう。ほんとうに」
そして彼女は、光の中に立ち尽くしていた。
まるで、春そのもののように。。