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ep.8 世界に咲く、君という光

 春が来た。


 ゆっくりと、でも確実に。

 肌を刺すような風はやわらぎ、木々のつぼみがふくらみはじめる。誰かが花粉を気にしながらマスクをつけ、卒業を目前にした生徒たちが、どこか浮かれた空気をまとっている。

 そんな季節のなかで、僕はふと、エリのことを“いまここにいる存在”として感じていた。


「ほら、陽人くん。梅が咲いてる」


 エリが指差した先には、小さな白い花がいくつも咲いていた。

 校舎の裏手、誰も気づかないような場所にある古い梅の木。

 地味で、華やかじゃなくて、だけど凛としていて。


 「……君みたいだな」


 僕が思わずそう呟くと、エリはふふっと笑った。


「やだ、梅の花っておばあちゃんっぽいよ?」


「ちがう。誰も見てない場所で、ちゃんと咲いてるってとこがさ。……強いよ、すごく」


 エリは何も言わず、梅の花をじっと見つめた。

 その視線の奥にある想いを、僕はなんとなく感じ取っていた。


 彼女は、誰にも見えなかった“空想”から、今こうして、現実の中で花開こうとしている。


 ——その努力が、光が、何よりも尊かった。



 僕たちの学校では、三月の終わりに卒業式が行われる。

 高校三年生の僕も、いよいよ制服を脱ぐときが迫っていた。


 進学先は、地元の国立大。教育学部。

 教師になろうと思ったのは、誰かを“見つける側”に立ちたかったからだ。

 エリのように、誰にも気づかれなかった存在に、ちゃんと「ここにいるよ」と言ってあげられるように。


「……教師って、似合うかもね」


 ある日、エリがそう言ってくれた。


「厳しい?」


「いや、優しすぎて生徒になめられるタイプかな」


「おい」


 二人で笑いあった。そんなささやかな日々が、今はなにより愛おしい。


 だけど、春は「別れ」の季節でもある。



 三月十日。


 卒業式の予行演習を終えたその日の放課後。

 エリは、いつもと違う静けさをまとって僕に言った。


「陽人くん。……一つ、お願いがあるの」


「うん。何?」


「“わたしを誰かに紹介して”。……もう一度、ユカリちゃんじゃなくて、“まったく私を知らない誰か”に」


 僕は少しだけ、言葉に詰まった。


「見えるかどうか、わからないよ」


「それでもいい。私、陽人くんとだけじゃなく、“他人の記憶”にも残ってみたい」


「……エリ」


「陽人くんがくれた時間で、私はここまで来れた。だけど、最後の一歩は、自分の足で踏み出したい」


 その言葉に、胸がぎゅっと締めつけられた。


 エリがまた、“先”を見ている。

 それは誇らしい反面、どこかで——怖かった。

 彼女が僕の手を離れて、自分の世界を持ってしまったら。

 もしも、その先に“僕がいなくても大丈夫”な未来があったら。


 でも、僕は逃げないと決めていた。

 エリが空想ではなく、現実になるために。

 ——僕は“彼氏”じゃなく、“創造主”として、彼女の背中を押さなきゃいけない。


「……わかった。紹介する。絶対、ちゃんと」


「ありがとう」


 エリの笑顔は、少し涙ぐんでいた。



 紹介すると決めたのは、僕の中学時代の友人、田代レンだった。

 彼は視点が鋭く、変なことを言っても笑わずに聞いてくれる珍しいやつだ。


「で? お前が紹介したい子って?」


「……今ここにいる。隣に」


「……は?」


「聞こえなくてもいい。ただ、信じてやってくれ。“ここにいる”って」


 レンは眉をしかめ、しばらく無言だった。


「……マジで言ってんの?」


「うん」


 すると、彼はポケットから小さなメモ帳を取り出した。


「じゃあさ、その子のこと、俺が“ここにいたって記録”するから。それでいい?」


「……いいのか?」


「お前がここまで真剣なら、俺も“真剣にバカ”やってやるよ」


 僕は、ありがとう、と言って頭を下げた。

 エリの隣で、彼女が目を潤ませていた。


「……ありがとう、田代くん」


 彼の耳に届いたかはわからない。

 でも、あの日、確かにエリは“他人の世界”に残った。



 卒業式の日が来た。

 式が終わり、花束をもらい、教室がざわめくなか。

 僕は最後の制服姿のまま、校庭のベンチに座っていた。


 隣には、もちろんエリがいた。


「ここまで来たんだね、私たち」


「ああ。……君は、もう大丈夫だよ」


「……でも、ちょっと、怖いな。陽人くんといなくなるの」


「“いなくなる”って?」


「君の想像に頼らずに生きていけたら……きっと私は、君と距離をとることになると思う。……それでもいい?」


 僕は静かにうなずいた。


「うん。……いいよ。君が、“世界の中で咲けるなら”」


 そうだ。

 空想じゃなく、思い出でもなく、彼女が彼女の人生を生きるために

 僕は、彼女に「さよなら」じゃなく「いってらっしゃい」を言いたかった。


 エリは立ち上がり、ベンチの前に回って、僕の目の前で深く息を吸った。


「……陽人くん。私はこれから、自分の名前で、生きていく。空想じゃなくて、実感として。君がくれたすべてを胸に、世界にちゃんと触れてみる」


 その宣言は、涙ぐむ僕の胸にまっすぐ届いた。


「エリ……」


「ありがとう。ほんとうに」


 そして彼女は、光の中に立ち尽くしていた。

 まるで、春そのもののように。。

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