Ep.19 そらから、みず。
病院の灯りが見えなくなってからも、俺はしばらくバイクを止めなかった。
さっきまであれだけ銃弾が飛んでいたのに、街はもう何事もなかったように静かだった。
風の音と、エンジン音だけが続く。
十分ほど走ったところで、ピコが頭上から声を発した。
『主様。追跡信号は現在確認できません』
「……そうか」
『ただし、安全を保証するものではありません』
「分かってる」
『念のためです』
「それも分かってる」
頭の上でピコのプロペラが小さく唸る。
俺は速度を少し落とした。
前方に、半分ほど崩れた雑居ビルが見えてきた。一階部分にはかつて何かの事務所が入っていたらしく、色褪せた看板の骨組みだけが残っている。入口は割れたガラスと瓦礫で塞がれていたが、建物の横にある駐車スペースは比較的開けていた。
「一回止まるぞ」
「ここ?」
「ああ。ちょっと休憩」
バイクを建物の陰へ滑り込ませ、道路から直接見えない位置でエンジンを切った。
急に静かになる。
アイが先に降りる。
俺も跨がったまま周囲を確認し、最後にピコが頭から離れた。
『近距離に敵性反応なし。周辺の電波活動も極めて低調です』
「よし」
バイクをさらに奥へ押し込んだ。
壁際まで寄せてから、ようやく息を吐く。
弾は、もう一発も残っていない。
「……空っぽか」
アイが横から覗き込んだ。
「ああ」
「もう、ばんってできない?」
「できない」
「ずっと?」
「弾が見つかるまでな」
アイはM-68をじっと見つめ、それから俺の顔を見る。
「じゃあ、みつける?」
「そのつもり」
『優先度の高い課題です』
ピコが戻ってきた。
「だから場所を決める」
俺はM-68をホルスターへ戻し、荷物から端末を取り出した。
建物の壁を見回す。
比較的平らで、崩れていない場所を選ぶ。
「ピコ、投影」
『了解』
端末とピコを接続すると、薄暗い壁の上に光が広がった。最初は輪郭だけだったものが、数秒かけて細かな線へ変わっていく。
俺たちの周辺地図だ。
中心には病院。
そこから道路が伸び、建物の情報と、俺がこれまで二ヶ月かけて追加してきた記録が重なっている。通れる道路、崩落地点、水を確保できる場所、物資を回収した建物、燃料候補。それから、小さな赤い印がいくつも散らばっていた。
敵性機械との遭遇地点だ。
アイが壁へ近づいた。
「いっぱい」
「何が?」
「これ」
赤い印を指差す。
「ああ」
「ぜんぶ、てき?」
「そうだな」
俺は地図を眺めた。
今日みたいなことが初めてだったわけじゃない。
この五年間、何度も旧式の自律兵器に出くわしている。遠くを通過しただけのものもいれば、俺を標的として認識したものもいた。撃ち合いになったことだって一度や二度じゃない。
ただ、今日までの奴らには共通点があった。
俺を見れば攻撃する。
あるいは、縄張りみたいな一定範囲へ入れば反応する。
それだけだった。
病院まで追ってきて、包囲して、特定の誰かを探すような真似をした奴はいない。
俺は病院の位置を見る。
そこにも新しい赤い印が追加されていた。
「……やっぱり違うな」
「なにが?」
「今日の奴らだよ」
アイが病院の印を見る。
俺は何も言わず、地図を少し東へ動かした。
生活圏の中にある店舗。
その地下で、俺はアイを見つけた。
さらにそこから少し東へ行ったところには、旧ガソリンスタンドがある。
燃料を取りに行った場所。
そして、アイを《IS-003》と呼んだ四脚兵器と初めて遭遇した場所。
そこにも赤い印がある。
「これ」
アイが店舗を指差した。
「アイがいたところ」
「ああ」
「こっちは?」
今度はガソリンスタンド。
「覚えてるだろ」
しばらく考える。
「……くろいの」
「ああ」
「おじさん、けがした」
俺は無意識に右の上腕へ触れた。
傷はもうかなり塞がっている。
「そうだな」
アイの視線が俺の腕に落ちた。
「まだ、いたい?」
「ほとんど痛くねえよ」
「なおった?」
「もうちょい」
「もうちょい」
アイが小さく繰り返した。
ピコが地図の表示を調整する。
『地下保管庫の水量についても推定値を更新しますか』
「ああ」
店舗の横に表示されていた記録が変わる。
発見当初、地下タンクには約87Lの水が残っていた。
あれから一週間。
何度か運び、浄水と煮沸をして使っている。俺だけならかなり保つ量だが、調理や洗浄にも回したせいで当然減っていた。
『現在の推定残量、約76リットルです』
「まだ結構あるな」
『使用量を維持した場合、当面の水源として利用可能です』
「戻れれば、だけどな」
その言葉で、少し空気が止まった。
アイが病院を見る。
「おうち、もどれない?」
「今はな」
「ずっと?」
「それをなんとかするために、今こうしてんだよ」
俺は地図を縮小した。
病院を中心に、俺たちがこれまで動いてきた範囲が見える。
だいたい半径5km。
正確に円を描いて生活していたわけじゃないが、この辺りまでなら道路状況もそれなりに頭へ入っている。どこが通れて、どこが危険で、どこを探しても何もないか。二ヶ月かけて、少しずつ覚えてきた。
問題は、その外だ。
表示をさらに広げる。
途端に、地図から俺自身の記録が減った。
道路や建物の情報は残っている。だが、それらの多くは戦争以前か、せいぜい戦時中に更新されたものだ。
今もその道があるとは限らない。
建物が立っているとも限らない。
敵がいない保証なんて、もっとない。
アイが壁の地図を眺める。
「なんにもない」
「地図にはある」
「でも、しるし、ない」
「俺が行ってないからな」
「おじさんも?」
「俺だって東京全部歩いたわけじゃねえよ」
アイは少し驚いたような顔をした。
「おじさん、しらない?」
「知らないことくらいある」
「いっぱい?」
「……まあ、いっぱい」
「アイとおなじ?」
「一緒にすんな」
『未知の情報量という観点では、大きな差はありません』
「ピコ」
『はい』
「黙ってろ」
『了解しました』
アイが少し笑った。
俺は地図へ視線を戻す。
目的地は、すでに決まりかけていた。
病院から北西方向。
これまでの生活圏を少し越えた位置に、一つの印がある。
旧警察施設。
直線距離で、およそ6.8キロ。
存在そのものは以前から把握していた。
ただ、そこへ向かう道路は途中から状態が悪くなる。戦時中に戦闘があった区域にも近い。食料や水を探すだけなら、わざわざ危険を冒して行く必要はなかった。
だから後回しにしていた。
今日までは。
「ここだな」
「ここ?」
アイが指差す。
「警察の施設」
「けいさつ?」
「あー……」
説明しようとして止まる。
こいつに警察を説明するの、面倒くせえな。
「悪いことする奴を捕まえたり、人を助けたりする仕事があったんだよ」
「おじさん?」
「違う」
即答した。
『主様は過去に警察施設への無断侵入を――』
「ピコ」
『はい』
「それ以上言うな」
『了解しました』
アイが俺を見る。
「わるいこと?」
「してない」
『正確には――』
「黙れ」
『了解しました』
どうしてこういうときだけ補足したがるんだ。
俺は咳払いして地図へ向き直る。
「とにかく。警察は武器を持ってた」
「ばんってするやつ?」
「ああ」
「おじさんのも?」
「同じ弾が残ってる可能性はある」
もちろん保証はない。
戦争が終わって五年。
その施設が当時どう使われ、最後に誰がいたのかも分からない。武器も弾薬も全部持ち出されている可能性の方が高い。
それでも、今の俺たちには行く価値がある。
「第一目的は弾。あれば回収する」
『同意します』
「その次に使えそうな物資。通信機器、記録端末、医薬品。何でもいい」
『IS-003に関する情報は?』
俺は少し黙った。
アイがこっちを見る。
「アイ?」
「あれば見る。でも、まずは弾だ」
今は順番を間違えるわけにはいかない。
アイの正体が何なのか。
どうして兵器がこいつを探しているのか。
知りたい。
だが、その答えを見つける前に撃たれて死んだら意味がない。
俺は腰のM-68を軽く叩いた。
「こいつをただの重りから武器に戻す」
アイもM-68を見る。
「たま」
「そう。弾」
「いっぱい?」
「いっぱいあれば嬉しいな」
『期待値を上げすぎることは推奨しません』
「分かってるよ」
俺は目的地を端末に設定した。
病院から旧警察施設までは直線で約6.7キロ。
だが、俺たちはすでに病院から南へ逃げてきている。ここからなら、直線でおよそ7キロ少し。道路をそのまま使えれば大した距離じゃない。
道路をそのまま使えれば、の話だが。
「行くぞ」
「うん」
投影を切る。
地図が消え、壁は再び汚れたコンクリートへ戻った。
外へ出る前に水を一口飲む。
アイにも差し出した。
「飲むか?」
アイは容器を見た。
「おなか、へってない」
「水は腹減ったときに飲むもんじゃねえ」
「のど?」
「そう」
「かわいてない」
「……そうだったな」
『アイに脱水兆候は確認されていません』
「分かってる」
それでもアイは俺の持っている容器を見つめた。
「のみたい」
「どっちだよ」
「おいしいから」
「……ほら」
渡してやる。
アイは両手で容器を持ち、少しだけ口に含んだ。
ごくん。
それから俺へ返す。
「おいしい」
「ただの水だぞ」
「おいしい」
「ならいいけど」
容器をしまう。
俺たちは再びバイクへ向かった。
空を見上げる。
さっき病院を出たときより、雲が厚くなっていた。
灰色の雲が低く垂れ込み、街全体を覆っている。遠くの高層建築は上の方が霞み、輪郭がぼやけていた。
風も少し冷たい。
「降るかもな」
「なにが?」
「雨」
アイも空を見る。
「雨」
「ああ」
「みず?」
「空からな」
「いっぱい?」
「たぶん」
「タンクみたいに?」
「そういう感じじゃねえよ」
『降水確率を算出するための気象情報が不足しています』
「見りゃ分かるだろ。降りそうだ」
『科学的根拠としては不十分です』
「雲見て言ってんだよ」
『雲量と降水は必ずしも――』
「ピコ」
『はい』
「出発するぞ」
『了解しました』
アイが先にバイクへ乗る。
俺も後ろへ跨がり、エンジンをかけた。
ピコが飛び上がる。
そして当然のように俺の頭へしがみついた。
「……お前、せめて肩とかにできない?」
『走行中の安定性が低下します』
「俺の首の安定性は?」
『現時点で異常ありません』
「そうかよ」
アクセルを回す。
バイクが動き出した。
最初の数キロは、まだ俺の知っている街だった。
曲がる場所も分かる。崩れた道路も知っている。放置車両の間を抜ける細い経路も、倒壊した建物を避ける迂回路も頭に入っている。
アイは前に座り、流れていく街を眺めていた。
以前なら目に入るものすべてを指差していたが、今は少し違う。知っているものが増えたせいか、何でも聞くことはなくなった。
壊れた車。
信号機。
電柱。
鳥。
看板。
知っているものは、ただ目で追う。
その変化が、妙に面白かった。
しばらく進むと、アイが前方を指差した。
「おじさん」
「ん?」
「あそこ、まえいった」
視線の先には、半分崩れたドラッグストアがある。
「ああ。行ったな」
「なにもなかった」
「よく覚えてんな」
「ピコが、からっぽっていった」
『正確には、利用可能な物資は確認できない、と発言しました』
「同じだろ」
『異なります』
「アイ。あれは空っぽだった」
「からっぽ」
『……』
「俺の勝ち」
『勝敗を競っていた認識はありません』
「そういうとこだぞ」
バイクはそのまま北へ進む。
やがて、見覚えのある交差点へ出た。
ここから先。
俺が日常的に使っていた探索圏の端に近い。
信号は当然消えている。
道路の向こうには、傾いた歩道橋が斜めに垂れ下がっていた。
俺は少しだけ速度を落とした。
アイが気づく。
「どうしたの?」
「ここから先は、あんまり知らない」
「おじさんも?」
「ああ」
「はじめて?」
「完全に初めてじゃない。でも、ちゃんと調べたことはない」
アイは前を見る。
その横顔に、不安より先に興味が浮かんだ。
「しらないところ」
「ああ」
「いっぱいある?」
「いっぱいある」
「じゃあ、みる」
「見るだけにしろよ。勝手に触んな」
「わかってる」
即答だった。
少し前なら、まず触ってから聞いていただろう。
俺は小さく笑った。
「なんでわらった?」
「別に」
「へん」
「前見てろ」
「おじさんも」
「俺は見てる」
交差点を越える。
そこから先は、少しずつ街の様子が変わっていった。
劇的に何かが違うわけじゃない。壊れた建物も、放置車両も、伸びた雑草も、これまでと同じだ。
ただ、俺の中に情報がない。
あの角の向こうに何があるのか。
この道路がどこまで通れるのか。
あの建物が安全なのか。
それが分からないだけで、同じ廃墟がまるで別の街に見えた。
端末では、この道路は旧警察施設の近くまで続いている。
俺はその表示を信じて進んだ。
五百メートルほどだった。
「……嘘だろ」
バイクを止める。
目の前で道路が消えていた。
正確には、道路そのものはある。
ただ、その上に七階建てほどの建物が倒れ込んでいた。
外壁も床も一緒くたになった巨大な瓦礫の山が、道路を端から端まで完全に塞いでいる。錆びた鉄骨が何本も突き出し、その隙間から植物が伸びていた。
どう見てもバイクでは抜けられない。
アイが端末を見る。
俺も見る。
表示上では、目の前を一本の道路がまっすぐ伸びている。
アイが首を傾げた。
「みち、あるよ?」
「地図じゃな」
「でも、ない」
「そうだな」
「まちがってる?」
俺は瓦礫を見上げた。
「地図が古いんだよ」
「ふるい?」
「これがこうなる前の地図ってこと」
アイは道路と端末を交互に見る。
「じゃあ、いまの、かく?」
俺は一瞬、言葉を止めた。
それから笑った。
「……そうする」
端末を操作する。
目の前の道路に、新しい印を追加した。
《崩落・車両通行不能》
ピコが位置情報を補正する。
『記録しました』
アイが画面を見る。
「いまのになった」
「ああ」
これまで俺が二ヶ月かけてやってきたことだった。
歩いて。
見て。
危険な場所を避けて。
使える場所を覚えて。
少しずつ地図を今の世界へ書き換える。
今日からは、その続きを三人でやる。
「迂回するぞ」
『東側に代替経路があります』
「通れる?」
『地図上では』
「その言い方、もう信用できねえな」
『私ではなく地図情報の問題です』
「分かってるよ」
バイクを反転させる。
そのときだった。
ぽつ。
ヘルメットの上で、小さな音がした。
アイが顔を上げる。
ぽつ。
今度はアイの頬。
小さな水滴が一つ、白い肌の上を流れた。
アイは指でそれを拭った。
指先を見る。
また一滴。
淡い水色の髪に落ちた。
「おじさん」
「ん?」
「これ」
アイが濡れた指を見せる。
俺は空を見上げた。
低く垂れ込めた灰色の雲から、細かな雨粒が落ち始めている。
「雨だよ」
アイも空を見る。
頬に一滴。
額に一滴。
髪に一滴。
それでも目を逸らさなかった。
「これが、雨」
「ああ」
アイは手のひらを上へ向けた。
ぽつ。
ぽつ。
小さな手の上に、透明な粒が増えていく。
「そらから、みず」
「だから言ったろ」
「いっぱいくる?」
「たぶんな」
アイは少しだけ笑った。
「すごい」
「十分後も同じこと言ってられるといいな」
『主様』
「なんだ」
『降水量が増加しています』
「……見れば分かる」
ぽつ、ぽつ、と落ちていた雨は、いつの間にか途切れなくなっていた。
乾いていたアスファルトに黒い染みが増え、それらが繋がって路面全体を濡らしていく。瓦礫に積もった埃が流れ、街の色が少しずつ暗くなっていった。
遠くの建物が、雨の向こうへ霞み始める。
俺はバイクのハンドルを握り直した。
「行くぞ。強くなる前に警察施設まで行く」
「うん」
アイはまだ空を見ていた。
「アイ」
「なに?」
「前」
「うん」
ようやく前を向く。
アクセルを回した。
濡れ始めた道路を、バイクがゆっくり走り出す。
俺たちの知っている街は、もう後ろだった。
ここから先は、端末の中にしか知らない道。
そして、その地図さえ正しいとは限らない。
雨脚が少しずつ強くなる。
灰色の街の向こうで、旧警察施設の印だけが端末の画面に浮かんでいた。




